<参考29>  六郷神社と八幡塚


以下に六郷神社(六郷八幡社)に関して、よく目にする伝説などを載せておく。(参考写真は、梶原景時の寄進とされる太鼓橋、文化財となった古い時代のユニークな表情の狛犬一対、「塚」の玉垣の前にいる狛犬はまた別のものである。)

「新編武蔵風土記稿」はこの八幡社について、「当社のつたへに当所八幡宮は、右大将頼朝の建立にして、祭神三座ありと、又云、頼朝の高祖義家奥州征伐の時、鶴ヶ岡八幡宮に祈請ありて、この地に旗をたてられしに、立願空しからざりし吉例あればとて、頼朝もまた奥州下向のとき、この地に旗をぞたてられける、さてこそ勝利ありしかば、凱旋の後新たに建立ありしとぞ、これ建久二年の事にて、当時棟札今に存せりと、或いはいふ奥州征伐のときの勧請にあらず、石橋合戦敗北の後、安房国より上総国へ渡海ありて、ふたゝび旗をあげたまひしとき、当所に旗をたてられ、やがて開運の後、鶴ヶ岡八幡をこの地へ勧請して、神輿の内に来由(らいゆ)を書記し、かたく封じて納めおかれしともいひ、(以下略)」と書いている。

「四神地名録」には別当寺御幡山建長寺宝珠院の云伝えとして、「頼朝公石橋山合戦に敗軍し、安房上総へ渡り給ひ、大軍を率し此所へ渡海有りて、再ひ御旗を立、着至をしるし給ひし地なるによって、御幡山と号せるよし住持の老僧物語りなり。頼朝公開運の後、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を此地へ御勧請、神輿のうちに由来書を納メ、人の見る事を禁すと。(中略) 頼義公・義家公奥州御征伐の時、鎌倉より十里々に八幡宮を建立有りし事也。此所より鎌倉へ九里余と云。若は頼義公御父子の御建立の社ならんか。旧地には相違なき八幡宮なり。(以下略)」と書いてある。(かつて八幡宮の別当寺だった宝珠院は第一京浜を挟んだ反対側にある。)
江戸時代の二つの書物は、いずれも真偽詳細は不明としながら、当地の八幡宮についていくつかの伝説を載せ、順序は異なるものの、内容は概ね似かよったものになっている。

当八幡宮は明治政府の社格制定において郷社となり、明治9年には六郷神社と改称した。
「六郷神社由緒」には、「社紀によれば、天喜5年(1057)源頼義・義家の父子が、この地の大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい前九年の役に勝利したので、その分霊を勧請したのが創建と伝えられる。源頼朝もまた奥州征定のみぎり祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久2年(1091)梶原景時に命じて社殿を造営した。〜」 と記されている。

八幡社は六郷一円(当所ほか、高畑、古川、町屋、道塚、雑色など)の総鎮守として崇敬され、八幡社の宮本の地は八幡塚村と呼ばれていた。街道を挟む両側一帯で、今日の住所表記では仲六郷3,4丁目及び東六郷3丁目のあたりになるが、八幡塚村は古くから六郷界隈の中心地として勢力があり、周辺の村々に80ヵ所余りの飛び地を有していたといわれる。いつの時代から八幡塚村と呼ばれるようになったのかは不明だが、「新編武蔵風土記稿」は「村名の起りし故は、鎮守八幡の社地に八幡塚と号する塚あるによれり〜(中略)〜正保の頃の国図に、六郷八幡塚町とあれは、この頃は既に今の地名を唱へしなり」と書いている。 (17世紀中頃の「正保年中改定図」には「六郷八幡塚町」と書かれ、既に周囲の村々も記載されている。17世紀終盤になる「元禄年中改定図」では表記が単に「八幡塚村」に変わる。この頃海側の干拓が進み、新しく「羽田猟師村」や「浜竹村」が記載されている。羽田浦の漁師が集積した地域は後に「羽田猟師町」として有名になるが、生まれた当初は「猟師村」と呼ばれていたらしい。)

この塚がいつからあり、そもそも何の塚であったのかについての伝説は意外に乏しい。八幡太郎義家が奥州征伐の折、武器を納めて塚とした、頼朝が宝物神器を土中に埋めた、などの伝聞があるようだが、「四神地名録」には単に「土人の云ヒ伝へには、数々の宝物神器を土中に埋メて塚とす。此の故を以って八幡塚と号せるよし」 とだけ書いてある。

