<参考8>  丸子川と六郷用水


「六郷領用水」(通称「六郷用水」)は、家康による江戸南郊(多摩川下流の氾濫原)の穀倉地化プランの技術的指導者として登用された用水奉行・小泉次太夫によって、慶長2年(1597)から15年の歳月を掛けて開鑿(かいさく)された。
六郷用水は現在の狛江市になる多磨郡和泉村で取水され、世田谷領を通過して六郷領に引かれた灌漑用水路である。同時に右岸側でも登戸村上手の中野島で取水した二ヶ領用水が造られた。中野島は和泉よりやや上手になるが、双方はほぼ対岸に近い位置になる。測量・工事は並行して進められ、次太夫は数ヶ月おきに交互に両現場を行き来し差配した。
二ヶ領用水は文字通り稲毛・川崎領を灌漑するためのものだが、左岸側の用水は世田谷領を経ながら単に六郷領用水と呼ばれた。それはこの用水が直轄領(天領)であった六郷領のために作られた灌漑用水で、彦根藩などの大名領(私領)で開発の遅れていた世田谷領のことは考えていなかったからである。実際「六郷用水」は完成後百年余りの間、世田谷領での一般的な利用は許可されず、取水口があった和泉村(現在の狛江市)から六郷領に入るまでの導水路(大用水堀:水路幅約4.5〜5メートル)は、世田谷領の「井筋村々」では領内を通過するだけの存在で、その名も「次太夫掘」と呼ばれていた。
「六郷用水」が完成してから100年以上経った享保年間(1725〜29)、多摩川の治水工事や川崎宿の建て直しで知られる田中丘隅(休愚)が、「二ヶ領用水」を改修した時期に「六郷用水」も改修拡幅が図られ、以後世田谷領でも段階を経て徐々に灌漑用水として利用できることになったのである。右岸側のニヶ領用水と合わせ多摩川沿川四ヵ領の灌漑用水が名実共に機能するようになったのは宝暦年間(1750年代)とされる。

「六郷用水」は取水口とした和泉村から亀甲山(かめのこやま)までは一本で引かれており(ここまでを「次太夫堀」という)、鵜木村にある光明寺の東側で初めて北堀と南堀に分かれ(この分水点を「南北引分」という)、南堀は矢口から蒲田・糀谷、萩中・羽田方面に至り、北堀は池上、堤方、新井宿、不入斗(いりやまず)を経て、大半のものは江戸湾に注ぐようになっていた。
六郷領内(35ヶ村)では南堀北堀とも、各村々に浸透していくように何本にも分岐させられていた。
開削工事の手順は以下のようである。慶長2年(1597)2月3日次太夫は、宿所にしていた安方村の名主兵庫の家に名主全員を集めて用水開削の計画を発表し、直ちに両岸で測量を開始した。
慶長4年(1599)正月、人足世話役等の人事を整え、前年までに見立・杭打を行った所の実際の掘立が、六郷領内の道塚村(現在の新蒲田あたり)で着工された。先ず南堀を次いで北堀を矢口村の引分まで堀った。それから最大の難工事といわれた嶺村の切通しを開削し、掘り立てを実施して、慶長6年に世田谷領下沼部村に達した。(この年に次太夫は稲毛・川崎領の代官に任命されたとされる。)

慶長7〜8年は上沼部村から、等々力村、小山村を経て、上野毛村へ(下流側から上流側へ)堀り進んだ。
慶長9年は上野毛村から岡本村を経て12月に喜多見村の境界に到達するが、その後喜多見村から岩戸村を経て泉村川原に出るまでの区間に足掛け5年を要し、掘立を完了したのは慶長14年4月だった。
慶長15年から六郷領内の分水小堀の開削や六郷領内大用水堀通りの浚普請が行われ、慶長16年2月末に六郷用水開鑿工事の全工程が竣工した。(稲毛川崎二ヶ領用水も同時に竣工した。竣工したとき次太夫は74歳の高齢に達していたが、その後も活躍し、元和9年(1623)85歳の長寿をもって没っした。)


