<参考33>  多摩川河口域の変遷


 (1) 近世、近代の多摩川河口

 近世から近代の多摩川の河口沿岸一帯は、砂洲の発達した遠浅の海だった。この一帯の商業や水運・漁業の中心地「羽田猟師町」は、大師橋上手から海老取川までの左岸沿岸部にあり、海老取川から先は扇ヶ浜と呼ばれていた。江戸時代後期の地誌『四神地名録』(古川古松軒が寛政6年(1794)将軍家斉の命で江戸近郊を巡視踏査した時の記録)は荏原郡の名産を「品川大森の海苔、玉川の鮎、羽田の蛤の3つ」と記している。当時羽田浦の名産として知られていた「蒸し蛤」は、青松白砂の景勝地だった扇ヶ浜(羽田弁天社前の茶屋)で売られていた。
 扇の要の位置にあった出洲(「要島」と呼ばれていた)に鈴木弥五右衛門が干拓に入ったのは天明年間(1781〜89)で、文化12年(1815)に分村独立して「鈴木新田」と呼ばれるまでになった。
 鈴木新田の海側(東貫川で隔てられた先)にあった洲が、天保時代(1843)に「海門内之御備場」の最適地に選定され、砲台築造が試みられたことがある。工事は政変(老中水野忠邦の失脚)を機に中止されたが、その後ペリー来航で江戸湾防衛が緊迫度を増した際などにも、羽田が再び砲台の候補地になることは無かった。浦賀水道を突破された場合、江戸内湾を防御する上で羽田は地理的には要衝の地であったが、一円に羽田洲が広がり、射程高々2〜3キロメートルの大砲を据えても、遥か沖合を通過する敵船を打払うことは現実的ではなかったのである。  ただ天保時代に、この一件があった名残で、以後左岸の波打ち際に位置する洲は「羽田お台場」と呼ばれるようになった。隣の鈴木新田が繁盛した昭和初期には、ここに競馬場が作られたことがあり、戦前には日本特殊鋼の工場用地となり、一部には高射砲陣地が置かれたりした。
 (「鈴木新田」は海老取川を渡った先の一帯、「羽田お台場」は現在国際線ターミナルやエプロンの工事が行われている辺りに相当する。)

 鈴木新田にあった羽田弁天社は、昔から高灯篭に火を灯し、常夜灯として船舶の標的となる役目を果たしていたが、砂洲の堆積が年々沖に進んで、常夜灯が船の目印になりにくくなったため、嘉永3年(1850)には社殿から離れた羽田沖の浅瀬の突端に櫓(やぐら)を建て、その櫓が自然に朽ち損じた後は、土を盛って家を建て、たいまつを燃やして、本格的に灯台の役目を果たすようにしたという。  明治期の河口付近の地図を見ると、多摩川左岸に沿って鈴木新田の先に字御台場があり、その向かいの川中に「字常夜灯」と名付けられた三角洲のあることが分かる。その後洪水によって字御台場と字常夜灯の間が河口の本流に変わり、常夜灯は対岸位置に変わってしまっため、明治初期に余儀なく廃絶されることになったという。
 羽田弁天の常夜灯があった時代に「常夜灯」と呼ばれていた河口の砂洲は、右岸側に換わってから後は「三本葦」と呼ばれるようになり、日本の航空黎明の一時期、飛行訓練に利用されたところとして知られる。
 若い頃から飛行機の試作に取組んでいた玉井清太郎は、雑誌「飛行界」の記者相羽有(たもつ)の協力をえて、大正5年(1916)羽田穴守に日本飛行学校を創立、対岸側(大師河原)の出洲に飛行場を開設し、試作機を飛ばしたり、訓練生を指導したりした。この時飛行場が作られた砂州が「三本葦」で、南西側に隣接していた「末廣島」と共に、現在多摩運河のある近辺で、右岸側の河口海岸を形成していた。(清太郎は翌年自らが製作した玉井式3号機で帝都訪問飛行に出るが、3回目の飛行中に翼が折れ芝浦で墜落死してしまう。)

 
 (2) 近代の鈴木新田と羽田飛行場の始まり

 穴守稲荷神社は、鈴木新田を開墾した鈴木弥五右衛門が、文政年間(1818〜1830)の初め頃、新田開発の守護神として、要島の堤防に稲荷社を勧請したのが始まり。明治政府は祭政一致の理念を実現すべく、全国の諸神社を神祀官の管轄下におき、伊勢神宮を頂点とする社格制度によって編成し体系化した。そのため私祭を規制すべく、「地蔵堂稲荷の類」にかかわる社寺を無願で創立することを禁止した。明治18年鈴木嘉之助は東京府知事に「稲荷神社公称願」を提出し、その甲斐あって神社創建は公許され、以後「穴守稲荷神社」と公称するようになった。
 明治期以降の鈴木新田は穴守稲荷を中心とする門前町だが、界隈には黒田家の鴨猟場があった他、海岸には幾つもの海水浴場があり(春は潮干狩り)、明治29年に鉱泉が発見されたこともあって、周辺一帯はレジャー施設や歓楽街として発展した。
 京浜電気鉄道は川崎宿-大師間で開業した翌々年の明治34年(1901)、川崎宿−大森駅線を開通させたが、その翌年には、途中の蒲田から稲荷橋(海老取川を越える人道橋)の西詰まで支線を出し、川崎大師とともにリゾート地としても賑わった穴守稲荷への参詣線を兼ねる足となった。
 鈴木新田の多摩川岸には「大師の早船」と呼ばれた帆掛舟の発着場があり、川崎大師(「大師の渡し」の右岸側発着場)と穴守稲荷を結び、水路を利用して双方の参詣客を連絡する船便が運行されていた。(江戸時代には川舟がもぐりの駄賃稼ぎを行う「脇渡船」が宿場で問題にされていたが、ここには「直路(じきろ)」と称し、大森から海老取川を通って羽田経由で川崎大師に至る非公式ルートがあったという。)
 鉄道の方も京浜電鉄穴守線が、大正2年(1913)には、海老取川を鉄橋で越えて鈴木新田に入り、神社のある穴守まで延長された。これによって穴守稲荷神社の参拝者は増加し、花柳界や博打関係など "穴" に縁(ゆかり)の人たちの信仰も集めて繁盛を極めたという。

