<参考26>  河川敷の春から初夏にかけての草木と花


     【カヤツリグサ科】  スゲ属 : シオクグ・ヤワラスゲ・アゼナルコ・ミコシガヤ

 

シオクグは塩性湿地に普通の多年草。六郷橋下手の昭和初期の異常掘削により浸蝕された区域の外縁部の埋まっていない低い部分に僅かに残る。

本羽田1丁目の旧蛇行水路の名残で生じている塩湿地では、イセウキヤガラが大群落を形成していた当時は下手側にかなりまとまって群生していたと思われるが、イセウキヤガラのど真ん中にヨシが根付き、あっと言う間にイセウキヤガラを駆逐しながら広がって湿地や沿岸部一帯が蹂躙され、湿地の植物多様性が一気に失われていくに従い、シオクグも無残な姿に変わって、一部の岸辺に痕跡を留めるに過ぎない存在になってしまった。

大師橋から下手の右岸側は高水敷は乏しく、堤防下に堆積によって陸地が出来ているような感じだが、満潮時には堤防近くまで水が来るような場所が多く、ヨシやアイアシ群落の堤防側にシオクグが出ていたりする。(多摩運河に突き当たる堤防の終端地点辺りまでいくと、より小型のコウボウシバに変わっていくが、近年絶滅に近いような状態から突然群生が出来ていたりで、人手の関与を伺わせる。)

左の写真の上2枚は2009年10月12日、3枚目は同年10月15日の撮影で、本羽田1丁目の護岸を撮ったもの。既にヨシが湿地の下手側に広がって、シオクグは岸辺に無残な姿を残すようになった後の様子である。
1枚目の護岸を撮った写真では右側が本流側の湿地で、シオクグにイセウキヤガラが混じるところにヨシが猛然と進出してきている状況にある。左側は高水敷に繋がるが、この古い石垣護岸の縁周辺は一段低くなっていて湿地の植物が生え、この時点では未だここにシオクグが多かった。
2枚目は石垣護岸の途中で、割れたようになった継ぎ目に生えたシオクグを撮ったもの。

左の3枚目は古い護岸上を川下側に進み、この護岸の終点に当たる部分で撮った。干潟側になぎ倒されたような状態でシオクグがあった。干潟はここまでで、ここから下手は古いヨシ群落になる。
(ここから先のヨシ群落は、かつて右岸の東門前の向かい側まで広がっていたが、高潮対策のための流路の整斉に従って大部分が掘削除去された。根元部分だけが後に残された形になったのがここ本羽田2,3丁目のヨシ群落である。六郷橋の下手左岸や大師橋の下手右岸に大きなヨシ群落があるが、いずれも近代の直轄改修工事以降に陸部が掘削除去されて水域に編入された部分で、その後の堆積に伴って形成された新しいヨシ群落である。ここ本羽田のヨシ群落のみが蛇行水路時代から存続している古いヨシ群落ということになる。ここから先大師橋までの岸辺は掘削が施された、言わばぶった切られたままの状態で、何らか整備されたような形跡は一切ない。)

左の写真3枚は2010年の4月25日の撮影で、同じ本羽田1丁目の干潟で、上の3枚目の写真を撮ったやゝ上手の場所で、干潟側に未だ残るシオクグ、その下の写真は同じ所で撮ったズーム。


左の3枚目も2010年の4月25日の撮影で、場所は石垣護岸の上手側に寄った辺りで、この頃は未だ一面にシオクグで埋まった状態にあり、一部にはウシオハナツメクサなども見られたが、干潟の側からヨシの拡大進出が激しくなってきている途上にあった。

2013年には既にこの一帯もヨシに席巻されてしまい、もうこの状態は失われウシオハナツメクサは絶滅した。
この石護岸縁は傾斜して低くなっているが、河川敷と繋がる平面であることには変わりは無く、この場所を含む高水敷は例年秋に除草が行われる。そのためヨシが来て以後、この場所は正に「草刈り場」となり、湿生植物種に限らず多様な大型種が進出競合し、この辺りの景観はすっかり様変わりしてしまった。
グランドより上手側(南六郷1丁目側)は、護岸縁に立ち入るには藪漕ぎが必要で、堤防下の方からでは護岸縁の様子が伺えない荒れた丈の高い草薮状態になっている。 (2016年夏にこの辺りの護岸で撮った一例を右に載せている。 [No.64K8]
 