「六郷用水」が六郷領のことだけを対象に計画されたとするならば、何故わざわざ六郷領から10キロメートルも遠く離れた位置まで遡って取水することにしたのだろうか。

次太夫は事前の見立て測量の折、亀甲山下手の下沼部村で多摩川からの用水取入ロの見立てを行い、当初の計画では下沼部村のあたりで取水する方針であったという伝承があるが、実際にはそうはされなかった。
その理由について後世の俗伝によれば、次太夫が田園調布の丘(多摩丘陵の南端部の古墳密集地帯)にぶつかり思案に暮れていたところ、夢に女神が現れ、木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)を祠る浅間神社の山を切り崩すことはならぬ、この山の腰をう回して掘るように、と告げられたというのである。
実際の理由は(私が資料を読んだ限りでは)明きらかにされていないが、地形上の理由など下沼部で取水することに何らかの不都合があったとしても、その時点で一気に和泉までいくように計画を変更したというのは信じ難い。

用水が完成して新田開発が進み、後年用水の使用量が飛躍的に増していったことは事実だろうが、この用水が六郷領全体を灌漑するものとして計画されたことは、その構想の内容から明らかである。また世田谷領を縦断すれば、野川、入間川、仙川などと合流し、その地の従来の水源を断つことになり、接収する用地ともどもその代償に配慮しなければならなくなることも、旧来の慣行から事前に分かっていたことである。まして工期が3倍に延びるということは工費もそれだけ嵩むことを意味する。これらのことを考えると、取水口を和泉村にまでもっていったことには、それだけ重大かつ根本的な理由があったと考えるのが相当ではないだろうか。

「新多摩川誌」によれば、小泉次太夫は旧姓を植松といい、代々今川家に仕える家系であったが、今川家没落の後、家康に見込まれて家臣となり、750石の領地とともに小泉の姓を賜ったという。(植松家は駿河国富士郡小泉郷に居住していた)
小泉次太夫が家康の家臣になったのは天正10年で、登用された理由は、郷里(富士宮市)の同族的環境が、治水、用水ないし坑掘などの土木技術者集団であったことによるとされている。(天正18年(1590)家康に随伴して関東に下ったとき、彼は既に53歳という円熟した年齢に達していたそうである。)
家康とともに江戸に入府してから、慶長2年(1597)の用水開削に至るまでの約7年間の彼の行動はほとんど知られていないらしい。この空白の7年間について「多摩川誌」には、家康の関東移封から間もなく、次太夫は家康の命令で川崎の何処かに移り住み、多摩川の治水工事に従事していたと考えられ、治水普請奉行か堤防奉行というような役職につき、用水敷設の前提となる多摩川の水防、改修等の工事に専念していたのではなかろうか、と書かれている。

広大な関東平野を手中に収め、未開発地の多い新領内に田畑を開発することを急務とした家康は、江戸入国と同時に治水技術に長けた代官伊奈備前守忠次を起用し、東部の利根川、荒川方面の治水にあたらせ、新田開発の実を上げていた。その一方で南郊部に位置する広大な沖積平野を灌漑すべく、六郷領用水及び稲毛・川崎二ヶ領用水の開削事業を小泉次太夫に託していたことになる。
以上の事柄を概観すれば、次太夫による用水計画が、慶長2年の測量の時から場当たり的に進められたとは到底考え難く、どこで取水しどのような経路を通って用水堀を開削するかというような、全体計画の基本的な部分は事前に十分構想を練ってあったと考えるのが常識的ではないだろうか。(実際の工事にあたっては、郷里から富士麓金山衆など土木工事に長けた縁者を招き、現場指導にあたらせていたという。)
計画発表に先駆けて多摩川を7年間入念に調べていた次太夫は、その技術的な経験や感によって、亀甲山近辺で取水することが論外であることぐらいは直ぐに判ったはずである。おそらく六郷領の端(下沼部)で取水しようかどうかを迷ったことは一度もなく、六郷領全体に用水を張り巡らせるのに、何処まで遡って取水すれば足りるのかを考え、障害には何々があるかというような観点で現地調査を繰返し、結果として和泉村から引くことを前もって決断していたのだと思われる。
(家康と次太夫の間にどのような話があったのか、時局がどのように影響していたのかなど知る由もないが、)次太夫は構想を練り上げた時点で、満を持して計画を発表した。慶長2年からの測量・杭打は構想に基づくルートを具体的に工事するための段取りであり、この時初めてルートを手探りし、考えながら進んでいったというようなことは到底想像できない。

