<参考6>  京急六郷鉄橋の歴史

 
京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄の前身)は、明治32年(1899)1月に車両5輌を持って「川崎−大師」(川崎宿−川崎大師)間2キロメートルで開業した。この時の川崎駅は川崎宿の入口にあたる現六郷橋のたもと近くにあった。明治35年(1902)9月に、大師線は六郷橋のたもとから川崎の中心地(鉄道院の川崎駅に近い位置)まで延伸されたため、「川崎」は新しい終点の駅名となり、それまで六郷橋南詰にあった川崎駅は「六郷橋」と改名された。(新しい「川崎」駅は大正14年に「京浜川崎」、昭和62年に「京急川崎」と改称している。)
会社は前年の明治31年に「大師電気鉄道」として創業されたが、開業後間も無く社名を「京浜電気鉄道」に変更し、単線だった大師線は開業10ヶ月後には複線化されている。(会社は操業に先立って、六郷川河畔の久根崎に発電所を建設し、電力を自前で調達する体制を整え、本社も久根崎においた。創業時の代表者は立川勇次郎。日本の電車としては京都市電、名古屋電気鉄道に次ぎ、関東では最古の歴史を持つ。)

「川崎市史」によると、開業に至る経緯は概ね以下のように書かれている。
『京浜間に電気鉄道を敷設しようという動きは明治26年頃からあったが、川崎を巡る軌道条例による出願は重複し混乱状態にあって早期の出願は却下されている状況だった。このころ地元川崎町では田中亀之助を中心として、川崎・大師間に、人力車・馬車以外の新しい交通機関を設けようとする計画を起こしていた。このような地元の動きに対応して、当時東京で弁護士を開業し、実業界で活躍していた立川勇次郎らが、同区間に電気鉄道を敷設する計画を、田中亀之助らに提示したのである。
明治29年3月、立川勇次郎らは「川崎電気鉄道敷設特許請願書」を政府に提出するが、県から照会を受けた大師河原村は、「この計画は村の風致を害し、治水上からも大きな悪影響を与えるものである」として強い反対の答申を行った。一方小川松五郎によって組織されていた人力車夫の一団「だるま組」は失業を恐れて、猛烈な反対運動に立ち上がった。これらの不穏な情勢が地元有力者の斡旋などにより収められ、内務大臣から特許状がおりたのは明治30年だった。こうして明治31年3月会社設立の免許を得て、資本金9万8000円の大師電気鉄道会社が創立されるに至った。
明治32年1月、同鉄道は川崎町六郷橋から大師停留所の間で営業を開始した。当初、始点が院線の川崎駅とされず、川崎宿の入口だった六郷橋に止められたのは 人力車夫団「だるま組」との紛議の結果であった。』

明治大正時代の大師線は路面電車で、軌道は六郷橋詰から大師道に沿うものだった。(大師道は港町入口から先は現国道409号線の位置になる。) 大師道は直轄改修工事以前の右岸の水除提だが、現在港町公園がある手前からイトーヨーカドーの辺りまでは大きく南側に湾曲している。この湾曲部の北側(堤外地)は、西方(六郷橋方向)を久根先といい川崎宿を構成する一村になるが、中央部分は多くが対岸の八幡塚村などの飛地になっていたため、明治末期に東京神奈川の境界線が確定するまでは「向洲」と呼ばれていた。
大師線は路面電車の時代には、大師と六郷橋の中間(大師道の湾曲がピークとなる位置(現在ヤマダ電機がある辺りの筋向い)に「池端」(いけはた)という停留場を一つ設けていたが今では何の痕跡もない。(昭和3年、川寄りに新規に専用軌道を引き直した時点で、旧線上(大師道)にあった「池端」は、その後に六郷橋側に 出来ていた「久根崎」共々廃止となり、新路線に「コロンビア前」(現:港町)と「味の素前」(現:鈴木町)の2駅が出来た。)
 