左の写真は2009年の10月中旬で、護岸の陸側のシオクグの中に咲いていた、この地域では最後となった自生のウラギクを撮った。ここは高水敷と繋がっているため、どこからかウラギクの種子が飛来して芽生えれば開花まではいくものの、やがて河川敷が除草される時に一緒に刈られてしまい、種子の自然撒布までに至らない。
この時点ではこの辺に未だウラギクを保全する余地があったが、大田区に多摩川の自然にタッチする部門が全く無く、川は運動場としてしか見ていなかったので、この辺りの特異な湿地環境を生かすことなく、ウラギクも絶滅するに任せ、全く無頓着であったことが悔やまれる。

左の写真2枚は2010年の同じ場所で、前年に上のウラギクを見ていたので、六郷のヨシ原の中で人為的に保全していたウラギクの種子を持ってきて、発芽テストを行った際の様子。
この年の未だ冬の時点に撒いたが中々芽生えが確認できず、ほゞ諦めた6月の頃になってやっと実生の発育が認められた。周りは殆どシオクグやウシオハナツメクサなど丈の低い塩性植物で、ウラギクは数十株が芽生え開花までいったが、その直後に刈られてしまった。翌年はもう全体がヨシに覆われシオクグも青息吐息で、とてもウラギクを撒くような環境ではなくなった。

この2枚の写真はいずれも2010年6月7日に撮ったもの。この様子を見て、ウラギクはシオクグとは相性が良く共存できると感じた。(この時の経過は右にもう少し詳しく載せている。 [大師橋緑地] の中段、ヨシのよってイセウキヤガラの群落が変貌していく過程を追った最後の部分。ウラギクについての画像は2段で、それぞれ見出しのウラギクの小画像をクリックする。)

六郷のヨシ原の中で、地表のヨシを刈ってウラギクの繁殖育成を試み、人為的な保全に積極的に乗り出したのは2009年の6月からだったが、その年は夏までは順調に生育したものの、それからクロベンケイガニの襲撃を受け、根元の表皮部を鉢巻状に齧り取られ、大半のものが枯れてしまった。花を付けるまでに至ったものが僅かにあったため、種子は十分に確保出来たが、この事態は保全を決めた当初には全く想定していないことだった。
その翌年にはウラギクの全体をフェンスで囲みカニが侵入出来ないようにするなど対策を講じることになったが、ここを見れば分かるように、シバやシオクグのような植物と混生していれば、カニは横歩き出来ないため、こうした区域に浸入してくることはない。本来の自然ではウラギクがベンケイガニやクロベンケイガニカニに喰われるというようなことはないのだろうと感じた。
 



左の写真は2010年の6月12日に本羽田1丁目の塩湿地で撮った。花について詳しいことは分らないが、この小穂は茎の先端でなく中ほどにあるので雌小穂ではないか。シオクグは既に絶滅状態に近く、花を見るケースそのものが少ないので、仔細に観察する機会は殆ど無いと言ってよい。

蛇行水路時代に流路の折り返し部に当たっていた本羽田1丁目の地先は、かつては流路が食い込んでくる場所だったが、本流が直線化され、澪筋が川崎寄りに通されたことによって、その以後は停滞水域に近い状況に換わって、やがて堆積が進んで干潟化し、その後広大なイセウキヤガラの群落が発達した。護岸も大潮の満潮時には冠水する低いもので、護岸の上は湿生植物の格好の生育地となっていた。
その下手になる2丁目から3丁目の間は、古くからあるヨシ原の残部がそのまま存続してきた状態で、六郷や殿町のヨシ原のように、水域の拡幅によって掘削された場所に堆積が起きて洲となり、そこに新しく生じたヨシ原とは異なり古いヨシ群落である。ただ散策路を挟んで河川敷と同じ高さで続く地形になっているため、中を通る小道が多く作られ、人が入り込んで広場や畑を作るなど、不法な行為が放置されていたため結構荒れた場所が多い。