「六郷用水流路図」 (新多摩川誌収載)

江戸時代の「新用水掘定之事」という資料に六郷用水の成立過程が記されている。次太夫が各地の名主に案内させて見立・杭打を行っていく経過を記した中の下沼部の部分に、「谷出水山之下玉川で用水口の見立を行うにつき、山に上がり休んでいる内夜になってまどろみ、夢に女が出てきて(云々)〜」という文章がある。「次太夫は当初亀甲山裾で取水する予定だったが、富士仙現の女神の夢告によって変更せざるを得なくなった」という言い伝えが広まっていたことが分かる。
「新用水掘定之事」は六郷用水開削から140年ほど後に編集されたとみられる用水組合の文書で、作者、年代等詳細は不明である。(次太夫と富士信仰を結び付ける話は他にもあるようなので)ここに出てくる取水口変更の経緯は、浅間神社信仰に絡んだ後世の俗伝と考えらる。
同資料によれば、次太夫が世田谷領に入って下沼部で夢を見たのは慶長2年6月20日過ぎだが、同年の2月から4月末までの間に、六郷領鵜木村の「南北引分」から下手になる南堀と北堀の杭打、鵜木村から嶺村を切通し下沼部に出るルートの杭打を既に終えていて、六郷用水の大規模な全体構図が既に決まっていたことは明らかである。
仮に(現在調布堰がある)下沼部辺りで取水するとすれば、(巨大なポンプなどが無かった当時では)、高さ10メートルもの堰が必要になる理屈で、洪水が頻発していた玉川でそのような選択肢があったとは到底思えない。)
「新用水掘定之事」によれば、全工期は、測量と杭打ちに2年、本流の開削に10年、村々へ配水する分流の小堀に2年を要したとされ、本流の開削では、六郷領内の主要部の開削が2年余りで完了したのに対し、世田谷領内の大用水堀を通すのにその後8年間を費やしている。このことは世田谷領での工事が、後世の俗伝に言うような木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)のお告げによるのではなく、元々六郷用水にとって本質的に必要な工事であったことを示している。


大正8年の内務省による直轄改修工事計画の際の「多摩川縦断面図」によれば、六郷川では平均干潮位は古川あたり(多摩川大橋と六郷橋の中間)にあり、朔望平均満潮位は調布(丸子橋)まで上ることになっている。朔望(さくぼう)とは一日と十五日のことだが、その平均潮位はおそらく新月と満月の平均の潮位になると思うので、実際には大潮の時の満潮位はもっと高いことになる。
川は下流に行くほど勾配は緩やかになり高低差は小さくなる。(現在では)亀甲山のある丸子橋辺りまでが感潮域で(川底がほぼ海抜ゼロメートル)、大潮の際などさらに潮が上らないように、調布浄水場時代ここに堰堤(えんてい)が作られた経緯がある。改修以前は、矢口の辺りで川底が海抜ゼロメートルになっていたが、満潮位が沼部近辺に達していた事情は江戸時代も大差はなかっただろう。
六郷領の海寄りは近世の干拓地だが、波打際に石垣などを積むとしても、基本的には干拓地表の高さは、大潮の度に海を被るようなことはないものと考えられる。つまり大雑把に言えば、六郷領の末端の耕地面の高さは、少なくとも調布に於ける多摩川の水面の高さ程度はあるということになる。
用水の動力源は地球の引力しかなく、それは用水路の勾配によって保証される。いくら堀割を築いても、そこに高低差が確保できなければ用水を流すことは出来ない。下沼部で取水すれば、勾配ゼロという滑稽な用水路になってしまう。量水標というような大げさなものでなくても、川に竹竿などをさしておけば、水面が潮位に応じて上下していることは直ぐ判り、潮位がこの川のどの辺りまで上っているかという判断はさしたる難事ではない。
次太夫ほどの専門家であれば、これらの判断に迷うことは考えられず、浅間神社の伝承はいかにも後世の作り話と思わせるものだが、これほど見え透いた宣伝が、まことしやかに語られてきたことは不思議というほかない。