 昭和4年(1929)逓信省航空局は、民間飛行場の用地として、鈴木新田に隣接した北側(江戸見崎の沖合)に埋立地を選定し、翌年工事に着手した。当地は葦原だったところが、大正末期から埋立造成されていたが、工場用地として買い手がつかないまま、逓信省によって買い取られることになったらしい。
 昭和6年(1931)に300M×15Mの滑走路1本を有する飛行場(53ha)が完成し、東京飛行場がそれまでの立川陸軍飛行場から羽田に移転してきた。新飛行場には、木骨羽布張りの複葉機から金属製の単葉機までが離発着し、民間航空のメッカとなった。数年後には海老取川の水面を利用した、水上機の発着も行われたという。
 羽田飛行場は昭和14年、南側に隣接する京浜電鉄運動場などを買収して拡張され、滑走路は800M×80Mのもの2本が整備されるようになった。太平洋戦争に突入すると、1941年(昭和16)から海軍航空隊も使用するようになり、さらに非常時体制下、陸海軍関係の徴用輸送が増大、軍の専用基地としての役割を担わさせられた。(旧日本軍に空軍は無く、航空機は陸海軍それぞれが保有していた。)

 
 (3) 内務省の直轄改修工事

 内務省により多摩川下流部の直轄改修工事が開始されたのは大正7年(1918)である。改修計画は、水害の最も甚しい下流部22km区間について、洪水防御を主目的とし、多摩川の河状を統一的に改修することを目指した。
 既往最高の明治43年洪水位に相当する流量を算定し、これに幾分の余裕を見た結果、浅川合流点より下流の計画高水流量を毎秒4,170立方米と決定した。(1尺四方の石の容積に喩え、高水流量を大雑把に”15万個”と決めた。これがメートル法に換算されて半端な数値になった。)
 流下断面の不足する個所は陸部の掘削または水路の浚渫(しゅんせつ)を行って洪水の疏通を図ることとした。具体的には、高水敷形成のため大正9年度より堤外地の人力掘削に着手、多摩川改修事務所内に機械製作場を設置し、11年度より機械掘削を開始した。従来の無堤、霞堤など広狭一様でない河状を河幅383〜545mに整正、連続堤防を設置することとし、大正10年度から掘削土砂を利用した築堤工事にとりかかった。大正12年度には護岸工事に着手、翌13年度には鋤簾(じょれん)式蒸汽掘削機などを使用して、低水路の機械浚渫を開始した。
 多摩川改修工事は、大正7年度より同14年度までの8ヶ年継続事業として起工されたものの、第一次大戦の影響による急激な物価高騰や、大正12年9月の関東大震災などのため、予算の増減や工期の繰延べなどが行われ、昭和8年度にやっと完成するまで16ヵ年の長きに亘る継続事業になった。
 『多摩川誌』に当時の職員の座談会が収録されている。工事の中身を知る参考になると思うので、回顧談の中から以下に一部を要約引用する。「当時多摩川改良事務所は小向地先にあって、その下に、中原、御幸、六郷の3工場があった。各工場の仕事は概ね高水敷の土砂を規定の高さに掘削してその土砂で新堤を築造する作業だったが、ばくだいな剰余土砂が生じ、処分先に苦慮した。そこで池や沼、水田、湿地の民有地に有料の民地捨土を行った。〜 湿地荒廃の地に投棄して、その総土量は441万立方米、造成された
成果面積は492町余りに及び、現在の住宅地、工場地として今日の繁栄を極める布石にもなった。」
 (直轄改修工事の主要な中身は堤外地の掘削と築堤だった。剰余土砂により造成された用地面積は換算すると488haに上るが、オキテン前の羽田空港の敷地面積が408haだから、工事中に如何に大量の掘削が行われたかが推測される。)

 
 (4) 砂利採集の激化と高水敷の乱掘

 直轄改修工事の時期に、これと平行して川を変えていったのは、砂利採集の激化である。『多摩川誌』には、「六郷川は繰り返し大きく蛇行していて、沿岸には砂利が豊富にあった。近代の多摩川の川岸や周辺は土砂がうず高く堆積して、河岸は著しく高く、その外側には一面に樹木が茂っていた、それは現在の多摩川からは想像できない景観だった」と書かれている。
 大正時代まで六郷橋の辺りは清水で、水道の普及が十分でなかった頃には、六郷橋の近辺で多くの人が飲料水を汲んでいたと言われている。『多摩川誌』は砂利採取の影響について、「大正10年(1921)頃まで、海水の遡上範囲は河口から4kmほど〔六郷水門下手〕だったが、昭和10年(1935)頃には14km〔丸子橋上手〕にまで上った、それほど河床の低下は著しかった」と書いている。
 その後高水敷も専門業者らによって乱掘され、その様子が『内務省東京土木出張所(1935):多摩川砂利採取取締に関する状況』から以下のように引用されている。「然るに近年折角改修完成せる本川の川敷より砂利・砂を盗掘するもの激増し、低水路は勿論高水敷地の随所を殆んど完膚なき迄に乱掘し、護岸工事を破壊し或は堤防内に喰ひ込等河状を著しく荒廃せしめ…」
 乱盗掘を厳重に取り締ることにしたのは昭和9年(1934)からで、同時に掘削禁止の結果生じる失業者の救済方法も告示された。この時の『多摩川砂利採取取締方法』に「高水敷よりの採掘は絶対に之を禁止する」という一文があり、高水敷までが抉られていた当時の状況が推察できる。(業者組合との協定によって、二子橋下流に於ける砂利類の採取が全面的に禁止されたのは昭和27年(1952)のことである。)