八幡社は三神を祀る場合が多いが、六郷の八幡社は現在応神天皇のみを祀っている。このことに関し直接塚の起源という訳ではないが、神輿(みこし)にまつわる言伝えがのこされている。

「新編武蔵風土記稿」には「祭神三座なりしかど、今は一座となれり、社記に云、いつの頃か祭礼の時、三座の神輿を各船にして多摩川に漕出せしに、一座の神輿を載せし船大師河原の辺、大野の鼻と云所にて、船底より水さし入りて水底に沈み、そのありかを失へり、かくて神輿は波浪のためにゆられて、上総国八幡の岸につきたりしを、彼所の人取あげ、社をたてゝ祭れりとぞ、又一座はことに荒神にして、土人しばしば祟を受けしにより、衆議して神体を毀ち土中に埋みしと云、共にいぶかしき説なり、されば今神体は只一座となれり、〜(中略)〜八幡塚 本社に向て右の方林の中にあり、前にいへる荒神の神体を埋めたるしるしの塚なり、〜」と書かれている。

「新編武蔵風土記稿」は続けて、「〜、この祭礼昔は年々八月十五日に行われて、神輿は隣村羽田村より船に奉じ、多摩川を漕めぐりしかど、前にいへるごとく一座の神輿水に没っせし時より、今の日にあらため、舟をもやめしとぞ、〜」といい、神輿の流出事故については「いぶかしき説なり」としつつ、一方ではそれによって以後舟祭が中止されたと書いている。
本編の方で紹介した平野順治氏執筆の「六郷神社の曳船祭」(史誌16号)には、この神輿の流出事故について、羽田の対岸になる房総半島の姉崎方面などに、実際にそのような事故があったとすると符合するような口碑(こうひ)が残されていることなどが記述されている。(一旦廃止になった船祭も文政年間には復活し、そのときには早くも曳船祭の形に変化していたという。)

江戸時代に江戸とその近郊の名所を絵図入りで紹介した有名な地誌に「江戸名所図会」がある。名主斎藤家が三代にわたり編纂を続けたもので、天保五年(1834)に前編が、2年後に後編が刊行された。挿絵は長谷川雪旦が画いているが、その出来栄えには定評があったという。「江戸名所図会」は神社仏閣を多く紹介していて、その中に「八幡塚・八幡宮」の項がある。
(原本の体裁を知らないが、この写しをとった出典本は小さなもので、左右2枚の絵として別々に掲載されていた。下に載せた絵は(見やすくするために)2枚を繋ぎ合せた上で拡大し、全体の中央部分を切取った。全体図は大略右のようで、青線で囲んだ部分が拡大した部分に当たる。ただし表題のみ右図の右上に書かれていたものを転写した。)

 

 
この絵は宝珠院のある(南寄の)方向から、櫓(やぐら)のような高い所に上って、俯瞰気味に八幡宮を見下ろして画いた構図になっている。左下の家並は東海道で、遠くの山はこの方向とすれば筑波山・加波山あたりではないか。現在六郷神社の表門の前に石の太鼓橋が残されているが、当時境内の周りには濠のような水路が巡らされていて、太鼓橋は堀に架けられていたことが分かる。奥の小山に「八幡塚」の囲み文字が見えるが、注意して見ると、中央の3棟の社殿にも(それぞれの屋根の上部に)「本社」「拝殿」「庚申」と書かれている。

この絵を見ると、南に面した表門の辺り、太鼓橋、鳥居、山門の様子や、拝殿前から西側の街道の方に真直ぐ出る脇参道の配置などは現在の六郷神社の様子とかなり良く似ている。(細かくいうと、現在第一京浜国道に面した入口には石の鳥居が1つあるだけだが、この当時は境内の西面にも切妻屋根の裏門と塀があり、脇参道の鳥居は石造りと木造りの2つがあったようである。)
この絵が現在の六郷神社の様子と最も大きく異なるのは、八幡塚の位置である。本殿は拝殿から距離をおき、現在六郷幼稚園の敷地になっている辺りにあり、八幡塚はそこからさらに鳥居を2つ経た奥の方、(強いて言えば現在六郷小学校がある方面)にあるように描かれている。
八幡宮の社領にあったとされる八幡塚だが、(この絵を見る限りでは)江戸時代から現在地(本社殿のすぐ真横)にあったかには疑問を感じる。

