<参考5>  JR六郷橋梁の歴史


明治政府は明治2年(1869)、東京・横浜間の鉄道建設を決定し、翌明治3年に測量に着手、明治4年3月に工事を開始した。鉄路の敷設は明治5年2月に終わり、9月12日に新橋・横浜間全線が開通している。
(以下「川崎市史」から、この間の経緯につき詳述された「京浜間鉄道の開通と川崎駅」の一部を抜粋し再編して転載する。
『明治2年には英国公使ハルリ=パークスが、新政府に対し、鉄道創業の急務を説き、盛んに資本の借款を勧めた。こうした動きの中で新政府は、明治2年11月、鉄道起業の廟議(びょうぎ)を決め、まず東京・横浜間の鉄道工事を起こすことを命じたのである。新政府は、その資金として、ロンドン銀行を経て、外国公債480万円を募集、この資金によって品川を起点とする京浜間の第一期工事が起こされることとなった。
明治3年3月19日、鉄道掛事務局が築地に設置され、さらに、同月22日、横浜の野毛町に横浜出張所が設置された。そして、英人技師モレル、建築師ダイアック、土木大属小林易知らによって、汐留および野毛浦海岸の両方から、測量が開始された。
このとき選定された路線は、次のようであった。すなわち、旧竜野藩邸を汐留駅とし、ここを起点として、田町を経て、海岸沿いに品川宿まで埋立地を造成する。そして、八ツ山付近に品川駅を置き、新井宿・蒲田を経て、六郷川に達する。六郷川には63間の橋を架け、堀ノ内に川崎駅を置く。更に、鶴見を経て神奈川台を切り割り、神奈川駅より先の海岸を埋め立てて対岸に達する。横浜駅は、野毛浦埋立地におき、石造二階建てとする。
このような計画のもとに、工事は着々として進められ、ついに明治5年5月7日、横浜・品川間の初運転が行われた。同月27日には、汐留停車場を新橋駅と改め、6月5日神奈川と川崎の両駅が開場した。また、8月には、新橋・品川間の工事が落成し、9月12日には明治天皇が臨席し盛大な開業式が挙行された。
初運転当時の状況をみてみると、運転回数は1日2往復で、料金は片道上等1円50銭、中等1円、下等50銭であった。このころの貨幣価値は、米1升が5銭という時代であるから、利用者もごく限られた。しかし新橋・横浜間の全通後は、料金も引き下げられ、利用者も次第に増加した。明治5年5月7日の仮営業より同年末までの乗客数は、49万578人であり、収入17万6303円、営業費11万3465円、差引6万2838円の収益があったという。』)

六郷川を渡る橋梁の建設は、全区間中の難工事のひとつだったとされる。「六郷川の鉄道木橋」(「史誌第13号」)によれば、流水部(川崎側)を渡る本橋は明治3年10月に着工、全長115メートル、檜(ひのき)製のラチス形(菱格子状)のトラス橋7連からなり、橋台には石材が使われたものの橋脚は木造(松丸太)であった。屈撓(くっとう)防止のため、橋脚からトラスに斜材を掛けた、独特の対束補強構造が採られていた。(クィンポストの支柱は振動が甚だしいため後で追加されたものという説もある。)

明治4年4月に本橋が竣工すると、引き続き六郷側の陸橋("避溢(ひいつ)橋":川が増水氾濫した場合を想定し河原に続く陸地部分に架ける橋)に着工するが、この陸橋506メートルは桁の上にレールを敷いただけの簡単な構造だったらしく、明治4年7月には全体が完成している。
(「よみがえる大田区の風景」(大田区立郷土博物館)の中に、初代の鉄道橋の写真が1枚載っている。また「写真で見る郷土のうつりかわり」(大田区教育委員会)の中にも全く同じ(右岸の上流側から土手越しに本橋を見る)位置から撮った別の写真が載っている(後者は明治8年頃と注記してある)。双方はよく一致していて、初代鉄道橋の独特な外観を知ることが出来る。 (上掲は「よみがえる大田区の風景」からコピーした。)

浮世絵師・昇斎一景も明治4年に描いた「六合陸蒸気車鉄道之全図」など、この橋の絵を数枚残している。この絵は列車が奇妙な形に書かれているため、実物を見ずに想像で画かれたものと言われているが、橋自身はかなり良く画かれていて、ラティス構造や避溢橋などについては工事中の現物を見ていたのではないかとされる。この絵では橋脚が単純に描かれており、独特なクィンポストの補強構造になっていないことは注目される。)
下の絵は昇斎一景の1枚で、川下側の左岸(六郷の渡し)から見た構図。水路の両岸には橋台があって、八幡塚村の側に橋台から長い避溢橋が描かれている。周囲の雰囲気は現状の河川敷とよく一致する景観になっている。