近代になって世田谷区・大田区は徐々に市街地化が進んだが、とくに1960年代の高度経済成長期に大田区・世田谷区の農地・農用地は急速に宅地化された。そうした背景で狛江市和泉の用水取水は廃止され、役目を終えた六郷用水はその殆どが姿を消すことになった。

現在僅かに、旧六郷領用水の仙川との合流点に近い世田谷区岡本から大田区田園調布に掛けての部分が復旧され、流水を保って丸子川と呼ばれ、「次太夫堀」の名残を留めている。
亀甲山の裾を流れる丸子川を見ていると、次太夫が何故和泉村まで遡って取水せざるを得なかったのか、その答えが自ずと見えてくるような気がする。

右の写真1は、河口から13.5km辺りの位置で、亀甲山裾やや上の山腹を通る丸子川。右側に並行する道路(多摩堤通り)は堤防上の高さに匹敵する位置を通されている。
次の写真2は、この辺りを河原の方から見たところ。この少し川下に近代になって調布堰堤が作られ、ここは貯水池のような雰囲気で、水面が高くなっているが、それでも丸子川は更にこの「崖」の上にあるわけである。

その下の写真3は、亀甲山から500メートルほど川上側、田園調布5丁目の丸子川。この辺から世田谷に掛けて、丸子川の左岸側の住宅地はいずれも高くなっていて、用水に架かる夥しい数の橋は全て、坂道を上っていくように傾斜して作られている。既に亀甲山を離れているが、用水が依然として(武蔵野台地縁にあたる)傾斜地を通されていることが分かる。 両側面はコンクリートブロック張りで、水路の幅は4メートル程度。水量は少なく水は、泥が堆積した底面をやっと覆う程度で、水面は路面より1メートル半程度は下がっている。
「多摩川誌」には六郷用水の本堀の幅は5メートルと書かれているので、近代になったいつかの時期、用水に手がいれられ、幅も狭められたのではないか。勿論現役の頃は水量豊富で、水面は今より遥かに高かったに違いない。

 
最後の写真4は、田園調布の下手になる左岸「鵜ノ木」地先で水際を見たもの。撮影位置は丸子橋からガス橋方向に下る途中。新幹線(品鶴線)の鉄橋を過ぎ桜並木が始まる近くの川縁。(右岸側でいえば上丸子と上平間の中間辺りになる。遠方に鹿島田のツインタワーが見えている。)

六郷から羽田近辺の海寄り低地の河川敷では、地面は水面とそれほど大きな段差がないが、(調布近辺と状況に大差ない)この辺りでは、渇水期には高水敷は水面からこれだけの高さがある。(低水路際は5メートル近い断崖状になっており、河川敷のグランドはこの上に展開している。)

この辺は平均満潮位が低水表面に達する限界地点にあたる。(ここから上は調布方面まで、満潮時には汐が差すが、かん水は川底側に浸入する形になり表面までは達しない。)
これより川下側で水面は殆ど勾配を失い、低水位は潮の干満に従う。ただし一朝洪水となれば高水敷は川底に変る。洪水を速やかに流下させるべく、高水敷は川下に向け1/1500〜1/2000程度の勾配で削平されている。
調布で低水面から5メートルもある高水敷の段差は、左岸側で最後の高水敷となる大師橋緑地では僅か数十センチにまで減少する。それでも増水時に大師橋緑地が先に冠水するとは限らない。(仮に勾配1/2000が10Km続くと5mの高低差になり、低水路から水が溢れるか否かの条件は同等だからである。) 高水敷の削平勾配は計画高水位(H.W.L)に平行し、堤防天端の高さもまた同じ勾配に従い、余裕高さを加えた高さに築堤されている。


