第四部 多摩川緑地 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その4 多摩川緑地 (下)


(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)

 
2002年は台風のあたり年らしいと言われたが、関東地方では実害はそれほどのことはなかった。最初の写真([No.441])は2002年台風6号が房総半島を縦断した翌朝の風景。台風一過の景観は独特だ。陽射しが強い、色が鮮やかに見える、遠くのものがはっきり見える、何が一番効いているのか分からないが、日頃見慣れた景色が全く違ったものに見え、何かいままで真実を隠していたヴェールが剥がされたような感じがして感動する。
次の夜景の方 [No443a] は撮影位置はほぼ同じだが、時期は15ヶ月経っている。2枚の景色で顕著に異なるのはドコモビルの右側。川淵に小さなビル(ミユキ組)があり、その背後がJR川崎駅西口前(大宮町)再開発地域になる。2002年の台風一過の頃は建設は未だ緒についたばかりでクレーンが見えているが、2003年秋の夜景を撮った頃にはメインビル(ミューザ川崎)が9分どおり完成している。
[No.441] は河口から7キロメートル地点の左岸、多摩川緑地中間辺りの堤防上で川下の方向を見ている。左端に六郷橋の川上寄りにあるJR六郷橋梁が見えている。シダレヤナギの線が緑地端(川縁)の土手になるが、この辺りでは土手は高さを増し川面は見えない。
正面のビル群は「かわさきテクノピア」地区である。テクノピアはテクノロジーとユートピアを結びつけた造語で、第一期が昭和63年に供用を開始したインテリジェントシティだ。

テクノピアの左側、屋上が塔になっているビルは川崎市役所第3庁舎、その左(白っぽい四角いビル)は川崎区役所の本庁舎。この区役所は第一京浜国道沿いにあるので、ここが六郷橋の延長線上ということになる。一方テクノピアビル群の右側、屋上が3塔に分かれているのはNTTドコモ川崎ビル。ドコモビルはJRが川崎駅を鶴見方向に出た海側の線路際にあるので、JR六郷橋梁の延長線はここに繋がることになる。
同じ位置の夜景(6時頃) [No443b] は [No.441] から1年半近く経っている。[No.441] でクレーンが見えていたドコモビルの向かい側(画面ではドコモビルの右側)に、オープンしたばかりのJR西口駅前「ミューザ川崎」のセントラルタワーが出来ている。(ドコモ側に白く光って見えるところは併設されたシンフォニーホール)
(2006年春の時点では、川崎駅前北側の東芝跡地にラゾーナ・レジデンスの建設が進行中で、多分夏頃までにはここからドコモビルは見えなくなると思われるたが、実際にはソリッドスクェアの右側に重なるような位置に建った。(ラゾーナ・レジデンスを含む景観は下に掲載した2007年の [No.44X] を参照。尚JR駅前に隣接した商業施設ラゾーナの方は高さが低いので、ビルの隙間にチラホラとカラフルな壁部が見えるに留まっている。)
(ドコモビルとミューザ川崎については [参考25] の (4) を参照

2014年2月8日に日本列島の南側に低気圧の接近があり、全国的に防風雪となったが、関東地方は平野部でも珍しく吹雪が吹き荒れ、20年振りの大雪模様となって都心で27センチの積雪を記録した。
写真は翌日の午前中に撮った。歩行が難しいような足場で遠出は出来ない。まず六郷橋に上がり京急の鉄橋を撮り(別掲)、その後橋を降りて堤防上を上手方向に進み多摩川緑地の雪景色を撮った。
[No.44A1] は六郷橋から京急、JRの橋梁を抜けて堤防上に上がり、多摩川緑地の管理事務所前辺りまで進んで、対岸のテクノピアを正面に見るような位置で撮った。左に見えている橋梁はJR京浜東北線のコンクリート桁橋。次の [No.44A2] は対岸はスーパー堤防で、テクノピアからグランエステのツインタワーまでの方向で、多摩川緑地は野球グランドが並ぶ主要部になる。次の [No.44A3] は対岸のスーパー堤防上はフジトピアを経てアクアリーナが3棟並ぶ位置までの方向。右端に遠望される高層ビルは鹿島田駅手前の新川崎三井ビル東西とサウザンドタワー。多摩川緑地は野球グランドからサッカーグランドに移る辺り。最後の [No.44A4] は右端が多摩川大橋辺り。その左にガス橋方向に向う途中のゴミ焼却場の煙突が見え、その背後はガス橋袂のキヤノン本社ビル。その左(画面のほゞ中央)に遠望されている高層ビル群は武蔵小杉周辺で、かなり遠くになるがこれほどはっきり見えるのは、空気が乾燥して大気中に水蒸気が少ないため。