(注):「池端」の呼び方について、大正4年、6年頃の測量に基づく「迅速測図」から制作された官製の地図には、駅名が平仮名で「いけのはた」と記されていた。そのためこのHPでは当初駅名を「いけのはた」と記していたが、大正11年測量に基づく地図から駅名の表示が「いけはた」と変わっていることに気付いたため、京急に問合せたところ、「いけはた」と呼んでいたとする資料しかないとのことなので、大正初期の地形図の方が誤った恐れが強いと判断し、このHPでも「いけはた」に訂正することにした。

京浜電気鉄道は、大師線を開業した2年後の明治34年(1901)2月には早くも多摩川を渡って、川崎宿から大森駅(明治9年に開業した官設鉄道大森停車場前)までを開通させている。この時点で京浜電気鉄道は「六郷橋」を経由する「大森−大師」線となった。
京浜電気鉄道は開業した翌年(明治33年7月)に六郷架橋組合から六郷橋を買収している。買収の目的は、その上に線路を敷き鉄道・道路併用橋にしようとしたためだが、現実には六郷橋は共用に耐えるほどの強度がないことが分かり、急遽六郷橋に隣接した上手に専用の木造仮橋(単線)を架け、明治34年(1901)2月の川崎から大森までの開通に間に合わせたということである。
この木造仮橋はその後撤去されることになるが、「写真で見る郷土のうつりかわり(風景編)」(大田区教育委員会)などに、この時期の貴重な写真が1枚載っていて、六郷橋と並列して架けられた鉄道仮橋を渡る電車が写っている。(京浜電気鉄道は鉄道用には使えなかった六郷(道路)橋を、5年後の明治39年(1906)12月に政府に献納しているが、当該写真は、それまでの間六郷橋が併用橋として使用されなかったことを証明している。)

以上の経緯に関連した記述としては、「多摩川誌」の年表の1906年(明治39年)の欄に、「8.24 台風による豪雨のため平水面に比べて多摩川で5.1m六郷川で4.5m増水する。これにより多摩川にけい留した砂利船100隻が流出し、六郷川に架橋中の京浜電鉄専用橋の橋げた約3.5mが流出した」とあり、同じ年の最後に(「川崎市年表」からの引用として)「12.14 京浜電気鉄道(株)が六郷架橋組合から買収した六郷橋を政府に献納した 」と記載されている。

京浜電気鉄道は、明治35年(1902)6月に、大森までの途中駅になる「蒲田」から「穴守」に至る穴守線を開通させ、9月には六郷橋から「川崎」(現:京急川崎)までの延伸を達成している。
この当時の路線図を(「京浜急行100年の歩み」からコピーして)左に載せた。原図は小さくて字が殆ど読めない。(カラーで書いてある駅名等は勝手な追記で、推測も含むので必ずしも正確とは言えない。)
実線は既設線で、破線は工事中(乃至は計画線)と解釈されるが、2重線部分の意味は分からない。

その後穴守線は、大正2年(1913)に海老取川を越えて穴守神社のある穴守まで延伸された。その時点で上図にある「穴守」駅は「稲荷橋」と改名されたようである。
上図で注目されるのは、明治35年の時点で、穴守から羽田の渡し近傍を通って川崎大師に至る路線を構想していたことが伺われることである。(京浜電気鉄道は当時世俗的信仰のメッカとして人気の高かった穴守稲荷と川崎大師の双方を連絡する鉄道になったが、この両支線を周回させる構想自身は結局未完に終わった。)
尚、「山谷」は現:「大森町」、「沢田」は後に「学校裏」となり現:「平和島」、「八幡」は後に「海岸」となり現:「大森海岸」
明治37年(1904)5月には、都心方向に向けて大森から先が品川まで延伸され、本線は「品川−川崎」線となった。(下の遊覧地案内図は明治37年当時の社内掲示。上掲の明治35年の線路図との違いは、大森が分岐線となり、品川方面の海岸線が「海岸」から「青物横町」(現:青物横丁)を経て「八ツ山」まで延伸されている点である。)