さて本題に戻って、次太夫が初めに決めなければならなかったのは、六郷領の入口にあたるここで、用水堀は最低限どの程度の高さが必要かという判断である。
細かいことをいえば、用水路の抵抗は流量や断面積によって異なり、領内での堀の細分化の程度や、小堀をどのような幅や深さにするかなどにも左右されるが、ともかく水を送る駆動力は水路の勾配(地球の引力)にあり、勾配が不足すれば期待しただけの水量が流れないという結果になることは明らかである。

次太夫堀の名残とされる丸子川は、いま調布で多摩川の堤防上の位置を流れている。この高さが次太夫の出した答えだったということになる。直轄改修計画の「多摩川縦断面図」によれば、この時の築堤高さは、平均低水位(量水標零位)の上9メートルになっている。計画掘削面を示す線は4.6メートルあたりを通っているが、この線を削平された高水敷の高さとみると、堤防天端の高さは高水敷面から4メートル余りということになり、堤防の見た目の高さと感覚的にはほぼ一致する。
(写真館の [No.113] に近代になってこの川下寄りに作られた調布堰を載せているが、この堰の落差は約1.5mある。堰の下で右岸の護岸は階段になっていて、そこで高水敷の水面からの高さは5メートル余りと計測できる。この辺りの堤防の高さは概ね4.2メートル程度である。今平時には丸子川は殆ど水量がなく、水面は路面より1メートル以上下がっているが、往時の水面は当然そんなに低くはなかっただろう。現在丸子川は治水記念碑の手前で打ち切られている。堀底を横断する溝を切って水を落とし、堰の川下側で多摩川に流し込んでいる。調布に於ける本川と用水路の水面の高低差を9メートル程度と判断するのは、ここを見てもほぼ妥当な数値と思える。)

次太夫は六郷領に引く用水の規模から逆算して、ここで9メートルの高さが必要という結論を出したことになるが、次に決めなければならないのは、この9メートルを確保するために何処で取水するかということである。
川の勾配は大雑把にいって、調布から二子までは 1/700 程度、二子から上は 1/500 程度と推定される。単純に9メートルを稼ぐだけなら6キロメートルほど遡った宇奈根の辺りで取水すればよいことになるが、この間の導水は大用水堀であって、貯水池のようなものではないので、やはり流してくるための勾配が必要である。
勾配が緩ければ使用量に見合っただけの給水が追いつかなくなって、開削した堀が十分有効に機能しない。逆に導水路だけが急勾配でも、勾配が減じる六郷領入口辺りでは溢れてしまうことになり無駄でなる。ここから下は矢口村の南北引分までほぼ同じ規模で堀が続くことを考えれば、(専門的なことはあるとしても)大勢としては上手側も下手側と同じ平均勾配に取ることが適当ということになるのではないか。

当時の六郷領(耕地)の端を海老取川の手前辺りとすれば、末端から古川までは約5.9キロ、古川から下沼部までは約5.2キロで、亀甲山から川下側の距離は11.1キロメートルほどになる。(現在は河口から調布まで13キロメートル余りとなっているが、河口は海老取川より更に1.5キロメートルほど下った所にある上、量水標の距離は旧蛇行水路に添って計測されているので、堤防の実距離は標呈よりは減殺される。) 11.1キロメートルの距離で9メートルの落差は、勾配に換算すると 1/1230 程度になる。従って亀甲山から何キロメートル遡って取水すれば、1/1230 の勾配で下ってきて亀甲山で9メートルの高さが残るか、を逆算して取水場所が決まることになる。
次太夫の結論は和泉村だった。大雑把な数値しか分からないが、調布から二子まで4.6キロ遡ると、この間勾配は 1/700 で高さは6.5メートル、そこから更に和泉まで5.2キロを遡ると、この間の勾配は 1/500 で高さは10.4メートルになり、結局和泉まで9.8キロメートル遡ることにより、取水口の高さは亀甲山の低水位より16.9メートルの高さに達する。遡った9.8キロメートルを下ってくる部分が次太夫堀と呼ばれ、六郷領用水の導水路になるが、この間を勾配 1/1230 程度に節約して下れば、亀甲山のところで本川に比べ9メートルの高さが残る(温存される)勘定になる。 (9800÷1230=7.9; 16.9-7.9=9)