もし近代に入って塚が移設されたとすれば、その際発掘が行われているはずで、何が埋められていたかは分かっていることになる。「大田区の歴史」(新倉善之著)に、「境内にある小円墳、八幡塚から、最近、中世のものと推定しうる、青色系の釉薬(ぬりぐすり)のかかった陶器の壷が出土し、当社に保管されている」 との記述がある。




 近世までの「神仏習合」、明治維新の「神仏分離」、解決できない「靖国問題」

今日では仏教と神道(或いは寺と神社)は完全に別のものと認識されるので、江戸時代までの宗教観には理解しにくいことも多い。それは明治維新の時期に徹底した神仏分離が図られ、(今次大戦が終結するまで)そうした過程を踏んできた後に今日の神社があるからである。
明治の維新政府が作った国家神道は、国体の護持のために神社を利用するものだった。強要された国家神道と古来の神祇信仰はともすれば重なってしまう部分もあっただろうし、現実に古来の神社も出征兵士を壮行する場になるなど、神社一般が国家機関の一翼を担わされる苦渋の時代が続いた。戦後の教育は神社に被せられた誤ったイメージの払拭に注力したとは言い切れない。整理しきれない問題として近隣諸国の反発を招いている靖国神社のことが重なったりして、いまなお神社は正しく理解されるようになったとは言えないのではないだろうか。

朝廷は記紀神話の神を祀り、天照大神を氏神として崇敬する一方、大陸仏教に関心を寄せ自らこれを導き入れている。聖徳太子は十七条の憲法で、「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と書いて仏教の積極的な導入を奨励した。その流れは持統天皇、天武天皇と続き聖武天皇の東大寺建立でピークを迎える。 (「仏」は悟りを開いた人、特には仏教を開祖した釈迦(釈尊、仏陀、如来)のこと。「法」は仏教の教え、あるいはその経典を指す。「僧」は出家して修行している者の集団。)
平安京に遷都した桓武天皇は日本の仏教を開かせることに意を注ぎ、空海、最澄を唐に送って仏教を学ばせ、帰国後、高野山、比叡山を与えて独自の宗派を開かせた。
神道の中心的な担い手と、仏教を推進した人々が異なる勢力ではなかったので、奈良時代には既に神仏習合(折衷)の考え方が生まれている。聖武天皇の大仏造立を援助した宇佐八幡は、勧請され手向山八幡宮として東大寺の鎮守となったが、宇佐八幡自身も八幡大菩薩と呼ばれるようになり、以来神道の神々は如来や観音を本地とした権現(化身)であるとみなされる「本地垂迹説(の援用)」に道を開くことになった。日本古来の神道は仏教に取込まれるような形に変形して存続してきたともいえる。
(「菩薩」は元来は釈迦の修行時代を指し、悟りを求める人の意。後世(釈迦入滅後)に如来を補佐する脇役として、悩みの現場に現れて衆生に功徳を施す諸々の「観音」や「地蔵」が菩薩と称せられ信仰の対象になった。仏教でいう本地垂迹説は、本来の姿(本地)である仏陀が、現世では仮の姿(垂迹)を採って様々な場に表れ、功徳を施して衆生を救うという体系を意味する。菩薩の多様な分身はそうした考え方を具体化したものになる。
神仏習合における本地垂迹説は、仏教にもともとあったこの体系を援用したもので、奈良時代に日本の神々を仏の権現と位置付け、神は即ち仏であるとする神仏混交の教義を作り出したことを指す。神を本地とする逆垂迹の発想もあったようだが、寺社奉行という表現に見るように寺院を神社の上に見る方が一般的だった。)

稲荷信仰を全国に広めたのは弘法大師であると言われるように、神仏は混淆し近世までの神社と仏閣は表向き独立を保ちつつも、神社が神を供養する神宮寺(別当寺)を建立し、寺院が守護神を勧請して鎮守とするなど、神祇信仰と仏教信仰は補完しあい共存する関係にあったようである。
ただし寺院は仏教という横断的な宗教の布教拠点であり、僧侶という専門職層を有し、時の権力者に荘園・寺領を寄進されるなど経済的な裏付も持っていた。一方、(「延喜式神名帳」に記載された「式内社」のような)古来の神道は、土地の産土神(うぶすながみ)や氏神の祖先などを祀るもので、宗教というより儀礼や習俗に近いものが多い。神社は元々神聖な場所に拝殿を設けたものが原型で、御神体(御霊代:みたましろ)を祀る本殿を造るようになったのは仏教寺院に触発されたためと言われる。勧請型の神社でも祭のときに神を呼ぶと考えるから、神社に専属の神主や宮司が常在するケースは少なく、居たとしてもその役割は祭祀を執り行うことであって、布教を任務とするような専門職ではなかった。神社というのはそのような性質のものだったから、神社に別当寺がある場合には、経済的にも実務的にも、社僧が実権を握っているケースが多かったと思われる。(別当寺の無い神社の多くは、氏子が費用を賄い輪番で祭祀を行うなど、村持ちの形で維持管理にあたっていた。)