2007年の台風9号は9月7日午前中に東京の西側を通過した。日本列島の東南方面で発生し、相模灘方向に北上してくるコースが昭和24年の10号(キティ台風)に似ていると表現された。日本列島に近付く前に迷走し、上陸に至るまでの足取りが極めて遅いことにも特徴のある台風だった。
参考とされたキティ台風は、1949年8月末に太平洋を北上して相模灘(小田原市)で上陸、関東山地から上越地方に進み日本海に抜けた。偶々東京湾の満潮時と重なったため、東京湾でAP+3.15mの高潮となり、江東地区などに大規模な水害を発生させた。死者行方不明者は160名に達し、住宅・船舶・耕地などに大きな損害を生じた。江東ゼロメートル地帯に昭和30年に向け第一次高潮対策事業が開始される契機となった台風である。
キティ台風では荒川水系の氾濫が重大な被害を引起したが、多摩川にとって最悪とされる台風も似たようなコースになる。(相模灘で上陸し鹿島灘方面に抜けるようなコースを通ると、奥多摩地方など水源山地の東側斜面に長時間吹き付けが続くことになる。)

2007年の台風第9号は、8月29日に南鳥島近海で発生した。台風は迷走気味に西に進んだものの、9月4日に父島の北を通過した後は北転した。6日に伊豆諸島の西側をゆっくり北上し、7日夜中の2時前に神奈川県小田原市付近に上陸した。
(発生から上陸まで9日間が経過した。尚気象庁は事後解析により、中心の上陸は相模灘ではなく、小田原の西を通過する2時間前、既に伊豆半島南部に上陸していた、と上陸地点についての修正を発表した。)
その後台風は関東地方から東北地方を北上し、秋田県北部で一旦日本海に抜けた後、津軽海峡を辿るように日本列島に戻ってきて、8日には北海道函館市付近に再上陸した。
台風の接近に伴い、東海から関東甲信地方に強風雨が広がり、奥多摩町の7日までの総降水量は700ミリ近くに達した。

以下の台風9号の洪水写真は、9月7日の8時半頃、左岸堤防7km標の位置から始めている。当地では台風は既に峠を越えていたが、未だ一過と言える状況ではなく、小雨がぱらついていた時点である。水位は堤防階段の最下段近辺で、河川敷は完全に水没しているが、近年でもこれより1メートルほど高くなったケースがあり、洪水として異例という程の水量ではなかった。

最初に載せた[No.44X] は7km標の近辺から、川上側を見た平時の景観である。シャープの流通センターがある裏手になり、堤防の先に都道「旧提通り」の上り口が見えている。川は上手(旧古川町)で大きく左に湾曲している。水路は正面にそびえるマンション(トミンタワー)の裾を通り、左の方に微かに見えているアーチ(ランガー:多摩川大橋に並行設置されているケーブル専用橋)の方向に繋がっている。
川面は殆ど見えず、トミンタワーの下辺りで僅かに見える。(最初の小画像は、そこの湾曲部を近くで見たものを載せてある。)
左岸の河川敷は、サッカー練習場の先の区民広場から細っていき、湾曲部では右岸側の方が大きく張り出している。ここは川崎競馬の練習馬場になっていて、川裏には厩舎関連施設が多い。

洪水の(その1)[No.44Y1] は [No.44X] と同じ位置で、川上側を向いて撮っている。右岸側の川崎競馬練習馬場や、左岸側の区民広場など、高水敷の全ては水没し、多摩川大橋の方から多摩川緑地まで水面が直結し、川は全面が水路となっている。(信号近辺の赤いものは消防車等) (その2)[No.44Y2] はやや川下側に振っている。堤防から下りる坂路の下が浸かった様子が水位の参考になる。