次太夫が六郷領の端からわざわざ10キロメートル近くも遡って取水したことの意味は、その間で川が消費してしまう17メートル近い位置エネルギーを、六郷用水(大用水堀、次太夫堀)に於いては8メートル程度に節約し、そうして得られた9メートルという高さを動力源として、平坦な六郷領に用水を行渡らせることを可能にしたことである。
(「多摩川誌」には、用水の落差は約20mと書かれていて、上の計算結果の17m弱というのはやや足りないが、落差を定義する場合に、堀の出先を平均干潮位にとるものとすれば、調布での平均低水位と平均干潮位との高低差2メートル余りが加算されるので、数値は20mに近いものになる。なお近代以降川底の砂利の採掘が進んだため、中下流辺りの水位は3メートル程度低下したと言われる。現状を見て当時の状況を推測する場合にはその辺りの事情を考慮すべきである。)

六郷用水を引く為に必要な高度を満たしていると次太夫が考えた和泉村(現在の狛江市中和泉4丁目)は、多摩川が本流と枝川の二つの流れに分かれ、右に湾曲しながら再び合流しているという好条件があった。取水口はこの枝川に臨んで設置され、洗堰や元圦(もといり:水門)を築いたが、用水開発の主要な課題は和泉村から下沼部村まで、多摩川本流が谷底平野で消費してしまう位置エネルギーを、用水堀ではどう節約し、高い位置を保ったまま六郷領まで引いてくるかにある。
和泉村で取水された用水路は、南寄り(猪方村)に下る本流から離れ、東に進み立川段丘を切拓いて岩戸村に向かう。喜多見村までの工程は経路中最大級の難工事だったと思われるが、立川面を開削し武蔵野段丘の裾に達するルートの開拓は必須だった。

多摩川下流は大雑把に武蔵野台地と多摩丘陵の間を流れると言われるが、細かく見ると、左岸側では谷底平野と武蔵野面との間に帯状に中間位の立川面が存在する。

立川面は立川府中方面から川下に続いてるが、次第に高度を減じ幅も細って、鎌田村辺り(現在の二子玉川近辺)で現在の河床に埋没している。この後左岸側ではしばらく谷が続き、やがて(瀬田村辺りから)武蔵野段丘が低地の前面に出てくるようになる。
従って用水堀が、六郷領まで高度を維持してくるためには、早いうちに立川面を突破して武蔵野段丘(国分寺崖線)に取り付く必要がある。(立川面と武蔵野面を仕切る段丘は国分寺崖線(こくぶんじがいせん)と呼ばれ、洪積世に古多摩川が台地を浸食した跡と思われている。)
立川面を乗り切ってしまえば、あとは国分寺崖線に沿う山肌を伝い、高度を温存しながら徐々に下ることが出来る。喜多見から、大蔵、岡本、瀬田、上野毛、等々力、小山、上沼部などを経て下沼部に至り、亀甲山肌に沿って多摩川低地を見下ろす場所に到達する。(世田谷領の「井筋村々」は全部で14ヶ村あった。)
このように次太夫の構想は、用水堀を武蔵野台地の裾(国分寺崖線)を辿らせることで、その高度低下を多摩川本流のおよそ半分に節約し、六郷領の入口で海抜10メートル程度の高度を確保するものだった。