左の写真も上と同じ日の2010年の6月12日に撮ったもの。
何気なく撮ってきたものだが、シオクグの花としてはチョット見慣れない感じで、その時には、環境が悪く不出来なのか、密に連なった花穂になる前段階ということなのかなどと思っていた。
2013年にこの特集ページの大改変にあたって見直した中で、このシオクグは時期は早いが、シオクグの花は4月から咲いているものを見たこともあり、これは枯れた感じで縦縞も認められるので、花ではなく果実ではないかと思いなおした。しかも一部の果実が既に脱落した段階の状態を撮ったものと考えるのが最も妥当ではないか。

 
本羽田の地先の中央部から下手側は、殆どヨシばかりで、2010年頃までは、オオヨシキリでも撮りに行くか、3丁目の大師橋側に蛇行水路時代の名残として生まれたデッドスペース(滞留部)にトビハゼでも撮りに行く以外に、草花を撮りにいくような場所ではないという印象があった。

然し本羽田1丁目辺りにはイセウキヤガラの巨大な群生地があったし、岸辺から低い護岸の上に掛けてはシオクグの群生地もあり、岸上にはウシオハナツメクサも広がっていて、これらの植物種は共存して繁栄し、冬場には干潟にマガモが遊ぶなど、この地ならではの長閑な雰囲気が醸し出されていた。

転機は2006年だった。それまでも上手側でヨシによる湿地の生態系への侵略は顕著になってきていたが、この年遂にこのイセウキヤガラの群落中央にヨシが定着し周囲を侵略し始めた。多摩川の汽水域の貴重な景観であるこのイセウキヤガラの巨大な群落が危機に瀕していることについて、京浜河川事務所に注意を喚起するとともに、イセウキヤガラの貴重な群落を守る方策について意見具申を行ったりした。
然し管理者は何の行動も起こすことはなく、この時初めて京浜河川事務所の言う”自然生態系保持空間”指定の意味が、自然生態系については人為的な関与を行わず、自然の遷移過程の進行に委ねるべく放置するという方針を”欺瞞的に表現した”意味であることを知った。

多摩川の汽水域は洪水の対処能力を向上させるために、大きな河川改修工事を行ってきたが、放置すれば当然、川は自ら変更を均すべく河身改修に乗り出す。大量の土砂の堆積があちこちで起こり、その流れに乗ってヨシが暴力的な繁殖を行うようになり、岸辺は席巻され侵食されて、植生はヨシ一辺倒に変わっていく。”保持”という名の静観はこの変化を放置することであり、当然過渡的な植生であった干潟の景観などは次々に失われ、弱い植種は絶滅へと追いやられていくことになったが、その象徴的な現場が当地のイセウキヤガラの群落の激減であり、同時にシオクグも激減しウシオハナツメクサは消滅させられてしまった。 イセウキヤガラやシオクグが年々生育範囲を追われていく様は見るに忍びない無残な光景だった。

3.11以降、防災の掛け声が高まり、河川事務所も渡りに船という格好で、各地で河川改修工事を行うようになって、汽水域も順を追って年々工事が実施され、六郷橋の下手から大師橋の上手までの左岸で堤防改修工事が行われた。工事後に法面の覆土から目新しい草種が芽生えることも多いので、主要区間での今年の補完が一段落した2014年6月中旬に、久々にこの地を訪れた。

工事跡に見るべきものは何もなかったが、多摩川大橋から六郷水門までの間に、アカメカシワは雌木しかなく、どこかに雄木が無いかと探していたところ、偶然にも本羽田2丁目辺りで立派な雄木を発見し、今を盛りと咲き誇る雄花に出会い、願って止まなかった雄花の写真を撮ることが出来た。

 
岸辺でもかつてウラギクを撒いて育成テストを行った場所で、シオクグの花を撮影できたのは望外の収穫だった。
左から上への写真3枚は2014年6月15日のその時の撮影で、この時初めてシオクグのまともな花が撮れた。だが岸までヨシに覆われてシオクグの逃げ場は無く、当地のシオクグはもう風前の灯ではないかと感じられた。