[No.44W] [No.44W1] は同じ辺りで、川下側(JR橋梁方面)を向いて平時の様子を撮ったもの。多摩川緑地の幅が最も広くなった部分で、全体に野球グランドが出来ている。

(その3)[No.44R] は [No.44W] のやゝ下手で川下を向いて洪水の様子を撮っている。
[No.44S] {No.44T] では、立木の場所が河川敷と低水路を仕切る土手の位置で、立木の向こう側が本流になる。(立木はヤナギやトウネズミモチ、対岸は戸手町)
2002年の洪水時には、右岸戸手の堤外地で床上浸水し避難騒ぎとなった。この堤外地には未だ一部に古い建物が残り工場の操業が行われているが、多くの住民は既に移転したとみえ、2007年後半にはスーパー堤防やマンション建設などの新しい工事が進んでいる。
消防のヘリは川下の六郷橋方面で活動しており、この場所のホームレス対処には警察のヘリが出動していた。[No.44S] は低空で作業中、[No.44T] は飛び去るところである。(2002年の洪水ではこの立木は半分くらいの高さまで水没し、先のほうだけが見えていた記憶がある。)
[No.44U] はJR京浜東北線橋梁で、堤防坂路は下部にゴミが集積していた。[No.44V] はJRの2本の橋梁(東海道線と京浜東北線)の中間部で、平時の水路幅は100メートル余の場所だが、こうなってしまうと水路幅は一気に5倍近くに広がっていることになる。

(洪水の様子は、京急六郷鉄橋 [No.52W]、 六郷橋湿地 [No.61Y1] などにも掲載)


[No.444] はひょうたん池の端から左岸堤防の下手方向を見ている。この辺は旧村名を高畑村といい、JR線から川下側は八幡塚村といった。今では至る所が六郷町になり、この地域(蒲田村の南側で矢口村と羽田村の間)に旧村名が残っているところは一ヶ所も無い。
(六郷周辺の町村名の変遷については [参考2] を参照
六郷川左岸の川沿いの村は、丸子橋のある亀甲山の南側は下沼部村、その川下側は峯村といったが、そこまでは新たな「調布村」に統合された。ガス橋の北側は下丸子村で、その南側は対岸の中丸子村の飛び地になっていて、その川下側に矢口村の沿川部があった。その川下側は複雑な箇所で、以前は南西側に蛇行した流路があり、周辺は古市場村といった。多摩川大橋を挟む北側の今泉村と南側の原村(現多摩川)・道塚村(現新蒲田)までを含む9ヶ村が、存続名「矢口村」に統合された。 (明治期に古市場の蛇行箇所はショートカットする流路が本流となり、古市場村は大半が右岸に属するようになって、府県境界統一の際神奈川県に編入された。古市場という町名は現在でも川崎市幸区に存続するが、その地は中世以来明治までは東京側にあったと考えられている。)

現在の西六郷1丁目から2丁目に掛けて(旧提道路が堤防上を走る辺り)は古川村といい、その南側は高畑村だった。高畑村は概ねJR鉄橋の辺りまでで、その先は現在の仲六郷3,4丁目と東六郷3丁目辺りに八幡塚村、その川下側の南六郷3,2丁目に(仲六郷2丁目に向けて)雑色村があった。この沿川4ヵ村に北側(古川村の東側)の町屋村を加えた5ヵ村が統合されて「六郷村」になった。

古川から雑色までの間で、今川筋は瘤のように極端に蛇行している。大洪水ともなれば突っ切ってしまいそうにも感じるが、上手が「高畑」という地名なので、なるほど昔はここが微高地になっていて、川は裾を迂回するしかなかったのだなと思っていた。
「川崎誌考」の著者は古い地名に出てくる「高」の字について、必ずしも(3次元的な意味で)高さが高いことを表しているわけではないと例を挙げて説明している。当地でも高畑と呼ばれた地区がかつて高台になっていたような気配は全く無い。目からうろこが落ちた。