右図(「京浜急行100年の歩み」から)で分かるように、本線の品川方面は大森駅から延ばされたわけではなく、1つ手前の「海岸」駅(旧:「八幡」、現;「大森海岸」)から延伸された。”品川”では当初は東京市域には入れず品川宿北端の「八ツ山」(現「北品川」)が終点だった。「大森」への連絡は「海岸」からの分岐線ということになったが、この大森支線は昭和12年まで存続した後廃止されている。)
翌明治38年(1905)12月には川崎から横浜方向が「神奈川」まで延伸され、本線は「品川−神奈川」間が開通するようになった。(「神奈川」も院線の横浜までは達しておらず少し手前で止められた。この間明治37年9月に、日本初のボギー車が就役している。)
京浜電気鉄道は明治31年に、東京市京橋区で「大師電気鉄道」として創業したが、翌年大師線を開業すると本社を久根崎に移転し、(横浜電車鉄道と合同して)社名を「京浜電気鉄道」に改称した。この時既に京浜間に電車を通すという大きな目標を持っていたことが分るが、実際に大師線の開業から僅か6年でその目標を達成したことになる。

京浜電気鉄道が京浜間の連絡を実現したことで、官設鉄道(現JR・当時は汽車)との競合関係に入り、乗客獲得競争が始まることになる。電気鉄道はスピードに優れていたが、官設鉄道は「新橋−横浜」間に急行列車を走らせるなどの対抗手段をとったので、京浜電気鉄道にとってスピードアップは至上命題であったと思われる。
こうした背景から京浜電気鉄道は、「六郷橋」駅を経由せず、「雑色(ぞうしき)」から、直接「川崎」駅につなげる短絡ルートを開拓することになる。そのために六郷(道路)橋と官設鉄道六郷鉄橋の間に新たな鉄道専用橋を架け、川崎宿から多摩川を渡った六郷村の側に「六郷堤」駅(現:「六郷土手」)が作られ、新線は明治39年(1906)10月に開通している。(明治35年の路線図にある「八幡塚」駅はいつまで存続したか不明だが、いずれにしても短命だった。むしろその後「雑色」と「蒲田」の間に「出村」駅がつくられ、昭和前期頃まで比較的長く存続していたようである。)
新ルート開通時に京浜電気鉄道が架けた専用橋は木製であったが、隣接する官設鉄道の橋は30年近く前に既に鉄橋に架け替えられていたので、京浜電気鉄道としてもこの時の専用橋は仮橋の位置付けであったと思われる。新ルートが開通した2年半後には、六郷川鉄橋の建設に着手し、鉄橋は明治44年(1911)4月1日に開通している。

京浜電鉄のこの当時の動向として、「(旧版)川崎市史」に、「明治43年に大森から羽田を経て鶴見に至る迂回線の敷設を企画したが、採算の見込みが立たず、具体化の運びにはいたらなかった」、という記述がみられる。
複線化専用軌道化の工事は品川方面から徐々に進められた。大森から六郷までは東海道の中を走っていたが、大正時代末期に東海道が第一京浜国道として整備し直された時期に、この間の全線が専用軌道を走る複線の形に改められた。

(以下3枚の写真はいずれも「京浜急行100年の歩み」から転載)

京浜電気鉄道は川崎では院線との接合が叶わなかったが、この間(あえて大森を捨てたように)名実ともに京浜電気鉄道になることを最優先したように思える。(その後品川方面では、大正14年に品川跨線橋(八ツ山橋)が出来て、京浜電気鉄道は「高輪」に延伸する形で東京市内に入った。)

