<参考30>  六郷橋緑地先湿地の形成過程

 

生態系保持空間の一ヶ所として「六郷地区」と呼ばれる地域がいつ頃どのようにして生まれ、どのような変遷を経て今日に至っているのか、近代の地図から始め、旧日本陸軍、占領下の米軍、その後の国土地理院の空中写真によって当該地域を以下時代順にみていく。

 
(1)  明治42年測量 大日本帝国陸地測量部 2万分の1 地形図(正式図) 「東京南部」

これは上掲した近代までの蛇行水路時代の様子を示す明治後期の地図から、後に堅固な六郷橋が出来た(鉄道)橋梁群の位置から、同じく後に六郷水門が作られた位置(蛇行の頂点の幾らか手前で六郷用水の一支流の出口が見られる)までを含む地域を中心に大雑把に切り取ったものである。
左岸の堤防マークの位置は現在の都道・大師橋ガス橋線(バス道路)のラインで氾濫原は現在の高水敷よりかなり広く、多くは果樹園などとして利用されていた。右岸側にも荏原郡六郷村の表記が見られるのは、沿岸の各地に飛び地があったためであり(因みに河口域に於ける郡境線は本流ではなく八幡澪にあった)、これらの飛び地の存在が抜本的な河川改修の妨げになるとして12箇所について是正を行い「東京府神奈川県境変更に関する法律」が制定され多摩川が正式に都県の境界線となったのは明治45年のことである。

 
(2)  大正11年測図、昭和3年修正測図 大日本帝国陸地測量部 1万分の1 地形図 横浜近傍3号 「蒲田」

近代から現代に移り変わる頃で、内務省による多摩川下流部直轄改修工事の最中にあたる。古い水除堤は未だ残っているが、新しい左岸堤防が建設中で薄く表示されている。工事は大正7年に始まったが、関東大震災などの影響を受けて遅れ、昭和8年に一応の完成をみることになる。六郷水門が作られたのは改修工事の最終段階に近い頃でこの地図には未だ表示されていない。高水敷が一箇所抉られているが、こうした乱暴行為が地図に載ることは通常無く、異常の始まりを予感させる。

 
(3)  昭和11年(1936)6月11日 空中写真 旧日本陸軍撮影

新堤が出来(旧堤は削られて道路に換えられている)、六郷橋はコンクリート製となり、六郷水門や右岸の河港水門なども出来上がっている状態が見て取れる。この写真の最大の注目点は左岸側の高水敷がひどく乱掘りされ荒廃している状況を捉えている点にある。

直轄改修工事の時期に、これと平行して砂利採集の激化があった。『多摩川誌』は砂利採取の影響について、「大正10年(1921)頃まで、海水の遡上範囲は河口から4kmほど〔六郷水門下手〕だったが、昭和10年(1935)頃には14km〔丸子橋上手〕にまで上った、それほど河床の低下は著しかった」と書いている。その後高水敷も専門業者らによって乱掘され、その様子が『内務省東京土木出張所(1935):多摩川砂利採取取締に関する状況』の引用として、「然るに近年折角改修完成せる本川の川敷より砂利・砂を盗掘するもの激増し、低水路は勿論高水敷地の随所を殆んど完膚なき迄に乱掘し、護岸工事を破壊し或は堤防内に喰ひ込等河状を著しく荒廃せしめ…」と記されている。乱盗掘を厳重に取り締られることになったのは昭和9年(1934)のことで、この時の『多摩川砂利採取取締方法』に「高水敷よりの採掘は絶対に之を禁止する」という一文があり、高水敷までが抉られていた当時の状況が推察できる。
下の写真はこの当時の高水敷の荒廃状況が伺われる貴重な記録だが、写真の鮮明度が劣ることや雲のように見えるものが何を反映しているのか不明であるなど、当地の状況を完全に把握する上ではやゝ不十分と言わざるを得ず残念である。

 
(4)  昭和19年(1944)10月15日 空中写真 旧日本陸軍撮影

六郷地区の干潟は、殿町など他の多摩川汽水域の河口干潟とは生成事情が全く異なる。河口干潟は治水事業として、八幡澪など多くの河口派川を閉じるために右岸側の氾濫原を広範囲に掘削して水域に編入したり、洪水や高潮対策として蛇行水路の屈曲を整斉し澪筋の直線化を図るべく高水敷を広範囲に掘削した結果、水路幅が広く勾配が緩くなって、川が上流方面から運んできた土砂が掘削跡などに沈積するようになって生じたものだが、六郷地区の掘削はこれらの治水事業に遥かに先立って行われ、しかも治水の観念とは程遠い異常な掘削として行われた。掘削された後の詳細は次の(4)に詳しいが、この写真の重要性は、六郷地区の異常な掘削が未だ戦時中であった昭和10年代に既に行われていたことを立証している点にある。
写真の実物はもっと広域を対象に撮ったもので、写りが悪く、資料価値としては優れたものではないが、この時期既に六郷橋の下手300メートルほど行ったところで、低水護岸が水路に直角に200メートルほど飛び、高水敷が狭められて水路幅が2倍程度に広げられるという異常な掘削が行われていたことは明瞭に確認できる。