薩長の倒幕運動は王政復古を政治理念として推進されたため、明治維新により神社と寺院の関係は一変する。
皇室は仏教との関わりを一切断ち、宮中に三殿(皇祖神天照大神を祀る賢所・歴代天皇や皇族の霊を祀る皇霊殿・八百万の神々を祀る神殿)が設けられ、記紀神話に基づく祭祀が執り行われるようになり、四方拝(元旦)、紀元節(神武天皇即位の日)、天長節(天皇誕生日)などの祭日が制定された。
維新政府は天皇を頂点とする新たな支配体制である「国体」を確固たるものにするべく、祭政一致の実現を多方面で推し進めたが、慶応4年(1868) にいち早く神仏分離令を布告し、寺院に従属し勝ちだった神社の主体性回復を図り、神社の隅々から仏教的要素を一掃する方針を打出した。
(江戸時代にキリスト教対策などの観点で、仏教が準国教の扱いを受け支配階級化していたため、明治初年の神仏分離令は被抑圧側の反動を呼び起こすきっかけとなり、復古神道や皇国史観などの神道イデオロギーも重なって、全国に予期しない廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる結果になった。)

神仏分離令は僧形で神社に奉仕していた者の神社への関与を禁じた。そのため八幡塚村で宝珠院の住職が還俗して六郷幡磨となり、八幡社の神主となったように、社僧が還俗して祠掌に就く例が多くみられたようだが、名主などの村役人が神職となった例もあり、寺の住職に比して経済的な基盤が弱いだけに、専従の社人が不在であった神社に神職を充実させるのは容易ではなかったと思われる。(一村一社が原則とされたため、地域によっては合祀や統廃合が行われ多くの神社が消滅した。)
神仏分離令(神仏判然令)は神職や社領の分離ということばかりではなく、紛らわしい社号の改変にも及んでいる。(大)明神、(大)権現、(弁)天社、山王(権現)、牛頭(ごず)天王、など仏教に関わる字の付く名称は悉く廃され、いずれも単純な神社名に改めさせられている。
(「自性院」の境内に祀られていた「牛頭天王」が、神仏分離令により独立して「八雲神社」となり、明治40年に「羽田神社」と改称したような例が、「史誌7号」「大田区における神仏分離」に詳しく説明されている。)

国家神道の象徴として、橿原神宮(神武天皇)、平安神宮(桓武天皇)、吉野神宮(後醍醐天皇)、明治神宮(明治天皇)、湊川神社(楠木正成)、藤島神社(新田義貞)などが相次いで建てられた。国体の高揚を図りながら日本は大陸の植民地化を推し進め、占領地にも朝鮮神宮、平壌神社、台湾神社、台南神社、南洋神社、関東神宮、樺太神社など300余りの神社を造った。(これらの植民地に造られた神社は大体、明治天皇か天照大神を祀っていたらしい。)
一方幕末維新で落命した官軍の志士を慰霊するために建てられた各地の招魂社は護国神社と改称され、それらの総本社として明治天皇によって創設された東京招魂社(1869年東京九段)は1879年靖国神社と改称された。靖国神社はやがて、侵略戦争に従軍し戦地で斃れれば護国の英霊として未来永劫祀られるという約束の地に変わってゆく。
一般の神社は内務省の管轄だったが、靖国神社は特に陸軍省・海軍省の管轄下に置かれた。このことは、軍が戦争を遂行する(前線へ兵隊を送る)上で靖国神社が無くてはならない存在であり、軍の最重要機関の一つであったことを裏付ける。