 左岸側を六郷橋から岸伝いに川下に向かうと、ヨシ原が始まってから数百メートル行った地点で、古い石組みの低水護岸が突然打切られ切上げられている現場を確認することが出来る。(その後の低水護岸は堤防方向に200メートル位飛んだ位置から再開されるが、開始地点辺りは今ではすっかり土に埋まり荒地になっている。)  これは戦前に、乱盗掘されボロボロになった高水敷の修復を、多摩川緑地の方面から行ってきたものの、なぜか六郷橋を過ぎた地点で打ち切りとなり、その後掘削された状況に合わせるように、(多分間に合せに)堤防寄りから続きの低水護岸を作った結果がそのまま残されたためだと思われる。
 (旧日本陸軍の空中写真によれば、昭和11年には、石組みの護岸が打切りとなっている辺りから川下側に高水敷の激しい浸食跡が認められ、19年の写真では堤防側に飛んだ位置から川下に向けた新しい低水護岸が見られるようになる。戦後の昭和21年の米軍写真では、この場所は水域の急拡大部に換わり、その後地図もそのように書換えられた。) 送電鉄塔のある場所は、鉄塔が作られた当時は陸だったと考えられるが、防災とは無関係な砂利の乱盗掘が激化した結果、昭和20〜30年代には水域の中に浮く島の状態になっていた。
 その後の自然応答によって、抉られたような掘削部(デッドスペース)には土砂が堆積して陸化が進行し、水路に沿う旧高水敷縁には洲が発達、出洲と護岸の間は干潟に換わっていった。鉄塔周辺一帯はヨシ原になるが、現在ヨシ原の中心部分から陸側の植生はヨシからアイアシに置換わっている。一方中洲の方は背骨の部分が満潮水位面に達し、ほんの数年前に表面が一斉にヨシで覆われるようになった。(緑化の年は敷詰められたウシオハナツメクサやヌマカヤツリ、イセウキヤガラなどが咲乱れ、正に百花繚乱の状態だったが、それはほんの一時のことで、翌年には全面がヨシに制圧され、干潟水路の出入口近辺に僅かにイセウキヤガラが残った。)

 
 (5) ハネダエアベースから東京国際空港へ

 昭和20年(1945)9月、敗戦により東京飛行場は占領軍に接収され、「ハネダアーミーエアベース」と呼ばれるようになる。兵員や物資を輸送するため、大型機が離発着出来る空港の建設を急務とした占領軍は、海老取川東側全域に(48時間以内の)強制退去令を出し、1320世帯3000人余の住民を追出して直ちに飛行場拡張工事に取掛かった。(空港用地は飛行場があった江戸見町から中心繁華街の鈴木町、穴守町それに東側の字御台場を併せたL字型の敷地とした。)
 占領軍は11月に着工し、埋め立てから滑走路の敷設までを半年で仕上げた。東西に伸びるA滑走路は、旧飛行場から東貫運河北部を埋めて御台場の端を超える位置まで通され(2150×45m)、南北に伸びるB滑走路は旧飛行場の北端から鈴木新田南端の弁天橋近くまで通された(1676×45m)。
 「ハネダエアベース」は連合国の公用機や米軍輸送機だけでなく、昭和25年以降民間航空輸送事業にも用いられ、ノースウエスト、パンアメリカン、英国海外、カナダ太平洋など7社が乗り入れ、極東路線の拠点空港として利用された。
 当時マッカーサーの航空禁止令により、日本人が空を飛ぶことは固く禁止されていたが、昭和26年になると、GHQの意向を受け日本航空が設立された。外航7社の構想に対して、国際法上の「カボタージュ(Cabotage)」の原則を盾に、自国の営業権を主張し認められたもので、運航・整備は米国に委託するという条件付きだった。(航空禁止令が解除されたのは翌27年になってのことである。)
 昭和27年(1952)講和条約発効によって飛行場は占領軍から返還され、「東京国際空港」と改称して新たなスタートを切った。昭和29年には羽田御台場の東側を600メートル埋立造成し、A滑走路を多摩川の際まで 2550m に延長した。
昭和30年には新ターミナルビルが竣工し、翌年「空港整備法」の制定によって、ジェット化、エレクトロニクス化に備える体制を敷いた。
 日本航空がダグラスDC-8を導入したのは昭和35年で、昭和36年にはA滑走路の北西側が延長され、A滑走路と平行に新たにC滑走路(3150×60m)が新設された。ローディングエプロン(駐機場)は22バースが増設され、航空保安施設、ターミナルビルも一新された。これらの工事はオリンピックの行われた昭和39年(1964)までには完成し、東京モノレールと首都高速1号線も開通して、空港アクセス交通の大量化に対処した。
 昭和46年(1971)にB滑走路の北側延長工事が完成(2500×45m)したことにより、東京国際空港は当初計画の基本形態を完成させ、東京国際空港の原形ともいえる体制が出来上がった。だが3滑走路態勢は長くは続かず、海外渡航の自由化に伴う大幅な増便によりエプロン不足が深刻化、A滑走路を潰してエプロン38バースを増設するなど苦肉の策が講じられ、運輸省は昭和47年には早くも羽田沖を埋立て海上空港を建設する計画案を東京都に申入れるに至った。