 
(5)  昭和22(1947)8月11日 空中写真 米軍撮影

終戦直後に米軍によって撮られた写真は何枚かあるが、六郷地区を撮ったものはほゞ同じ写りなので代表としてこの1枚を掲載した。
水路の中に送電鉄塔が写っているがここまではかつては陸地だっ訳で、鉄塔周辺は島状に残されたものと思われる。更に鉄塔周辺から川下側に向けて浅瀬のような部分が残されている一方、200メートル後退した位置に作られた低水護岸の近傍はむしろ深く本格的に掘削されたことが見て取れる。
荒れた高水敷は掘削が完全禁止となった後に、上流側の多摩川緑地の方から修復が図られたらしいが、六郷橋を潜ったここで修復する気力を失ったとしても、何故水路に直角にこんな形に掘削されることになったのか、その理由は何も明らかにされていない、掘削から数年を経たこの時期には既に六郷橋側に残された陸地は侵蝕され、ひび割れたように溝が走っていることが分かる。

 
(6)  昭和38(1963)6月26日 空中写真 国土地理院

上の撮影から16年経った時期の当地の様子である。旧水路に沿うような形で堆積地が成長拡大し、一方六郷橋側の侵蝕は激しく、低水護岸は存続しているが、その陸側はほゞ流出し、大きな入江のような水路の形成が見られる。この一帯の高水敷は未だ畑のままであり、堆積地にヨシなどの青物は全く無い時代である。この写真は干満の中間か小潮の時季に撮影されたものと思われる。

 
(7)  昭和41(1966)7月28日 空中写真 国土地理院

この写真が重要なのは上の写真から僅か3年後、下の写真からは9年も前であるにも関わらず、本流以外の堆積地側が全て陸地のように見えているところにある。この写真は大潮の干潮時に近い時季の撮影と思われるが、この時期には既に堆積地の内側(高水敷側)は全面的に塩沼地化していて、干潮時には干上がって干潟が形成されるような状態になっていたと思われる。

 
(8)  昭和50(1975)1月3日 空中写真 国土地理院

河川環境行政の先駆けとも言われる「多摩川河川環境管理計画」が策定されたのは昭和55年のことで、関係者が見ていた「六郷地区」は概ねこのようなものだったことになる。
堆積は進んでいたが満潮時に水面上に出ていた部分は未だこの程度であったことが分かる。六郷橋側の侵蝕区域も満潮時にはかなり水が入り込んでいた。京浜河川事務所はよく「往時の六郷地区は入江が多かった」という記載をするが、"入江"の正体は異常掘削に起因し六郷橋側の侵蝕が頂点に達していた頃のこうした実態であって、あくまで過渡的な一時期に過ぎず、しかも不条理な人為掘削に対する自然応答の結果であって、自然本来の姿ではないという事実は正確に知っておかなければならない。

 
(9)  昭和59(1984)12月12日 空中写真 国土地理院

建設大臣、東京都知事、神奈川県知事を始め関係自治体の首長が参加した「多摩川サミット」が開催され、「多摩川をみんなが水と緑に親しめる川として後世に継承する」との多摩川サミット宣言が出されたのはこの2年後の昭和61年である。
冬場の撮影なので緑化の進行度合いは判断しにくい。この時期になると六郷橋側の侵蝕区域は回復し陸化している様子が分かる。掘削域は上手での堆積ががなり進み、満潮時に水域となる場所がかなり狭くなっているが、水域は辛うじて残されていて、切り込み水路が存続し、この時期には本流からの水の出入もあったと推測される。

 
(10)  平成元年(1989)10月20日 空中写真 国土地理院

上の写真から僅か5年後で大きな変化は見られないが、鉄塔側から成長した堆積地が護岸側の堆積地と繋がったように見える。ヨシに覆われて空中写真では定かなことは分かりにくいが、この時点では塩沼地側で流水の連続性が絶たれていた可能性がある。