1945年GHQによって国家神道は廃止され、靖国神社は(東京都が所管する)一宗教法人になった。(1969〜74年まで毎年、日本遺族会を支持母体とする自民党議員が「靖国神社国家護持法案」を提出し続けたがすべて廃案になった。)
ところが靖国神社は1978年(昭和53年)10月に、極東国際軍事裁判(通称東京裁判)で侵略戦争犯罪人(いわゆるA級戦犯)として裁かれた28名(陸軍6名と文民廣田弘毅の7名が絞首刑で他は禁固刑)のうち、東條英機ら14名を「昭和殉難者」として密かに合祀していた。
(このことは翌年4月に発覚した。14名は刑死した7名と禁固中獄死した5名及び未決中に病死した2名。松岡洋右のように非軍人で裁判中に死亡した者が含まれたことなど、選考基準について神社側から詳しい説明はなかったという。なおB,C級戦犯の合祀はかなり前の1959年に行われていた。)
靖国神社は別格官幣社であった時代は軍の専管で、天皇のために戦い戦死した兵士を祀ったが、戦後は民間の一宗教法人となり、遺骨や位牌が神社にある訳ではないので、神社が独自に霊璽簿(れいじぼ)に記載することで合祀が行われ、誰を祀るかという判断は神社の意向次第といえる。(ただ「霊璽簿」という以上、その記載には天皇の裁可が必要だったと思われるが、A級戦犯合祀に際して具体的にどのような手続きが踏まれたのかは明らかにされていない。)
靖国神社が祀っているのは、軍務中に死没した軍人軍属で、一般の戦没者を対象にしているものではない。祀られている中に旧植民地出身の軍人軍属を5万人ほど含んでいたため、遺族が合祀されることを望まない韓国、台湾などから異議を唱えられ、以前から国際問題化していた靖国問題だが、新たに明らかとなったA級戦犯合祀の事実は問題を更に抜き難いものにした。

1985年(昭和60年)8月15日に時の中曽根総理が靖国神社を公式参拝し、中国、韓国、ベトナム、シンガポールから、A級戦犯に参拝したものとして抗議を受け、翌昭和61年には後藤田内閣官房長官が総理の公式参拝を自粛する旨の談話を発表するに至った。
後藤田談話には、「〜 靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。それは、諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない。もとより、公式参拝の実施を願う国民や遺族の感情を尊重することは、政治を行う者の当然の責務であるが、他方、我が国が平和国家として、国際社会の平和と繁栄のためにいよいよ重い責務を担うべき立場にあることを考えれば、国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない 〜」 などの分り易い文言が述べられていた。
中曽根総理自身も、胡耀邦中国共産党総書記宛ての書簡に、「〜 私は戦後40年の節目にあたる昨年の終戦記念日に、わが国戦没者の遺族会その関係各方面の永年の悲願に基づき、首相として初めて靖国神社の公式参拝を致しましたが、その目的は戦争や軍国主義の肯定とは全く正反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没者の追悼と国際平和を祈願するためのものでありました。しかしながら、戦後40年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました 〜」 と書いていた。

昭和天皇は戦後靖国神社を8回参拝したが、A級戦犯合祀が明らかになる前の1975年(昭和50年)が最後となった。A級戦犯合祀以後靖国神社に詣でることは無くなったが、中曽根総理が靖国神社の公式参拝を自粛した1986年(昭和61年)の終戦記念日に、「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」 と心境を詠んでいる。
昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことは、富田朝彦元宮内庁長官のメモなどで既に判明しているが、その具体的な理由について、側近のトップにいた徳川義寛元侍従長が、皇室の和歌の指導に当たってきた歌人の岡野弘彦氏に伝えていたことが明らかになった。(2007.8.4 日経新聞)
岡野氏によれば、上記の一首にある「うれい」の内容を徳川侍従長に尋ねると、侍従長は、靖国神社によるA級戦犯の合祀で、「(靖国神社は)国のために戦いに臨んで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わってしまう」との陛下の思い、「戦争に関係した国と将来深い禍根を残す」との陛下のお考えを明言し、はっきりお歌になさっては差し障りがあるので、少し婉曲にしていただいた、とこの歌の背景を話したという。