 
 (6) 京浜運河計画の推移と浮島町の造成

   条件に恵まれて早くから国際港として発展してきた横浜港に対し、東京港にも大型の船舶が入れるようにしたいという願望は明治の時代から東京の経済界にあったが、横浜から品川までの沿岸は遠浅で航路の開削が必要となるため、資金面の理由により実現には至らなかった。
 「京浜工業地帯」建設を強力に推進したのは浅野総一郎(1848-1930)である。彼は明治期に東京港や横浜港の近代化を目指し、京浜間に運河を開削し、その土砂により沿岸部を埋立て臨海工業地帯を造成しよう考えた。彼の構想は東京市会では潰されてしまうが、渋沢栄一(幕臣、近代日本資本主義の父と呼ばれる)、安田善次郎(東海道新幹線の基になった「日本電気鉄道」を計画したことでも知られる)らの支援を得て明治41年(1908)に「鶴見埋立組合」を設立し、大正初期に神奈川県から埋立事業の免許を得るに至った。(当初計画では、鶴見川河口から多摩川河口までの150万坪(約500ha)の範囲を埋立造成するとした。)
 大正3年(1914) 「鶴見埋立組合」は発展的に解消、「鶴見埋築株式会社」が設立された。鶴見側から順次埋立が進められ、関東大震災後の昭和3年(1928)には当初予定の150万坪の埋立を完成した。埋立地には浅野財閥系の企業を初めとし多くの企業が相次いで工場を進出させたが、中でも白石元治朗が創立した日本鋼管が中心的な存在だった。(「鶴見埋築株式会社」は大正9年(1920)には「東京湾埋立株式会社」となり、昭和19年(1944)に「東亜港湾工業(株)」、昭和48(1973)に「東亜建設工業(株)」と改称する。)
 内務省港湾調査会は昭和2年(1927)に、(東京港から多摩川河口先を通って鶴見川河口に至る22.6kmに、1万トン級の船舶が航行できるような汽船航路を開削し、運河を開削した土砂によって630万坪(2000ha)の埋立地を造成、臨海工業地帯を開発する)「京浜運河計画」を策定したが、当時は第一次世界大戦後の大恐慌時代で、工事費用を国家予算から支弁する可能性が無く、内大臣鈴木喜三郎は、運河の通過料を徴収しない代わりに、埋立地を「京浜運河(株)」に交付する(但し道路、荷揚場の敷地は都県に寄付させる)条件で、同社に経営を委ねる方針を採った。(明治43年(1910)に設立された「京浜運河(株)」は「東京湾埋立(株)」の姉妹会社だったが、昭和12年に東京湾埋立(株)に合併されている。)
 京浜運河開削計画は東京側では大森漁業組合の反対運動(鳴島音松の天皇直訴事件など)で停滞するが、神奈川側では、昭和3年(1928)までに鶴見区に隣接する白石・大川町及び扇町、昭和16年(1941)には水江町(旧池上新田の海側)の埋立を完成している。
 戦後、多摩川河口の左岸側にハネダエアベースが作られ、その後も東京国際空港として拡張開発が進むのを見て、神奈川側でも戦前の京浜運河計画は断念せざるを得なくなり、事業は昭和28年(1953)に川崎港港湾整備という形に変更、31年には港湾施設計画と臨海工業地帯造成計画からなる本格的な港湾計画が策定された。  埋立て事業は戦時中に打ち切りになっていた、京浜運河東側部分の工事を続行するものだったが、東京側で羽田空港が拡張となり、京浜運河が直接東京港に延長される可能性が無くなったことから、多摩川河口沿いの海面埋立て事業は旧計画から大幅に変更され、千鳥町の東側は運河を終結させ大面積を埋立てることになった。  大師河原の地先は満潮時には水没する出洲のような地形だったが、私有地であったため、県企業庁は昭和31年末に29万坪弱の広さのこの土地を、2億4,000万円余りを投じて買収した。計画は19万3千坪を大師河原から地続きで埋め、そこで幅100メートル水深3メートルの多摩運河を隔て、その先に100万坪余りの浮島を埋立てる。西隣の千鳥町との間には幅350メートル水深9メートルの大師運河を設け、浮島の西南端と京浜運河防波堤東端の間を川崎港の港口にするというものだった。  昭和31年から川崎漁協などに対し漁業の喪失等に関する補償交渉が行われ、昭和32年までに総額6億円に近い補償額が決定し、神奈川県・川崎市・東亜港湾工業の三者が埋立計画面積比率に従って負担することになった。(主たる受持ち区域は、県が浮島、市が千鳥町、東亜港湾工業が夜光である。)
 工事は数度の計画変更を行い、埋立区域は沖側へ約33万坪が拡張されるなどして、市営の埋立地である千鳥町は1958年に完成、多摩川河口沿いとなる県営埋立地浮島町は昭和38年(1963)3月に竣工した。当初の事業予算は55億円程度であったが、実際には91億円を超える費用を要した。
 川崎港湾計画の承認時点で、埋立に伴う漁業補償協定が結ばれたが、その後も扇島や大黒埠頭の埋立に伴う漁業補償協定の締結が続き、昭和48年(1973)川崎漁協は遂に解散となり、大師の海から内湾漁業の火が消えた。

 
 (7) 大森・羽田の漁業権の消滅と東京港第一航路

 昭和3年(1928)1月末、東京府知事は京浜運河(株)からの出願を受けて、羽田、大森、入新井、大井の4町に対し、計画への賛否を諮った。運河・埋立計画により、地先海面の大半が失われることが、初めて漁民の側に知らされたわけである。これに対して、大森が町ぐるみで反対、羽田町議会も反対を決めた。
 漁場の喪失は、海苔養殖場、貝類養殖場に止まらず、地先漁業の専用漁業権もその7割を失うというもので、品川から大師に至る6町の漁業従事者2万世帯10万人は、これを生死に関わる問題と受止め、以後大森、羽田、糀谷の3漁業組合が中心となり、5000人規模の反対行動が繰返されることになる。
 中国侵略の進行に従い、工業生産力増強という国家的な至上命題から計画の実現を迫られた東京府は、工事を民間委託でなく、府の直営で実施することを決断し、昭和10年(1935)府会に事業実施を諮問した。府会では専ら漁業補償について議論され、昭和11年に付帯条項付で工事を承認する案が可決され、東京市会からも同様の答申が行われた。
 本工事の実施設計は、大森区の森が崎沖を基点に、北側の品川区鮫洲(さめず)沖までの第一期と、南側の羽田沖までの第二期に区分され、第一期分は昭和18年度までの6年間で完成させるということになっていた。
 府知事と関係漁協との間で協定が結ばれ、総額550万円の補償金が支払われたが、その62%が大森漁協に対するもので、これに羽田浦・糀谷浦を合わせた分が全補償額の86%に達する比重を占めた。この数字は当時大田区域でいかに漁業が盛んであったかを示している。