この間、岩戸村で野川を合流し、国分寺崖線に到達してから、入間川、仙川、谷戸川吸収した。これら旧水路の下流は全て締切った訳だが、氾濫防止のため用水堀は途中数箇所に洗堰を設け、切通しを作るなどして余り水を低地側に流すようにしていた。(旧野川や入間川の流路は一部そのまま用水堀に転用されたと言われるが詳細は不明。また旧来の水源を断たれることになった所に、代償として分水を認めたケースも僅かにはあったらしい。)
下野毛村から等々力村に入るところで世田谷領最後の交差支流となる谷沢川とぶつかる。六郷用水が現役だった時代には、次太夫堀は谷沢川を跨ぎ、双方は立体交差していたとされている。大用水堀は既に多摩川低地に対して相当な高低差を作り出しており、あえて等々力渓谷に寄って谷沢川を合流するより、築樋(つきどい)を施すなどの手段によって、谷沢川を跨ぐことを得策と考えたのは当然だったと思われる。

(立川面や武蔵野面の配置については右ページを参照) [参考12] 「流域の地形と海岸線の変化 」 

 

[丸子川と谷沢川の”交叉点”の現況」

 
以下江戸時代の六郷用水の話とは関係無いが、かつて六郷用水が谷沢川を跨いでいたと想像される地点(世田谷区野毛)が、現在どのようになっているかについて説明しておくことにする。

左の航空写真は問題の「交差点」を上空から見たもので、グーグルから引用した。(黒い筋が水路で、白い筋は舗装道路である。)
蛇行しながら、ほゞ東西に亘る水路が丸子川で、南北に走っているのが谷沢川である。(丸子川は右手が亀甲山方向、谷沢川は下方が多摩川になる。)
双方の交差はほゞ直角で、一見したところ谷沢川が丸子川通りを潜り、その下側を丸子川が抜けているように見える。然し実際はそうなっている訳ではない。

 
丸子川は現在、川の形をとってはいるが、歴史的な遺物である六郷用水の途中一部について、その痕跡を留めるため残された人工の堀であり、六郷用水が現役であった当時のイメージを再現するように、流水を確保すべく色々な工夫が施されている。

現在地図の上では、この地点で丸子川と谷沢川が交差しているような印象を受けるが、現実には双方は交差することは無く、「丸子川がこの地点で谷沢川によって更新される」構造になっている。
「更新」とは、ここまでの丸子川は谷沢川に合流して一旦終わり、ここから川下側の丸子川は、新たに谷沢川の水を水源として流れ、恰も一つの川が引き継がれるような格好に作られているという意味である。

谷沢川は等々力渓谷を抜けたあと、矢川橋の手前から急勾配で下るようになり、境橋の辺りでは深い堀状となって、そのまま丸子川通りの下へ入っていく。(写真は右上に掲載)

一方丸子川は谷沢川にぶつかる地点の川上側(天神橋辺り)から、こちらも急傾斜で川底を下げ、右向きに急転回して、丸子川通りの下に入っていく。

丸子川通りの無名の橋の下で、直進してきた谷沢川と右折してきた丸子川は一体となり、以後谷沢川と丸子川が合流した水路が、水門を経て、多摩川に注がれるようになっている。(水門とその後の多摩川への合流点については、谷沢川の左上の方に写真を掲載した。)

右の写真3枚は、この近辺の丸子川を撮ったものである。
最初の写真は、丸子川が天神橋付近で、急速に川底を下げていくところを川下側から撮った。
2枚目は丸子川が谷沢川とぶつかる地点で、右に急転回し、谷沢川に沿うような方向で丸子川通りの下に潜っていく場所の様子。
3枚目は丸子川(左)と谷沢川(右)が丸子川通りの下を潜り抜け、以後一体の川として流れてくる場所を川下側から見たところで、見えている橋は丸子川通りの無名橋。
丸子川通りの上からでは、川下側に1本の川しか見えず、別方向から来ている2本の川が、足元の下で合流したのだということは、初めてここにきた時すぐには察しがつかない。