1986年自民党(金丸幹事長)は靖国神社にA級戦犯を分祀するように要請したものの、靖国神社側は信教の自由をたてに拒否したとされている。自民党では、A級戦犯の亡霊に取り憑かれたような議員集団の行動が目立つが、「靖国神社の形骸化は許さない」とする「日本遺族会」を支持団体に抱える一方、党内には「国立で無宗教の追悼施設を建立すべきだ」と唱える良識的な議員もいて、一致した行動をとれる状況ではない。
(「日本遺族会」は最大の遺族会ではあるが、唯一の遺族会ではない。前身は軍人恩給復活などを目的として1947年に結成された「日本遺族厚生連盟」だが、1953年に財団法人「日本遺族会」となり、組織が強大化するとともに次第に政治色を強めていくようになった。宗教界では「日本遺族会」が英霊思想に傾倒し過ぎることに危機感を抱き、1985年の中曽根総理公式参拝を機に、日本の戦争責任を問い直すという立場から、キリスト教系の「平和遺族会全国連絡会」、浄土真宗本願寺派による「真宗遺族会」などが結成され、靖国神社公式参拝に反対する運動を行っている。)
日本の戦後の学校教育では、日本の大陸侵攻などの現代史を教えることを避けてきたし、靖国問題に関しても国論が盛り上がったことは殆どない。A級戦犯分祀の問題も、その後神社の側に再考を促す気配はなく、結局民間の一宗教法人のすることに国はとやかく言えない、というような筋論で済まされ、現在に至るまで不問に付されたような格好になっている。
(厚生省は、いわゆるA級戦犯とされ処刑になった人についても、刑死とは関係なく一律に、「戦争による公務死」の扱いをし、遺族補償や恩給の対象にしている。国がこのような対応をしている中で、靖国神社の判断のみを一方的に責めることは出来ないが、祀られているほうの総代会が、東条英機らが合祀されていることについてどのような感情を持っているのか、その思いについて表明されたものを目にしたり耳にしたことはない。)
1986年に中曽根総理が2度目の参拝を取り止めた以後も、96年(平成8年)に日本遺族会会長を務めた橋本総理が私的参拝を試みるなど火種は燻っていたが、遂に総裁選で「いかなる批判があろうとも8月15日に靖国神社を参拝する」と公約した小泉総理が誕生することになった。小泉総理は中東問題に関して「国際社会の平和に重い責任を持つ」ことを強調する一方で、公然と靖国神社の公式参拝を行った。2年目からは様々な口実をつけてトーンを下げていったが、繰返されるたびに中国や韓国から「日本政府は過去の侵略戦争の責任をどのように考えているのか」と、猛反発を受けることになった。

明治維新以後の日本は、列強に後れまいとして大陸の植民地化を推し進め、やがて日中戦争の泥沼にはまり込んでゆき、米英に対し宣戦布告するという破滅的な結末に進んでしまう。この明治以来の半ば神掛かった膨張の時期から、ナチスドイツに組みし、列強による経済封鎖を受けるという道を辿る間に、誰がどのような役割を演じ日本の方向付けをしてきたのか、その流れは必然(誰がやっても同じ結論)だったのだろうか、という検証がこれまで十分に行われてきたとはいえず、「一体誰があの流れを止め得ただろうか」というような評論で片付けられてしまうことが多い。
明治維新から太平洋戦争前夜までの間に、日本国民の”センチメント”(群集心理)がそのようなものになっていたとしても、「日本国民は上から下まで『一蓮托生』」という(暗黙の)合意が、どのように形成されていき、どの程度出来上がっていたのかについては検証されてはいない。日本の近現代史の主要な部分が正確に検証されていないことが、国内問題としての「戦争責任」問題が曖昧になってしまう原因になっている。
戦後60年代に日韓、70年代に日中の国交回復が図られ、その後も「日本国」の名において周辺国への謝罪を表明しているが、日本国内で戦争責任についての十分な議論が尽くされた上での謝罪とはいえない。少なくとも「一部の軍国主義者が国の道を誤らせた」という認識が日本国内で大勢を占めているとはいえないし、(一時期に流行った)「一億国民総懺悔」というのは、単なる言葉の一人歩きで実体は何も無いものだった。
(東京裁判は戦勝国による不当な断罪(報復)だという意見が、戦争の責任論や悲惨さを曖昧にさせる目的で言われてはならない。東京裁判が国際法に照らして妥当なものだったかどうかという議論は、日本人がどのように国内問題として戦争責任を問い、国際問題として戦争責任を負うべきかという議論とは別に行うべき議論である。)