古来この地方の中心は八幡塚村にあった(平安時代に六郷惣社が作られた)。 一帯が六郷と呼ばれていた昔に、雑色村は「東郷」と呼ばれていたらしいと江戸時代の「風土記稿」に書かれている。つまり八幡塚から見て東の方という意味である。同じ発想に立てば八幡塚から見て川上側にあった白田を「高畑」と呼んだ可能性は極めて高い。高畑村は高度が高かったのではなく、惣社の上手側の村という意味でそう呼ばれたのである。
六郷北側の堤方、蓮沼、蒲田などは、多摩川由来の地名ではない。古代呑川の遊水地となっていたような低地に、平安海進の頃海の進入があり、一帯は細長く入海化して、「堤浦」や「蒲田浦」が出来ていたという研究がある。(「史誌36号」「江戸湾岸の中世史」より)
その頃であれば、多摩川下流が、後世に古川と呼ばれた地区を突っ切って蒲田、大森方面に流れていた可能性はあるだろうが、有史以降の流路変遷に関しては(鵜ノ木の光明寺近辺を通る旧流路以外には)、色々な時期に今より南流していたとする説の方に多く出会う。 (川崎の地下街「アゼリア」の掘削がきっかけになった地質調査で)氷河期の古多摩川が南流していたことが判明したという報告もある。

昭和初期に新提が出来るまでは、[No.444] で建物が見えるところも河川敷と同じ堤外地だった。明治時代にはこれらの耕地は、水をかぶっても比較的被害が少なくて済むナシ畑に利用され、正岡子規の句にも「多摩川を汽車で渡るや梨の花」というのがある。
六郷橋上手の高水敷には(川岸近くに)シダレヤナギの木が多い。[No.445] のヤナギはこの周辺で最大級の大きさを誇り、落雷で太い枝が裂けた跡を幾つも持つ貫禄の老木だったが、惜しいことに2004年10月の台風22号で根元から倒されてしまった。
[No.446] は右岸から川越しに多摩川緑地を見ている。緑地の側からでは見え難いが、こうして裏から見ると、土手の上にホームレスのブルーシートが点々と続く様子が分かる。(2003年も増加している。3月の発表では全国のホームレスは2万5千人を超えた。)
[No.448] に写っているツィンタワーのマンションは、ほぼこの場所の背中側に当たる対岸(右岸)の堤防上に建つグランエステ川崎。
緑地と低水路は高さ1メートル前後の土手で仕切られ、土手から護岸まで数メートルの間は、雑草が繁茂するに任せ、ウンリュウヤナギ、オニグルミ、トウネズミモチなどの高木が入り混じる。土手から水際までの間は通常管理の手は入らない。

一方緑地の方は近年サツキなど各種の低木が頻繁に植えられるようになってきた。リバービオコリドー(河川敷生態系回廊)という難しい言葉が出てくるが、もしこの手の植樹がそれだとするならば、なんともピンとこない話だ。
自然保護協会などの説明によれば、「コリドー」というのは、希少動物の移動経路を確保するため、分断された保護地域をつなぐというもので、最近では特定の動物に限定せず、分断された生態系どうしを繋ぐという概念に発展してきているという。
都市河川の河道の中に恒久的な環境は作り得ないし、運動場に木を植えて生態系云々は大げさだ。気休めの自然回廊なら川岸の荒れ地帯が既にその役割を果たしている。

多摩川緑地の東端、JR京浜東北線の橋梁の手前側に、2002年春かなり大きな花壇が作られた。花壇は橋梁に沿う200メートルほどの間に、いくつかに区分して作られ、種類別に草花が植えられた。右の見出し画像は中央から低水路寄りに作られた大き目の仕切りで、10種程度の雑居区画になっていたところを撮った。

2002年の花壇は4月に菜の花、キンセンカ、ポピーなどから始まり、雑居区画は4月末から5月に掛けては花菱草、5月中旬はヒナゲシ、その後は6月に掛けて矢車草が主力だった。HPの写真を集め始めた2002年にはJRの分類で撮っていたが、JR鉄橋の写真はその後多く撮れたので、2003年は鉄橋との構図に拘らず、花に集中して撮ることにした。
[No.449a],[No.450a] は2003年の第一弾で、クリサンセマム・ノースポールとアイスランド・ポピー(シベリアヒナゲシ)のアップ。
クリサンセマムはキク科キク属の古い分類名で黄色(金色)の花という意味らしい。最近は単にノースポールという方が多い。ケシ科の花としては虞美人草とも呼ばれるヒナゲシが有名だが、当花壇では2002年にもヒナゲシに先立ってポピーが咲いていた。風が吹くと一斉に首を振る姿は、シベリア原産らしく北大陸の風情を感じさせる。色種が多くカラフルなため写真向き。(2002年にフィルムメーカーのテレビコマーシャルに使用されていた。)
2003年の第二弾はヒナゲシのアップ3枚。ヒナゲシはやはり虞美人の血の赤が目に付くが、2003年5月には全域ほぼヒナゲシ一色というほどで、多彩な色のものが咲いていた。
差替えたヒナゲシの1と2は2005年の4月下旬、咲き始めの頃に撮ったもの。