 
上の写真の方向から合流部を見ると、丸子川の水量の多さが目立つが、逆に谷沢川の水量の少なさが不自然に感じられる。

左の写真は谷沢川の左岸にある丸子川の泉。
上は丸子川の右岸から撮ったもので、後ろに谷沢川の壁面が見えている。下は丸子通りを進んで、合流点の橋の方に寄った位置から見ている。見えている橋は丸子川の滝之橋である。
この泉は地図上では、丸子川が谷沢川と交叉した後、再び丸子川の水路が始まる地点の左岸にある。
ここでは水が石組みの間から湧き出していて、すぐ近くにある滝之橋から先、亀甲山に向けて新たな丸子川が始まる。
実はこの湧き出し水は、ここで谷沢川の水を地下の貯水に落とし、ポンプで汲み上げて丸子川に放流しているものだそうである。(制御盤のようなポンプ施設がすぐ裏手にある。)

丸子川との合流点で、谷沢川の方の水がやけに少なく、等々力渓谷を流れている水量から見て不思議に思われるのは、その半分が新たな丸子川の水源に回されているためである。
現在の丸子川が、谷沢川と「交差」する地点で、川として更新されているという事実はあまり知られていない。
(尚、丸子川は「交差点」の上手で不自然に蛇行しているが、双方の水路の位置が、六郷用水が現役であった時代(丸子川が谷沢川を跨いでいた時代)と同じ状態に保存されているのかどうかは知らない。)

丸子川の水源は、世田谷区大蔵3丁目2番(大蔵三丁目公園内)の湧水を起点とした水路(暗渠)に、岡本3丁目25番付近(東名高速の脇)の湧水を、岡本3丁目41番付近(仙川新打越橋左岸近く)で合流して形成されている。西谷戸橋近辺で開渠となり、水神橋手前で仙川左岸から離れ、以後丸子川と表示されるため、丸子川は仙川から取水していると誤解する人がいるが、丸子川が直接仙川と繋がっている事実は無いと聞いている。

仙川には岡本3丁目と大蔵6丁目の間に「礫間接触酸化法」を採用した浄化施設があり、その浄水が谷戸川と谷沢川にも送られている。丸子川はやがて谷戸川を合流するので、その意味では丸子川に一部仙川の水が流れていることにはなる。
大蔵公園の湧水に発し、谷戸川を合流するなどしてきた丸子川は、ここで谷沢川に合流し、多摩川に下って終わるものの、谷沢川の一部を水源とした新たな丸子川が対岸から始まるため、上空から見ると双方が交差し、恰も一本の丸子川が引き継がれているかのように見える。

特別区道となっている丸子川沿いの通りは、以前から谷沢川を跨いでいた筈だが、合流点を跨いでいるこの橋には名称が無い。橋に名称が無いのは不自然な気がするので、昔からこの地点は橋ではなく、谷沢川の方が潜り抜けるような格好だったのではないかと思う。(世田谷区では便宜上この橋を「無名1号橋」と呼んで管理している。因みに無名2号橋は知らないが無名3号橋というのは仙川にある。)

上の写真は、滝之橋の上から丸子川の下流方向をみている。
近世の野川や入間川などの流路は、現代その名が付いている川とはかなり違う。六郷用水が廃止された後も、川は復元された訳ではなく、都市化の事情で付替えられたり、様々変遷の経緯があり注意が必要だ。
谷沢川についても、かつては野毛から九品仏川に入り、深沢流として、呑川に注ぐ一支流の水源だったものが、いつの頃からか九品仏川から分離し、等々力渓谷を経て多摩川に注ぐような川になった、と言われている。この流路変更の経緯に関しては諸説あり、六郷用水の北堀が呑川と合流することから、呑川制御のため、千束溜井の新築とともに等々力渓谷が人為的に開削されたという説もある。
近年の谷沢川は水量が減り等々力渓谷の美観を維持できなくなったため、平成6年に2.2km離れた仙川の岡本にある礫間浄化施設から、地下導水管で送水を受け(排水口は国道246号の辺)、流量を3倍程度に増やしたという。


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