 戦後昭和24年末に制定された漁業法により、海苔養殖や貝類採取のための区画漁業権、定着性の水産生物を対象とした漁業権、特定の網漁法によって漁業を営む共同漁業権などが設定されていた。一方翌昭和25年5月に制定された港湾法では、これら漁業権の対象となっている海域のほとんどの部分を、港湾機能を確保すべき区域に定めた。当然の結果として港湾機能の拡充を図ることが、水産資源の確保と相容れない問題を次々に引起すことになった。
 東京都は昭和26年(1951)に東京港港湾計画を策定し、従来までの艀船(はしけ)による京浜間の二次輸送態勢を、大型船による東京港直接入港に切替えるべく、港湾の整備拡張に向け動き出すことになった。勝島方面などで工事土砂の不法投棄とそれに対する賠償請求が繰返されたが、大井埠頭建設の段階に至って、もはや個別保証ではどうにもならず、内湾漁業の継続は不可能と考えられ、大森漁協は撤退を前提にした漁業補償交渉に転換する。
 昭和37年は2年後に迫ったオリンピック東京大会の開催を控えて、京浜二区(平和島)三区(昭和島)の埋立てと首都高速道路建設の早期着工が強く望まれていた。大森漁協では12月1日臨時総会を開いて、漁業権放棄などの案件を決議、羽田など他の漁協でも相前後して総会を開催、同様の決議を行った。
 漁業従事者による35年間の闘争は、漁業権の消滅をもって終結し、この地区一帯の内湾漁業は終焉した。自然の恵みを得て生業とするする人は僅かに残ったが、既に利害関係の当事者にはなり得ず、周辺の議論は社会インフラ問題一辺倒に終始するようになり、多摩川も河口周辺では、防災面だけが話題となる川になった。(いつしかハゼも釣れなくなっていた。)

 
 (8) 羽田空港の沖合展開(オキテン)までの経緯

 昭和35年(1960:池田内閣の所得倍増計画が打出された年)の夏、日本航空が国内線へのジェット旅客機導入に踏み切り、このことが羽田空港周辺の航空機騒音問題を一気に深刻化させることになった。
 昭和43年(1968)中曽根運輸大臣は美濃部都知事に、B滑走路を延長するための用地造成への協力を求めた。工事は地元の反対を無視して始められ46年には完成した。その後も爆音被害解消問題は進展せず、41年に頻発した墜落事故の恐怖に加え、道路交通量の増大に伴う慢性的な交通渋滞がもたらす排気ガスにより大気汚染が進行するなど、空港公害の様相を呈してきていた。
 運輸省は公害対策を示さないまま、昭和47年(1972)2月、羽田沖を埋立て海上空港を建設する計画案を東京都に申し入れた。これに対し大田区議会は猛反発、3月には「空港を移転すべきである」との意見書を決議した。空港周辺の住民は、航空機爆音被害の軽減や墜落事故の不安解消に向けた改善や対策が遅々として進まないことに業を煮やし、昭和48年大田区議会は遂に空港の撤去決議へと進んでいく。
 昭和50年2月、区長と区議会議長の連名で運輸大臣に、「現空港を撤去し沖合いに移転させること」「新空港は現空港と同一面積で拡張しないこと」「撤去後の跡地は区民に開放すること」など8項目の要望を行った。
 昭和52年(1977)2月美濃部都知事は、田村運輸大臣との会談で、羽田空港の沖合移転をすすめるため地元を含めた当事者間の話し合いの場の設置を提案、8月に運輸省・東京都・地元(大田区,品川区)で構成する「羽田空港移転問題協議会」(通称「三者協」)が設置された。委員には運輸省航空局飛行場部長、東京都都市計画局技監、大田区助役、品川区助役が就任した。(「三者協」は実務者の協議の場として今も存続しているが、正式名称に「移転」の文字が使用されていることに注目。)
 昭和53年(1978)に成田が開港し国際線が成田に移った後も、地方空港からの新規羽田乗入れが相次ぎ、羽田空港の混雑は限界に達していた。大田区は爆音被害から解放されるため、空港の移転を強く求めていたが、運輸省としては、羽田のキャパシティーを増強し過密を打開することが課題であり、騒音対策に限定した現状規模での移転要請は呑めない事情があった。
 結局、東京都が廃棄物処分場としていた羽田沖を埋立て、空港敷地を沖合いに拡張した上で諸施設を住宅地から引き離す、という案で双方の妥協が図られた。昭和56年(1981)8月運輸省に於いて、天野大田区長・多賀品川区長立会いのもと、塩川運輸大臣・鈴木都知事間で確認書の調印が行われた。(跡地については、「東京都が取得し、その利用計画については地元区の要望を充分配慮する」とされた。)  羽田空港の沖合展開計画案は翌57年2月の第十八回三者協議会で示され、58年2月に基本計画が正式に決定、昭和59年(1984)1月「東京国際空港沖合展開事業」(通称オキテン)が着工となった。
 沖合展開事業は、廃棄物処理場として建設残土や浚渫ヘドロが投棄され、マヨネーズ状になった超軟弱地盤を(最先端技術を駆使して不同沈下に対処し)空港用地に作り上げるという困難な土木事業から始まった。稼動中の空港に隣接した工事ということで、高さ制限を受けるなど様々な制約もあった。(京急は平成10年(1998)に天空橋の下からビッグバードまでを開通させるが、これは供用中の滑走路(旧B)の下をシールドマシンで掘り進むという世界に例を見ない工事箇所を含むものだった。地盤改良によって新たに獲得した敷地の広さは580haである。)
 A滑走路の次に西ターミナル(ビッグバード)が完成、平成5年(1993)使用に供されることになった。9月26日空港は平常通り営業され、その夜、航空機87機、地上支援車輌2700台をはじめとする全ての機能は6時間の内に新空港に移動し、翌27日は何事も無かったかのように、新ターミナルでエアライン各社のカウンターやテナントが営業、アクセス道路、立体駐車場がオープンし、モノレールが地下駅に到着した。
 オキテンはその後、C滑走路、B滑走路、東ターミナルと作り進んだ。