春先の花壇では菜の花が綺麗だ。河川敷に自生するセイヨウカラシナより豊かさを感じる。 (河川敷のアブラナ科の植物については [参考26] の (アブラナ科-1,-2,-3) を参照

「菜」(な)は「蔬」とも書き、もともと野菜類を総称する言葉だが、特にアブラナ科の植物を指して用いられることが多い。実際に、野菜はアブラナ科のものが多く、大根・カブのほか、キャベツ・白菜・小松菜・タカナ・カラシナ・ブロッコリ・カリフラワーなど代表的な野菜が並ぶ。これらの野菜は花を咲かせれば皆菜の花ということになる。
アブラナは種子から油を採るものはナタネと呼ばれ、若い茎葉が食用にされる場合はアオナと呼ばれる。アブラナ類が葉菜として中国(漢)から伝来したのは弥生時代、搾油が始まったのは平安時代で、室町時代には荏胡麻(エゴマ)油に代わって、ナタネ油が灯油、食用油の主力になった。江戸時代までのナタネは黄褐色で赤種と呼ばれるが、明治時代に収穫量の多い(含油率が高い)黒褐色の黒種が導入され、とくに戦後では搾油するためのアブラナは殆どこの黒種に置き換わった。この品種をセイヨウアブラナと呼ぶ。
菜の花のうち、チリメンハクサイを基に、花を観賞する目的(切花用)で改良された栽培種は「花菜」(ハナナ)と呼ばれる。房総地方で栽培され千葉県の県花になっている菜の花はハナナ。京の「菜の花漬」は、黄色く膨らんだ頃の蕾を摘んで漬けたもので、いずれも在来種の系統を受け継いでいる。

近年河川敷に自生する黄色のアブラナ科の花は、ほとんどがセイヨウカラシナに代わっているとされ、花期は1ヶ月ほど遅い4月。セイヨウカラシナとアブラナの区別は、葉の付き方を見るのが分かり易い。アブラナの葉は茎を抱き込むようにして付き、セイヨウカラシナの葉は茎を抱かず末端で付く。

4月後半、アブラナが終わって、宴の後という雰囲気の花壇に、空色から薄紫色の中間のようなブルー系で、(数センチ程度の)小さな花が群れていたら、ネモフィラ・メンジーシー(ネモフィラ・インシグニス)である。花びらは5枚で、花の中心部は白い。
ハゼリソウ科ネモフィラ属メンジーシー (nemophila menziesii) は北米原産で、和名をルリカラクサ(瑠璃唐草)という。宝石に由来するルリは花の色から、カラクサは(この写真では分かりにくいが)葉の形が唐草模様に似ていることから付いた。
「ひたち海浜公園」には、ネモフィラ・メンジーシーの400万本の大群落があるという。