2015年5月4日に、右岸の殿町の湾入部を含む範囲の工事後が、どういうことになったかを見届けるために自転車で出掛けたが、その途中本羽田で堤防を降り、水路際に行って水辺の様子を見た。前年にシオクグの花を確認していた場所が、その後どうなったの確認するのが主要な目的だった。
(殿町は2014年に2丁目の堤防工事が行われたのだが、何故かこの時まで未だ立入禁止が長引いていて、この日は下手の堤防上を入れず、久々に川上側で工事後の中瀬地区を回って帰った。殿町の湾入部については、4か月余り先送りした9月に出直し、工事後の川の変更具合を確認した。)

前年にはシオクグも絶滅は時間の問題だろうというような感触を持ったが、この日は感想は変わって、ここのシオクグは生存し続ける可能性が高いとの印象を持った。シオクグは旧護岸の一部の前後に、帯状に生育していたが、ここはヨシが達して既に数年経ち、部分的にそれなりの安定相に至っている。然しここでヨシはもはや拡大の傾向は見做されない。
シオクグは地下茎が発達した多年草で、ここのシオクグはヨシと陸側の雑草帯の間で、小規模ながら居所を確保し繁栄しているように見えた。

この日(2015年5月4日)シオクグは生き生きとして輝きがあり、全体が花を付け見栄えが良かった。

左とその上下の3枚の写真は2015年5月4日に撮ったもので、この時は周囲に幾らか落ち着きというか余裕が感じられて、ここのシオクグは生息域が安定的に確保され、絶滅は免れたという印象を持った時のものである。

 
シオクグは同一株に雄小穂と雌小穂の双方を付ける。小穂の下部には苞があるが、苞は長い葉状となって、穂全体より長く伸びるので、葉の間に穂があるような格好になる。

先端には雄小穂がつき、そのすぐ下に、第2、第3の雄小穂をつける場合もある。これらの雄小穂は小型で、時に褐色をしており、次第に赤みを帯びてくるものもある。左の写真で茶色く枯れたように見えるのが雄小穂の痕跡で、既に役目を果たして枯れ脱落する直前のものと思われる。

雌小穂は中程に複数個生じる。左の2枚目と3枚目の写真は雌小穂を撮ったもの。先端から伸び出ているのは花柱で3分岐する。


ここからの3枚は同じ場所で2015年5月30日の撮影。



ここからの2枚は同じ場所で2015年6月7日の撮影。


この小道は(写真の部分は安全なように見えるが)、大師橋緑地の最奥から分け入って水路に出た場所で出会える水際沿いの危うい道。(川下側は大師橋上手の干潟に続くが、川下側はどこかで行き止まりになる。)
大師橋緑地先のヨシ原は、近代までの蛇行水路時代に右岸の東門前の方に向って広がっていた広大な葭原の名残で、ぶったげられて残った根元部だ。低水路に護岸は無く、崩れかかったような水際土台の弱さもあって、水路沿いは所々で道が途絶え貫通していない。その不便を凌ぐため河川敷から水際に通じる小道が何本も出来ている。
この先の蛇行水路時代に由来する淀みが干潟化した一画にトビハゼが生息していて、そこで写真を撮っていた2006年8月頃には、この道を頻繁に通行していたが、一応の目的を達成してから後は、(この界隈の環境に嫌気がさす要素もあって)、2、3年に一度程度しか見に行かない状態が続いていた。
2015年6月7日に大師橋緑地先にシオクグを撮りに行った際、緑地の奥まで足を伸ばし、久々にこの道に出て干潟を見に行ったが、その際この道の両側にシオクグが綺麗に茂っているのに気付き、こっちの方にもシオクグがあることに感激しつつこれを撮った。(ここは本羽田3丁目地先になる。)

ここからの2枚は本羽田1丁目地先に戻って、2015年7月20日の撮影。
果実はすっかり熟していた。果胞は大きいが中の痩果は小さく、全体に分厚いコルク質で出来ている。海水に浮び海流に乗って散布されるための適性を感じさせる。