 空港の沖合展開(通称オキテン)とはどういう意味だったのか。あくまで沖合いを埋立て現空港を拡張した形にしたい運輸省と、現空港を撤去し沖合いに移転させたことにしたい大田区がせめぎ合った結果、拡張とも移転とも受取れる展開という曖昧な表現が使われ、当面の決着が図られたのである。
 漁業者に漁業権の放棄を迫ってまで建設された大井埠頭。この出入り口となっている東京港第一航路が羽田空港の沖を迂回している。これ以上航路が屈曲するような事態になれば、東京港に大型コンテナ船は入港しないようになると日本船主協会は警告していた。貨物の99.7%が船舶で輸入されている実情から、航空当局にも羽田空港はオキテンによって限界まで開発し尽くした(C滑走路やB滑走路は沖合ぎりぎりの限界位置に設置した)という認識があった。
 昭和53年(1978)に運輸省が提示した(新空港の敷地を1000haに拡張する)オキテン試案の一項に、「B滑走路とその周辺を除く約200ヘクタールを都市用地として開放する」という内容があり、これがその後「跡地の広さは200ha」という根拠になった。(この時点では第一航路との関係でB滑走路の沖合移転は無理としていたが、昭和56年に修正案が示され、B滑走路も300メートル移転させることになった。)  オキテンが着工になった後、昭和60年衆議院の予算委員会で、昭和20年の住民強制退去令について地元選出議員と航空局長の間でやりとりがあった後、運輸大臣〔第二次中曽根内閣・山下徳夫〕は、「羽田沖展開に伴う跡地の利用については、一つの戦後処理の節目だと思っている。〜 当時を回想しながら本当にお気の毒でした、この際皆様方のお気 持ちに対して真心を持ってお手伝いいたします 〜 」という答弁をしている。(『大田区議会史』による)

 
 (9) 「河口延長水路」、その他の改変と自然応答

 内務省の直轄改修工事は、高水管理の概念を基にした洪水対策を目標にしていた。洪水を堤防間に閉じ込めるべく、連続した堅固な堤防を築くと共に、断面流量の確保に意を注いだ。氾濫原のうち川に組入れた部分は高水敷として矛盾無いような高さや勾配に削平され、広大な河川敷が生み出された。
 自然の川を防災上管理の対象と出来る川に作り変えるため、水路の険しい鋭角部は拡幅によって緩めるなどして水路の固定化が図られた。平生の川は護岸で仕切られた水路と整備された河川敷への区分が明瞭化され、遊水地や移行帯のような川の周囲にあった自然要素は局限されるようになった。
 一例として旧古市場村から旧小向村の一帯(現ガス橋上手から多摩川大橋下手に相当)の右岸側は、近代には蛇行水路が極端化して大きな氾濫原を擁していた。流路の短絡が生じた所では、それまでの水路が取残されるなど、洪水の度に河状が変わるような場所で、安養寺の地点での食込みも現在より遥かに険しいものだった。改修工事による新堤築造で川幅はそれまでの半分程度に制限される一方、堤外地は掘削や整地によって、低水路と高水敷の区分が明瞭になるよう作り変えられた。(河川敷はゴルフ練習場や練習馬場などとして利用されているが、洪水時には全てが水路に変身する。)
 昭和41年に建設省河川局によって多摩川水系工事実施基本計画が立てられ、下流の高潮区域及び海老取川について防潮堤をつくり、大師橋上下流付近は極端な屈曲を整正し、波の集中を防止するよう法線を前面に出すこととされた。出っ張った高水敷は掘削されて水路は拡幅され、浚渫によって澪筋の直線化も図られた。

 多摩川の汽水域は、河口海浜の埋立て、砂利の乱掘、防災上の掘削など、昭和の時代に打ち続く人為的な改変によって、大きく様変わりした。昭和の初期まで「六郷川」と呼ばれていた川は、多摩川の汽水域の「原風景」と呼ぶにはあまりに遠く、全く違う川であったと考える方が適当かも知れない。
 新たに様々な制約を課されて、川がどのように応答してくるのか、その行く先は未だ正確には見えていない。たとえば右岸の中瀬地先では、岸辺のヨシ原から川上の六郷ポンプ所(左岸)の方向に向け、かつて蛇行水路があった位置に巨大な堆積が進行し、夏場の大潮の干潮時には水面上に洲が現れるほどにまで成長している。左岸側はかつて「大師の渡し」があった頃、広大なヨシ原が張出していた場所だが、掘削によって水域に組入れられた以後、かえってこちら側には堆積が進まず、右岸側が浅瀬化したことで、航路は極端に左岸側に寄せられるようになっている。この一例だけを見ても、現在進行している川の応答が、「掘削された区域で浅瀬化が進行している」という単純なものではないことが分かる。
 終戦直後占領軍がハネダアーミーエアベースを建設したことが、パンドラの箱を開けることになった。昭和29年にはA滑走路延長のため、河口左岸を600メートル埋立造成したが、昭和36年には新たにC滑走路を建設するため更に200メートルほど追加して埋立てた。
 左岸側で今工事中の羽田空港の「再拡張」が完成すると、「河口延長水路」は再び左岸側が右岸側より(少し)海側に出ることになる。だが振返ってみると、「河口延長水路」はオキテンによって出来たという認識は正確ではない。オキテンが着工された昭和59年(1984)当時の河口は、右岸側に遥か以前に完成した浮島町が長く海に突き出す形をしていた。右岸側が先に埋立られ、オキテンより20年余り前には、多摩川の河口先海面は右岸側が無く、左岸側だけの制限された形になっていた。そうした状況下でオキテンが行われ、左岸側も埋立てられることになって、それまでの制限海域が歴(れっき)とした水路に変貌したのである。