細かい話になるが、「大田区史」によると、明治4年7月に出来た初代の木橋について、陸橋部分506メートルのうち、避溢(ひいつ)橋が作られたのは僅か36.5メートルだけだったとされている。ここの部分は「避溢橋は15フィート(4.572メートル)の檜製の木桁8連を、木製の橋脚に載せて河原の流水部に近いところに架けている。残りの部分は河原を横断する築堤によったと思われる」と記述されている。これが事実とすれば、初代の鉄道木橋は実質的には全長が151.5メートルということになり、従前六郷川に架けられてきた人道橋と同規模のものになる。ただし川道の7割に相当する長さで洪水の流下を妨げるような築堤を施したとすれば重大で、当初そのような計画であったが...ということならともかく、実際に洪水を堰き止めてしまうような危険な工事が行われたとは考え難い。
明治10年新しく鉄橋に架け替える際、経費節減のため、本橋を従前の木橋より67メートル長く全長182メートルに延長する見返りとして、残りの河原の部分を全部築堤にするという計画があった。これに対して住民から治水上の嘆願がなされ、その中に「〜陸橋之処ハ何卒従前之通御取設可被下候〜」と書かれた部分がある。即ち「被災することは必定であり、陸橋の所は今まで通り設置してほしい」旨の嘆願があったわけで、実際に村民の請願が受け入れられて、鉄橋は全長500メートルのものが作られたことから考えると、木橋の時にも河原全体に避溢橋が架けられていたとみなすべきではないだろうか。
上で紹介した写真の方は残念ながら、流水部の本橋をメインに写していて避溢橋の部分については良く分からない。ただ昇斎一景の絵の片方には、長い避溢橋が描かれており、端で途切れるまで20程度の橋脚が見えている。昇斎一景の絵については中身の信憑性に議論があるが、橋の部分は概ね正しいと仮定すれば、少なくとも「避溢橋は木桁8連」ではなかったことになる。

「多摩川誌」によれば、開通の翌年明治6年9月に、「暴風雨のため六郷川(多摩川)が出水し、東京・横浜間の汽車が不通となる(東京日日新聞)」ような状況に巡り合う。荒れる多摩川は想定以上の急流となって、橋脚下部を堀り取ってしまうことになった。更に木材の表面処理も不適切であったとみえ、予想外に早く腐朽してきたことが重なり、5年後の明治10年(1877)には、この鉄道橋は早くも鉄橋に架け替えざるをえなくなった。(表面処理については、生乾きの木材に防腐剤としてコールタールを塗ったとされる。ただし書き物によってはコールタールでなくクレオソートとしているものもある。以下余談だが、クレオソートはコールタールを蒸留して得られる留出油を調整した油状液体で、成分中のベンゾ(a)ピレンが発癌性物質であることなどにより、ECを中心に使用禁止や規制強化の動きがある。これを主成分とする「正露丸」にも矛先が向けられている。)

新たな鉄橋の設計者は鉄道省の雇建築師シャーヴィントンと雇建築助役のシャンで、製作は英国リバプールで行われた。全長は500メートル、流水部は径間100フィートの錬鉄製のポニー・ワーレントラス(筋交の傾斜方向が交互に変わるタイプで、トラスが上面まで覆っていないもの)6連(182メートル)、避溢橋は上路鈑桁24連から成り、石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚が作られた。木橋の時期は単線だったが、鉄橋に改架された際同時に複線化が図られた。
明治10年(1877)11月に完成したこの鉄橋は、明治45年(1912)まで35年間使用された。大正4年(1915)撤去され、単線用に改造のうえ御殿場線の第2酒匂川橋梁に再使用された。このトラスは昭和40年(1965)まで現役の橋梁として使用され、その後(一連のみが)愛知県犬山市の明治村で、六郷川時代の姿に復元の上保存展示されている。 (参考HP 明治村で保存されている六郷川橋梁

官設鉄道(鉄道院)は、並行する京急電鉄との対抗上、明治末期には京浜間の電化をめざすことを決め、六郷川左岸の矢口に発電所を設置した。京浜線(現JR京浜東北線)で電車の運転が開始されたのは大正4年(1915)5月である。
右上の絵葉書は戦前というだけで、いつ頃かという詳細は載っていない。右岸の上流側から撮っていて、背後に僅かながら京急鉄橋のトラスが見えている。
現在六郷川に架かっているJRの鉄橋は、京浜東北線多摩川橋が昭和42年、JR東海道本線六郷川橋梁が昭和46年に竣工したもので、いずれも全長520メートル、流水部のみ3連の連続トラスとし、河川敷を渡る部分はコンクリート製の連続桁構造で、2本の橋は極めてよく似た構造をしている。 (因みに丸子地区に架けられている新幹線橋梁やJR横須賀線(旧品鶴線)多摩川橋の全長は400メートル内外である。)



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