 
この頃はこの護岸縁にトウオオバコを撮るために通っていた。この時期になるとここの護岸回りもやはりヨシに激しく攻められていて、初夏にきた時ここのシオクグはもう安泰だと感じたことが誤りであったと悟った。
ヨシに被われてしまうと日照も危うくなり、周囲が濃い藪状態になって、環境は初夏に感じたものとは大きく様変わりしていた。シオクグは圧迫されて、花を付けていた場所のうち果胞を抱くに至っている場所は僅かしか無く、藪漕ぎして抜けた辺りにありトウオオバコも存続は保証できないという様子だった。


 


 

写真は2015年4月下旬の撮影で、場所は多摩川緑地の川下側の終わりに近い辺りの堤防法面。法尻に近い辺りだったが、法面には違いなく、カヤツリグサの類の種がこのような乾いた場所にあるのは驚きだった。ヤワラスゲ自身は別に珍しい種ではないらしいが、この界隈ではこの時始めて見た。
シオクグは川の水辺に近い浅瀬や湿地、精々が湿気た陸部という所でしか見かけない。メリケンガヤツリのような外来種が水域から離れた堤防側で見られるような場合でも、雨が続いて橋梁の下に水溜りが続くようなケースで、その周囲に急速に増えるようなことがある程度で、本格的な非湿地にもカヤツリグサ類が生えることを初めて知った。

この時の規模は数十株の塊りが近くに2か所、同じような高さにあった。いずれも薙倒されたような感じで直立している株は殆ど無かったが、初めてみるもので、人が関わってそうなったものか、名前の通り柔らかくて倒れ掛かったような恰好で自然なのか判断はできなかった。

小穂は特徴的な姿で、花枝の頂上にあるのは太い棒状で、これが雄性部分で白毛状のものを出し、その下に3ケ程度の雌性の小穂が付く。雌性小穂は円筒形で、5〜10列程度の尖った卵形の鱗片の集合体で出来ている。



 


 

アゼナルコを始めて見たのは2015年5月3日だった。イネ科の穂が盛んな時期で、上のヤワラスゲも一寸の間に周囲のイネ科の茎や葉が伸びてきてすっかり埋もれてしまっていた頃、京急の六郷鉄橋下に沿う小道を歩いていて、鉄橋下の湿気た土壌でこれを見付けた。
スゲ類だということだが、イネ科の穂とどこがどう違うのか素人には判断できない。ただイネ科が繁茂している堤防近辺の法面や平面では見ないので(ヤワラスゲのようなものがあって混乱するが)カヤツリグサ科ということでも、なるほどと納得する。

京急の鉄橋下は古くから他所では見られないような希少種があったりすることで、知る人ぞ知る貴重な場所だった。京急のこの鉄橋は全径間がトラス構造の純粋な”鉄橋”で、多摩川の汽水域では今日純粋な鉄橋と言えるのはこの一橋のみである。(丸子の品鶴線の鉄橋が両脇を除く中央部がトラスになっているが、他の橋梁は精々低水路上のみがトラスになっているものがある程度で、その他の橋はコンクリート桁や鋼箱桁などの構造になっている。)
鉄橋下が何故特異な環境になるのか定かではないが、恒常的に雨水が滴下することが主因で、鉄橋下が湿地に近い状態になるのだと思う。

3.11が起きてから、各所で行われていた橋梁の耐震補強などに拍車がかかり、この鉄橋も数年前に橋脚の補強工事が行われた。この時期に、鉄橋下は整地されて味気ない普通の場所に変わってしまったが、数年経って又徐々に湿気た場所になってきて、2014年の秋には中間の一画でタコノアシを見付けるまでになった。
このアゼナルコは別に希少種というものではないが、他の河川敷では見られずこの湿気た環境なればこその存在だったのだろう。

小穂の長さは5〜6センチメートル。雌性部分の鱗片や果胞は明瞭な卵形で50〜60列で密接している。 側小穂は大抵雌性のものと言われているが、左に載せた小穂は雌性の鱗片のようではない。これが何なのか不明ではあるが、実際に下垂していた中にこの一本があったので、分からないまゝに敢えて載せておいた。