無謀な戦争に突入した誤りは、東京裁判で戦犯とされた者達だけの責任に帰されるのか、ということには議論の余地があるだろうが、当時の戦争指導部は、戦局が極端に悪くなり敗色濃厚となった時期以後に、戦争を止めようという理性も勇気も持ち得なかった。
1944年6月のマリアナ沖海戦の大敗(サイパン島陥落)は、あらゆる面で彼我の戦力差がもはや決定的であることを示し、尚戦争を継続すればどのような事態に進んで行かざるを得ないかという情勢判断に紛れは無かった筈である。(東京大空襲、沖縄戦、原爆投下、シベリア抑留等々、国民の甚大な犠牲はその後に起きた。)
(国内問題としての)戦争責任という言葉には、開戦の責任だけでなく、勝敗の帰趨が決した後に、終戦への努力を行わなかったという責任も含まれる。アメリカによる原爆投下は人類史に類を見ない残虐行為だが、そのことが無ければ、本土決戦・一億玉砕へと突進んでいっただろう。戦争遂行者が国益を外れ、たゞ自らの保身のために、国民に多大の犠牲を強いて戦争を遂行し続けたことは、国内問題として正しく歴史に刻まなければならない。
親族を戦争で失い自らも辛酸を舐めてきたはずの日本の戦争経験世代は、(沖縄や広島・長崎など一部地域を除き)、今でも「二度と戦争はしない、させない」と言い切る人は少なく、むしろ「二度と戦争にならないことを祈る」というような言い方をする人が多い。このような国民性なればこそ、指導者の責任は一層重いということを政治家は肝に銘じておかなければならないだろう。

現職総理の靖国神社参拝問題は、国内問題としては、過去の戦争責任を問う観点より、不戦を誓った戦後体制の一環である政教分離が護られているか否かという観点でより多く議論されている。参拝に対して訴訟が提起され、総理の公式参拝を違憲とする下級審の判断もみられるなど、それなりに微妙な判断があるようだが、一方この問題は国際問題としてはかなり単純な内容である。
中国、韓国に限らず、シンガポールやマレーシアなど日本に蹂躙された経験を持つ近隣諸国は一様に、日本が戦争責任の所在を曖昧にしたまま、総理が靖国神社を参拝することは許容されないと、機会あるごとに表明している。(彼らの言っていることは至極単純で、「現職の総理大臣が東條英機を礼拝することだけは許せない」ということに尽きる。)
日本国民が自らの問題として戦争総括を行わないまま、対外的に形式的な謝罪を何度繰返しても、彼らにその言葉が空疎なものに聞こえるのは無理からぬことである。総理が靖国の公式参拝を繰返す度に、彼らは「日本人は内心ではA級戦犯を崇めている、本来好戦民族なのではないだろうか」、という不安を拭いきれないことだろう。

戦後の日本は平和に徹し周辺国の発展を助成もしてきた。国際政治(軍事)の上で、昔風に言えば「恭順の意を表し自ら閉門蟄居してきた」といってもよい。このように謹慎し続けることが、日本人が選んだ謝罪の方法であり、戦争を総括した結果の意思表示だったともいえる。
戦争責任の問題には踏み込めなかったが、再発を防止するための手立ては講じた。侵略を可能にする兵力を持てないようにすること、全体主義に利用された天皇を政治に関与できない立場とするなど、最低限の要件を国民の総意として合意し、戦後60年間ゆるぎなく護り続けてきた。(自衛隊が憲法の認めていない戦力に当たるか否かという議論はあるにしても、徴兵制を持たない現状の日本の兵力が、侵略など到底かなわない規模のものであることは明らかだ。一方最低限の自衛力を持つことは、世界に不安定要素を与えないという意味で、独立国に課された責務であるともいえる。)

靖国神社への総理公式参拝に対し世論が2分されるのは、日本人が戦争責任問題について、自身の問題として整理しきれていない表徴といえるが、戦争責任の問題は国際問題としては曖昧で通すことは出来ない。ドイツでナチスやヒトラーを排除したようには出来ないとしても、(「人は死んでしまえば皆同じだから・・」という類の) 日本人にしか通用しない価値基準で、総理の靖国参拝を諸外国に納得してもらえると思うのは認識が甘すぎる。
戦後60年経った今になって、近隣諸国から色々言われるようになったのは、過去に膿みを出し切ってこなかった付けを、今回されていると言えなくも無い。戦後それぞれの国は、目先の問題解決に追われてそれどころではなかったという状況にあり、その時期に日本の方でも問題を先送りしてしまい、あわよくば風化してくれないかと願っていた現実がある。
日本が膨張していく絶頂期に生まれ育った戦争世代が、欧米人に比べ朝鮮人や支那人を下に見る傾向があったことは否めない。国交回復の時期に、周辺国との間で真の和解を目指そうする気運が生まれなかった背景には、このような偏見も災いしていたと思う。その結果、民間の交流はあまりにも経済面に偏り、若年層や文化的な交流を深めて、日本の現状を理解してもらおうという努力はないがしろにされてきたのである。