湘南電気鉄道は、横浜から三浦半島方面への路線の建設を目的として大正6年に発足したが、関東大震災に遭遇するなどして難航し、大正14年に京浜電気鉄道が経営に参画する形で会社が設立された。
湘南電気鉄道は、昭和5年(1930)に、「黄金町−浦賀」、「金沢八景−湘南逗子」を開通させている。
京浜電気鉄道は横浜方面では、昭和4年に神奈川から月見橋(横浜(仮)駅)まで延伸させ、翌昭和5年に横浜新駅までを開通させ省線と接合していたが、翌昭和6年に、京浜電気鉄道が「日ノ出町」まで延伸し、一方湘南電気鉄道が「黄金町」から「日ノ出町」まで延伸することで両線の結合が図られ、相互乗入れによって「品川−浦賀」間が直通運行されるようになった。

昭和8年(1933)4月、省線品川への乗入が叶ったため、「品川−浦賀」間の全線が開通、それに伴い「八ツ山」〜「高輪」の軌道は廃止されることになった。
右の写真は省線品川への乗り入れ時のものらしいが、本線は京浜電気鉄道と湘南電気鉄道が相互乗入れしている時代で、左が湘南電鉄のデI形、右が京浜電鉄デ51形と書かれている。
京浜電気鉄道は、明治37年に品川(八ツ山)〜川崎間を開通させた頃の一時期、軌間を1435mmから1372mmに変更していたが、省線品川への乗入れを開始したこの時期に軌間を再変更し、品川〜横浜間で軌間を1435mmにする工事を竣工させている。
昭和12年に盧溝橋で日中戦争が勃発し、挙国一致体制が推し進められる中、「陸上交通事業調整法」の施工によって合併勧告が行われ、昭和16年に京浜電気鉄道と湘南電気鉄道は合併して京浜電気鉄道が存続会社となるが、翌年には戦時体制下の大合併が行われて東京急行電鉄と名前を変える。(東京横浜電鉄、小田急電鉄、京浜電気鉄道が合併して東京急行電鉄となり、後に京王電気軌道もこの大東京急行電鉄に合併された。)

この間に大師線は、川崎大師からの先が、産業道路、入江崎、桜本まで延伸され、桜本で川崎市電と接続するようになっている。 (大師線の以後のこと及び「海岸電気軌道」などのついては、[参考32] の方に掲載しています ))
昭和22年終戦とともに(大)東急電鉄は旧経営主体別に分離されることが決まり、昭和23年旧京浜電気鉄道は京浜急行電鉄として正式に再スタートし、品川〜浦賀間の直通運転を再開している。品川〜逗子海岸で特急の運転を始めたのは昭和27年、最高時速100km/hが認可されたのは昭和33年である。

昭和41年には京浜川崎駅付近の高架化を竣工させ、その後も社是として踏切除去の方針(本線全線の高架化)が次第に実現されていく。
昭和43年には快速特急の運行が開始され、品川〜泉岳寺の延伸工事が竣工、都心への直行運転が開通することになった。

現在の京急電鉄六郷鉄橋は昭和45年に着工し、翌年(JR東海道線の六郷橋梁が架け替えられた年)に上り線が竣工、翌47年には下り線も竣工して、全面的に切替られた。
新橋は、全長550メートルの全径間が連続トラス構造で、旧橋のイメージが引継がれた。六郷川には純粋に鉄橋といえる橋は今ではこの橋しかない。
(「六郷土手」駅は旧提時代の設置だったので、鉄橋改架の工事に合わせて新提近くまで移設し、同時に高架化を図って踏切を無くした。)

昭和53年に都営地下鉄との相互乗入れを開始、平成3年(1991)には、「京急川崎」〜「千葉ニュータウン中央」間で都営浅草線、京成線、北総公団線の4社による連絡運転が開始され、この一時期、六郷鉄橋には様々な色模様の車輌が行き交う様子が見られた。

平成5年には都営浅草線方面からの乗入車両は空港線の羽田に向かうようになり、平成10年に念願の羽田空港駅の開業に至った。その後平成16年12月の第2旅客ターミナルビル供用開始に伴い、第2ターミナル口改札を新設、両方のターミナルビルに接続する駅となっている。

  (京急関連の記事は本ページ以外にも、 [参考32] や、 [参考14] にも一部記しています。)



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