アゼナルコの小穂は垂れ下がるような付き方をしているので一寸見分けにくいが、頂上に付く小穂だけが雌雄性で他の小穂は全て雌花である。雌雄性の頂小穂では、先側の半分が雌性で元側の半分が雄性になっている。
雌性の部分は太く、雄性の部分は細いので、小穂の全体に段が付いたようになって分かり易い。上から4枚の写真は2015年5月3日の撮影だが、頂小穂のみが雌雄性で、雄花部分が細く、先に向けて途中で段になっているのを見易いように、下の2枚は5月8日に再度同じ場所に出向いて撮り直したもの。


 


 

ミコシガヤは日当たりのよい湿った草地に叢生する多年草。
この界隈では、京急の六郷鉄橋下の上手側で、堤防下の通路からバイオリン公園の裏を通って水路方向に向かう鉄橋下の小道が岐れる角の草地にのみ見られる。
数メートル四方程度のそれほど広くない草地だが、鉄橋の直下ではないものの、鉄橋の影響で常時湿気が保たれている場所。他所でミコシガヤを見たことはないが、ここには古くから絶えることなく続いている。

上から4枚の写真を撮ったのは2006年6月の初め。京急の鉄橋下は知る人ぞ知る貴重な湿地になっていて、2004年には晩秋にタコノアシを撮るために通い、翌年には花を見ておきたいと思っていたところ、2005年6月には京急の下手側にあるJR東海道線の六郷橋梁の下でミゾコウジュが見られたことでこの角地のことを知り、8月にはタコノアシの花を撮るために通ったので、この角を頻繁に通り、その度毎に一応見て回った。

この角の草地には他所で見られない草種としてホソイがあり、ホソイと共にミコシガヤがあるという印象だった。ただミゾコウジュが出た年、ミゾコウジュの周囲にはホソイもあったがミコシガヤは無かった。ミゾコウジュは2年続けて同じ場所には出ないと言われ、JR橋梁下も2005年のみで翌年には見られなかったが、その後JR橋梁下が駐車場にされて、草地自身が消滅してしまった。

京急の鉄橋も耐震強化のため、橋脚の補修が行われ、鉄橋下は全て整地され、草地は消滅し数年間は見るべき状態では無かった。然しこの角の草地は鉄橋の直下ではなく、掘り返されるということは無かったため、工事期間中及びその後に精彩を欠いたものの、ホソイもミコシガヤも消滅してしまうということはなく存続し続けた。



ここからの4枚は2014年6月26日の撮影。8年後に思い付いたように撮ったのには深い意味は無かった。京急の鉄橋下は一旦清算されてしまったが、その後草地は次第に復活し、2014年には以前のようなしっかりした株では無かったものの、タコノアシも確認されるようになってきたし、ゴルフの打ちっ放し場の裏通りには、ノイチゴ類やゲンノショウコなど見どころが多くなったため、鉄橋下の小道を通ることが多くなり、その度に堤防下の通路から折れ曲がる角の草地を見る機会も増えた。
この日は天気も良く六郷橋緑地方面で多くの種類を撮ったが、帰りの最後にこの草地でホソイを撮った時、ミコシガヤも撮っておこうと思っただけのことで、時刻はもう夕方の5時半を回っていた。

ミコシガヤの花穂は頂上部に少しの雄花があり、その下の大半部は雌花ということらしい。この年はこの周囲はハルシャギクが乱舞の状態で、この写真を撮った時には写り込んでいるとは思わなかったが、トリミングしたこの大きさでもハルシャギクは除けなかった。

先端部は雄花だということで、その部分をズームしたものを下に載せた。


ミコシガヤの花というと黄色っぽいという印象がある。左の写真も上と同じ2014年6月26日に撮ったものだが、こちらは緑色が濃く、若い花なのか先端に雄花らしいものも確認できず、中央部に2ヶ所咲いたように見える小穂が認められるので、こちらはそこの部分をズームしたものを下に載せた。


左の2枚は2015年6月7日の撮影。この年はミコシガヤが初めて角の草地を出て、小道に沿って水路の方向に少し向かったところにもかなりあった。珍しいことなので思わず撮ったというところだが、株立ちするような全体像を撮れたことは収穫だった。
下に載せたのは同じ写真ではないが、同じ株を撮ったもの。花穂の先端部が違って見えるので、雄花が付いているものもありそうなのでズームしたものを載せておいた。


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