日本の歴史には、(ローカルな暴動程度のことはしばしばあったが)、民衆が一斉蜂起して圧制や権力を転覆させたという経験は無い。太平洋戦争の敗戦は革命に匹敵するほど大きな転換点になったと言われるが、敗戦の事実がそれほど重かった一方、日本の政治指導層自身は戦前戦中戦後と引継がれ、終戦を契機として大きく入れ替わるということはなかった。
(東條内閣の商工大臣や軍需省次官を務め、A級戦犯容疑者として収監された岸信介は、戦後政治の一指導者としても活動し、やがて内閣総理大臣に上りつめたし、第一次近衛内閣及び東條内閣で大蔵大臣を務め、東京裁判でA級戦犯として起訴され終身刑となった賀屋興宣が、戦後政治でも右派の重鎮として要職を務めた(後に日本遺族会の会長に就いた)ように、多くの政治家が戦前戦中戦後を通じて日本の政治に携わった。戦後GHQにより軍部は解体されたが、源田実や辻政信など、参謀クラスで戦争遂行にあたった軍人でさえ、戦後政治に参画し政治家として活動する姿があった。)
小泉総理は3代に亘る政治家系の出身である。彼に限らず代々引継がれてきた世襲政治家には、「戦前までのものは全て悪い」とされてきた風潮を何とか正せないかという思いがあるのだろう。政治家の靖国神社参拝の背景には、軍国主義云々ではなく、戦前までの政治を部分的に復権させたいという願いがあるように見える。

戦勝国欧米の民主主義では信教の自由は侵すことは出来ない原則である。だがGHQは、「国家神道は日本古来の神祇信仰や神道とは区別される国家カルトであった」と結論していたので、天皇制を存続させるかどうかという問題とは切り離して、(もし日本の健全な再生にそのことが不可欠なら)靖国神社を廃絶させるという選択肢も不可能ではなかった。(結果的に残されたということは、国家神道なきあとの靖国神社が戦没軍人慰霊の施設でしかなく、日本の将来を左右するほど重い存在ではないという判断があったことを意味している。)
当時欧米の主要な懸念は共産主義の膨張にあり、戦後の混乱期にあった日本の共産化を阻むことは、彼らにとって最重要課題だったと思われる。一部のA級戦犯の復権や靖国神社の存続など戦後政治の成り行きには、そのような世界的な情勢に配慮して行われたことが重なっていることを見落としてはならない。
総理の靖国神社公式参拝の是非は、中曽根内閣時代の後藤田談話で、既に日本政府として一定の判断を下していたという事実がある。即ち日本政府は熟慮の末、「『日本遺族会』の願い」と「近隣諸国の国民感情」を計りに掛けた結果、後者がより重いと判断し、靖国神社公式参拝は、「諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、戦没者の究極の願いにも副(そ)わない」」と言い切ったのであり、中国や韓国が、小泉総理の言動について、改めて日本側が仕掛けてきたと受け取ったのは止むを得ない。
中国や韓国の政治指導部が、靖国神社の存在が実際は言われているほど重いものではないことを知っていたとしても、従前までの筋書きを変え、自らの首を絞めるようなことは到底黙認できないだろう。(彼らが靖国参拝、特には「A級戦犯を合祀している靖国神社への参拝」に限定した発言を繰返していることは、彼らが過去の全面的な蒸し返しや対立の激化を望んではいないことの意思表示と理解できる。)
政治家が日本の近現代史をもう一度見直そうと国民に呼びかけることは意義のあることだが、靖国神社の公式参拝という形によって国民の意識を喚起しようとするのは賢明ではない。近隣諸国の反発を招くようなやりかたは、日本国内に狭隘なナショナリズムを勃興させ、戦後世代に無意味な対決の芽を植え込んでしまうという裏腹の結果を導きかねない。
今日日本における歴史認識の曖昧さは、アジアのみならず欧米からも批判されることがある。正すべきは正し、言うべきことは言うという姿勢でないと、国際的な理解は得られないし、真に国際貢献として行われている人々の地道な努力の積み上げさえも危うくしかねない。


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