この時期、花の色が似ているため、図鑑上では紛らわしい野草(帰化植物)にオオイヌノフグリ(veronica persica)がある。

オオイヌノフグリはここの近辺でも、春花壇の内外に存在する。ただオオイヌノフグリは大きさが1センチにも満たない花で、実際にはしゃがんで見なければよく分からないほど小さい花である。図鑑にはマクロで撮った拡大写真が載るので、色の類似性から紛らわしいように思えるが、双方は大きさに決定的な違いがあり、花びらの数も違うので、実地で紛らわしいところは全くない。
[No.44K] は全体の雰囲気を撮った。(これでもかなりの拡大) 葉は分厚い鋸歯形で表面には小毛が多い。 [No.44L] は未だ花粉を持っている状態で、日当りの撮影。
オオイヌノフグリの花は、図鑑によって、紫色に近いものとかなり青いものとの二通りの写真を見るが、花に個体差があるわけではなく、マクロ(近撮)の影響と思われる。
オオイヌノフグリは花が小さいため、マクロ(近撮モード)でピント合せをする。構図のことだけを考えて接近すると、花がカメラや撮影者の影に入ってしまっていることが多い。極端な日陰は(曇天とは異なり)、散乱されにくい長波長側の赤色光がかなり失われていて、直射日光下で撮れば紫色に写るものが、日陰では青色(空色)に写ってしまうことになる。(露出を増しても青色に偏った照明で撮っているという条件に変わりは無い。) 
下の(参考1)は好天下、(参考2)は遠目の日陰、(参考3)は極端に近い日陰。
見出しに使っている右の小画像2枚は、葯の存在を重視したため、いずれも曇天日の撮影ものになった。比べて見ると光線の状態は(参考2)に近いようだ。

   (参考1)    (参考2)    (参考3)

オオイヌノフグリの花びらは4枚だが、大きさや形は均等ではなく独特な姿をしている。

右の(参考4)の矢印上にカーソルを置いて)、  (参考4) 

扇形に展開する上の花びらには、11本の条が色濃く入り、扇の要の上縁では条は赤紫色を呈する。この対角になる下の花びらはやゝ小さな楕円形で、色は薄く(白っぽく)舌を出したような格好に見える。左右の2枚は大きくほゞ円形で鏡像位置にあり、楕円形の花びらの方に少し傾いたハの字形に付く。花びらの付根での重なりは、左右のものが下側になり、上下の2枚を支えるように大きく広がる。

オオイヌノフグリの花の寿命は1日。オシベの先端にある葯が膨んでいれば鮮やかなブルーが見えるが、花粉を放出してしまうと目立たなくなり、花びら上に白い粉が散って見えるケースも多い。
右の2枚 [No.44M] [No.44N] は小雨が降ったり止んだりという曇天日の撮影。晴天下の写真のようなパンチ力はないが、蕾が開く時の葯の美しい色を捉えているので採用した。

 (オオイヌノフグリについて詳しくは [参考26] の (ゴマノハグサ科) を参照 ) 

最後の桜4枚は緑地管理事務所の前にあるソメイヨシノ。
[No.44A] は2003年の開花。2002年は例年より12日も早く3月中旬に開花したが、2003年は平年より1日早い3月27日の開花になった。(公式の桜前線は、25日に伊豆大島まで北上し、27日に靖国神社で指定木が開花して東京開花となった。この近辺では管理事務所前のこの1本が先陣で26日には開花していたが、六郷橋下手の桜並木やシャープ前の5本などは開花しておらず、大勢としての開花は28日になった。) [No.44A] は28日の撮影。27日が暖かく開花は急テンポで、これは既に3分咲きの様相になっていた。
[No.44Q] は2004年4月2日。六郷橋下手左岸の桜を撮りに行く途中に撮ったもので午後1時頃。この年はこの3日後に大師橋下手の右岸で最盛期の桜を撮っている。
[No.442d] は2005年4月9日。2005年は開花が予想日から数日遅れたが、開花すると満開までは3〜4日と短く、その直後に南風強風が一日吹き荒れて殆ど散ってしまうという電光石火の桜だった。これは3時過ぎで逆向きだが想像したより良い写真になった。
右の小画像と、次の [No.44E] は2006年4月4日。満開で散り始めていない一番いい時期。ユリカモメの夏羽などを撮るために、六郷橋緑地の方に日参していた関係で、この時期毎朝ここを通り、お蔭でこの桜もゲットすることが出来た。帰りがけで8時半頃。
[No.44P] は2007年4月6日。2007年は全国的に開花が早く3月30日には靖国神社で満開、当地では例年都心より4,5日後れる、4月初めには満開となった。この年はあいにく好天に恵まれず、体調不良も重なって満開時はキャッチ出来なかった。この写真は既に盛りの時期を過ぎているが、5年目の記憶に何も無いよりはマシかと、午前10時。

手入れが悪かったのか、2012年には枯枝が大幅に増え大規模に剪定されて、このソメイヨシノは見る影も無くなった。2013年に花は付けたが往時の精彩は全く失われ、姿もみすぼらしくなって、残念ながらもう写真を撮るような対象では無くなった。



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