 
 (10) 「羽田空港再拡張」の衝撃と「跡地」の行方

 昭和60年衆議院の予算委員会で、山下運輸相が、「羽田沖展開に伴う跡地の利用については、一つの戦後処理の節目だと思っている」と答弁した後も、平成8年、9年の衆議院予算委員会で、当時の航空局長は「跡地の広さは概ね200ヘクタールと理解している」と述べていたし、運輸大臣(奥田、古賀)も「地元の要望を優先的に反映させていかなければならない」と変わらぬ答弁を繰り返していた。
 平成12年(1999)石原都知事が誕生すると、それまでの情勢は一変する。召集された「首都圏第3空港調査検討会」は、本来の任務であった筈の第3空港候補地の選定作業を事実上棚上げし、「羽田の再拡張が出来ないか」の検討に邁進するようになる。東京港第一航路の存続を前提に考えれば、「羽田の開発は既に限界」に達していた筈だったが、「多摩川に食み出す」という発想が新たな地平を切開くことになった。
 新滑走路は(当初C滑走路平行案が提案されたが)B滑走路平行型でないと増設の意味は薄いことが確認され、多摩川の河口延長水路を再延長する形になることに関しては、新用地は陸続きに拡張せず、「間に海を入れた島状にする」ことを当初より条件とし、「河口延長水路はどこまで許されるのか」という「そもそも論」に陥ることを回避した。
 (洪水時に河口延長水路で生じる流下抵抗はゼロ地点での水位に(海面の高さに対する)加算分として表れる。ゼロ地点の水位が実際には海面でなく、海面より水位が高くなるこの加算分は、当然川上側の汽水域全域に水位上昇という形で影響する。D滑走路は島になるが、もし現敷地と島の間の水路に洪水が流下するようなら、D滑走路の建設はゼロ地点での水位の加算分を更に高めたことになり要注意だ。堤防の余裕高さがどの程度残っているのか不気味と言わざるを得ない。)
 新滑走路島が多摩川に食み出ることに関しては、河積阻害率をどう制約するかというような防災論議は「検討会」に馴染まず、むしろ桟橋形式にすれば川中であろうがそんなの関係ないという立場を鮮明にした。検討会は回を重ねる度に多摩川に深く入り込む案を提示するようになり、「アジアに負けるぞ、モタモタするな」という経済評論家やマスコミの論調に後押しされるように、「羽田にはもうあり得ない」と思われていた第4滑走路(D)を描き出していった。
 平成13年(2000)12月国土交通省は「羽田空港の再拡張に関する基本的考え方」と題する文書を発表し、D滑走路の建設を正式に決定した旨公表した。造船業界は独自技術としてメガフロート方式を提案していたが、入札条件で門前払いにされ、入札が無競争になった結果、厄介な工法選定作業も省略することができた。  「首都圏第3空港調査検討会」は学者を座長にしていたが、主導権は国交省にあったようで、当初から「羽田再拡張」という呼称が公然と使われた。D滑走路の建設を「再拡張」と呼ぶことで、それまでのオキテンの実態が「拡張」であったことを確認させることになり、「移転」させた筈だった大田区の憤懣が如何ばかりのものであったかは想像に難くない。(D滑走路の着工を最後まで踏み止まらせていたのは、千葉県側の漁協や県漁連だった。環境に物言う勢力は東京側には既に居なかったのである。)

 国は「再拡張」決定後、返還する土地を53ヘクタールとして提案し、平成19年3月の第47回「三者協」で大田区も同意せざるを得なくなった。羽田空港の再拡張決定は、国会の地方移転が沙汰止みに終わった時期と重なり、「東京への一極集中を地方分散させるべきだ」という見識が敗北した結果の一表徴と見なされるが、「大義」の前には一地元区の思いなど、屁のツッパリにもならないことを示す実例でもあった。
 「羽田お台場」の地はその大半がオキテン後の移転跡地として地元に返還される筈だったが、当初想定外の「再拡張」(滑走路の増設)が決まったことによって、「約束の地」は羽田空港が国際線を再開するための掛替えのない用地に変身した。既に5階建ての国際線専用ターミナルビルやエプロン34バースの新築が進められている。京急は早々と地下駅建設を決めたし、モノレールもターミナルの3階に直結するよう路線を付け替えることにしている。

 過去の昭和57年、オキテン計画の具体化を前に、旧C滑走路の先端部を埋めるかどうかで揉めたことがある。存在感を示したい大田区は「この三角地は大田区に残された唯一の砂地であるため、〜」と抵抗し、「必要なので埋立てさせてほしい」と再三要請した運輸省に一矢を報いた。この時の大田区の意地の痕跡が、左岸の空港沿岸(-800M近辺)に不自然な三角形状の窪み(300Mx500M)として今も残っている。(A滑走路埋立時に埋め残されたこの段部は、今はその手前の岸辺同様に瓦礫が目立つ。国際線地区は沿岸部の帯状部分が返還予定地に組入れられていて、予定通り返還されれば、帯の先端に位置するこの「意地の浜」は晴れて日の目を見ることになるのではないか。)
 空港跡地は正式には「沖合展開事業及び再拡張事業の結果として発生した跡地」と呼ばれる。運輸省はかつて一度も「移転」を口にしたことはなく、跡地のことは「空港用地外とする土地」などと呼んできた。この返還予定地に、昨年「神奈川口」が連絡橋を掛けたいという申し出をしたようだが、神奈川側では「神奈川口」を「空洞化が進む塩浜地区再開発の起爆剤」などと位置付けていて、ここを「虎の子」と考える大田区が押切られるほどの「大義」が掲げられているようには見えない。