 
(11)  平成4年(1992)10月26日 空中写真 国土地理院

更に4年後(今から10年前に相当する)だが、堆積地の奥側はほぼ埋まり、護岸側は満潮時には泥沼のようになって湿気はあるものの、もはや健全な湿地とは言い難い嫌気化した荒地だ。本流に曝されない裏手の堆積土は概ね粘土で、ヨシは粘土質を好み深い地下にも地下茎を伸ばして伏流水に頼る一方、土層にも多くの通気孔を明けて酸素を取り込んでいるようで、表層が嫌気化してしまったような沼地にも生息圏を広げていく。

 
(12)  平成16年(2004)頃 空中写真 グーグル

満潮時の写真が無いのが残念で、塩沼地の実態が不明だが、六郷水門から約800メートル上手近辺までは満潮時には水域となる。近年の堆積の進行に従いヨシ原側からのヨシの進出は激しく、護岸側にヒメガマの群落がある辺りから水域は急激に狭まり、上手側の約400メートルほどはほゞ全域がヨシに覆われた泥沼のような状態になっている。満潮時には水位が表層に達し湿気はあるものの、酸素不足は明らかで、地下に頼るヨシ以外に競合できる種は無く、ヨシ自身も健全な育成状態にあるとは見られない。

 
(13)  平成19年(2007)4月27日 空中写真 国土地理院

今から5年前で現状にかなり近い状況を写しているが惜しいかなこれも干潮時に近い時間帯の写真となっている。10年ほど前と比較した場合の特徴は、ヨシ原から先の堆積地が六郷水門まで水没しない高さに成長しヨシ群落が発達するまでに本流の岸が復元したことで、その半面塩沼地の上手側はヨシに覆われて水域は消失し、古い堆積地では満潮時にも水没することなく、鉄塔周辺や六郷橋側ではヨシ群落はかなりの部分でアイアシの群落に置換わっている。洪水の度に土砂が堆積しやすい環境になったことで、完全に陸化し部分的には高水敷よりかなり高くなっている場所もかなりある。

 
(14)  平成20年(2008)頃 空中写真 グーグル

グーグルの航空写真が何時撮られたものか正確なことは分からないが、この写真は2007〜2008の冬場に撮られたものと推測される。(あのヨシ夏枯れ対策試験の愚挙の形跡が写っているので(13)より前ということはない。)

直近のこの写真を使って干潟の再生のためにヨシを駆除する範囲の一例を示してみた。赤枠が駆除したいヨシを示している。但しフトイやヒメガマと岸辺の雑草帯(流域委員会はバッファーゾーンと称し護岸周辺の雑草を意図的に存続させている)の間に喰い込み広がりつつあるヨシについては記載していないが、こうしたヨシの飛び散りは何箇所もありバッファーゾーンそのものを削除する過程で必然的に駆除されるとしてここには取上げていない。
(注:バッファーゾーンは昭和61年の「多摩川をみんなが水と緑に親しめる川として後世に継承する」との「多摩川サミット宣言」を蔑ろにするばかりでなく、現在の「多摩川水系河川整備基本方針」の中にある「人と川とのふれあいを増進させるため、高齢化社会にも配慮し、水辺に近づきやすく、また、水にふれあい、和めるよう水質改善や親水空間の整備などを関係機関等と一体になって取り組む」という文章にも違反している。バッファーゾーンは人と自然のふれあいを障害するだけでなく、自然生態系維持管理の上でも大きな実害がある。関係者は一刻も早くバッファーゾーンの錯誤に気付き撤廃に踏切るべきだ。詳細はいずれ別のページで論じていく。)
干潟の自然生態系は植生のみならず鳥類、魚介類、昆虫類等々多くの生物に関わり、干潟の再生の具体的な姿は多様な専門家による議論を経て最良な形を決める必要があるので、赤枠は大雑把なものだし、どこで地盤の切り下げを図るべきかなどの細部についても触れない。
現在六郷水門から800メートル程度まで圧縮されてしまっている干潟を、泥沼化し汚らしく広がったヨシを駆除することによって更に400メートル程再生追加することは、負荷を軽減することで嫌気化の著しい一帯の状況改善になるが、それだけに留まらない。上手の奥近くに70年のキャリアを経て今尚存続する本流からの切込口が存続し、掘削に拠って再生する水域がこの谷と結合することによって、本流からの水の出入が六郷水門側からのみでなく、上手からも行われるようになることは重要な利点である。現在干潟は完全な潟湖型になっていて、還流の鈍くなる上手側がどうしても嫌気化し易いという弱点をもっているがこの弱点が克服されることは事態を一変させるだろう。



 
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