 
 (11) 川の自然環境を作りかえる

 河口海域の埋立ては今尚進行中(D滑走路)ではあるが、河口海岸消滅という川にとっての大きな制約はかなり以前に決まっていたことである。その他の色々な川の改変は別個に行われたものだが、昭和の時代50〜60年間ほどでほゞ収束している。
 先に行われた改変に対する自然応答が始まる中で、順次後の改変が進められていたことになる。主要な改変が終結したことで、川に対する新たな制約はほゞ決まり、自然応答もその方向性が次第に定まるようになった。人為改変に対する自然応答が活発化していく中で、「環境管理計画」が策定され「生態系保持空間」の指定が行われたことになる。
 「生態系保持空間」の中身が変質してしまった現状を、「自然を守ろうとして守れなかった」と誤って総括すると無力感だけが浮彫りになる。過去の時代は防災を主眼に川を作り変えてきたので、「生態系保持空間」は(実は)「自然を見守る」区域指定にすぎなかった。これから生物環境に目を向け自然回復に取組むとすれば、それは汽水域にとっては初めての試みであり、もし無力感に襲われるようなことがあるとすれば、それは今後真剣に取組んだ後に起きるかもしれないことである。

 近年河口域の生態系保持空間に、「ヨシの夏枯れ対策」と称する試みが施されるようになった。環境を放置していて自然生態系が保持できるものではないとして、一歩を踏み出した姿勢は評価できるものの、川全体の現状をどのように認識し、どのような方向にもっていこうとしているのか、基本的な考え方が示されないまま、小手先の対策が見切り発車したように見える。
 多摩川汽水域は環境の変化に応じて、生態系の中身も自ずと変質してきた。失われてしまった自然生態系を復元するには、環境圧力に立ち向って成果を勝ち取るという気構えが必要だが、管理者と住民、市民の間で「自然を取戻す」という意識の共有は出来ているだろうか。現在や将来の川の自然をどう考えるのか、生態系保持空間に具体的に手を染める前に、先ず周辺の人々の間で自然観の統一を図る必要があるだろう。
 植物群集が荒廃している表徴は何も「ヨシの夏枯れ」だけではない。仮にヨシを見る場合でも「ヨシの暴走」という側面も併せて見なければならない。
 「ヨシの夏枯れはそれも自然だから放っておけ」というような、「放置こそ自然を守る唯一の方途」と思い込む人は結構多い。ただこれは開発一辺倒できた文明に対する不信感の表れとも受取れ、必ずしも現状を肯定する立場で言われていると解釈するべきではない。もし「放置することが自然」という議論が一方の正論になるとすれば、それは少なくとも低水護岸の制約を解き、河川敷を自然に開放する所まで含めて主張されるものでなければならない。川を現状の排水路に局限した上でする「放置」は、「破壊の放置」に他ならず、それでは「環境問題からの逃避」や「敗北主義」という謗りを受けかねない。
 都市河川の自然は「世界自然遺産」に登録されるような「手付かずの自然」とは違い、守るという姿勢で好ましい自然が守れる対象ではない。人為応報が激しく鬩(せめ)ぎ合う中にあって、自然はいつもそのときの仮の姿を見せているに過ぎない。
 そもそも「自然」という言葉は、価値があり評価できる対象に対して使われるものだと思う。たとえば「アラル海」(中央アジア)周辺のように、人為的な改変により、湖だった環境が砂漠化し塩害が発生して不毛な地に換わるなど、荒れてしまった対象はもはや「自然」とは呼ばない。破壊された環境が放置されたままに自然が蘇ることもない。

 自然生態系を回復させる目的での環境改変は壮大な試みである。国交省は得意の防災面(スーパー堤防など)には熱心だが、不得手な自然環境面は学者に丸投げしてしまう傾向がある。川の自然応答はその川に固有の事情があり、目標を達成するための要素は、特定の専門学者が机上で読み解けるような事ばかりではない。闇雲に手を付けるのではなく、一大プロジェクトを組んで多方面からの知恵や最先端の環境技術を集め、計画的に進めるように計らうべきだろう。  「自然環境復元計画」は川全体(少なくとも汽水域全域)を対象に、計画の目標や具体的な可能性(夢)を掲げ、それにどう取組むかという全体図を示すことから始まる。(これまで河口域では、川の自然などは全く顧みられないまま、河口海浜の埋立が行われ、変貌した川はもう後戻りは出来ない。昭和何年頃を原風景と考え〜というような目標設定は幻想を与え適当ではない。)  計画の進捗を判定するのは、何を行ってきたかではなく、予め明示されたキーとなる指標の達成度によって計られる。指標としては「ヒヌマイトトンボを蘇らせる」「塩沼地の植物の多様性を取り戻す」「マハゼを復活させる」等々、誰が見ても成否がはっきり分かるような内容を掲げることが大切だ。  自然環境を作り変えることは、単純な水質改善のように、身近な前例や教科書があるテーマではない。成果が得られるまでには試行錯誤が繰返されるに違いない。洪水によって一時的に地道な努力が吹き飛ぶ後退局面も当然覚悟しておかなければならない。不断の努力が求められる中で、一つ一つ地道に実績を積み上げ、自信を得ながら進めていくことが肝要だと思う。

 

   [参考集・目次]