<参考26> 河川敷の春から初夏にかけての草木と花
【バラ科】 シモツケ属 : ユキヤナギ
この特集の範囲を遙かに出るが、ずっと上流方面になる左岸の狛江市(宿河原堰の少し下手辺り)の高水敷に、このユキヤナギがピラカンサやノイバラと並んで、交互に或は絡み合うようになって続いて生えている場所がある。かなり前に誰かが植えたものが起原と思われるが、もう何年も手入れされたような気配はなく、曲線を描いて横に伸び自生状態のようになって生えている。
この辺りで露出している土丹は「上総層群」と呼ばれる地層に属し、泥岩乃至半固結状態のシルトや粘土で出来ている。「上総層群」は鮮新世から更新世の頃の海成堆積層で、武蔵野台地の基盤を成す。土丹は1000メートルを超える厚さがあり、通常は「下総層群」(更新世中期以降の浅海性の堆積層)に被われている。
この辺りには護岸縁にHLが点々と居住していて、この辺りに点在するモモの起原については分からない。大きなものではないが、ここ数年サクラとほゞ同時期に多くの花を咲かせる。
サクラ属は総じて花柄が短いが、モモは特に短く、幹から直接咲いているかのように見えるものもある。花びらの色は桃色を中心に赤味の強いものから、逆に白っぽいものまで多様である。
低水側の端にも、立地条件が劣るため、幾分精彩を欠くとは言え、これと相対する程度の大き目のオオシマザクラがあったが、2013年に下記の事情で伐採されてしまった。
上流丸子方面の左岸、亀甲山の前辺りには、堤防の川表にソメイヨシノが植えられている。六郷近辺では、かつて多摩川緑地がゴルフ場になっていた関係で、水路側に土手が続き、その周辺にシダレヤナギやウンリュウヤナギが植えられていた。ゴルフのスタート地点になっていた六郷橋近辺にはトウネズミモチを主に雑多な高木が見られる。
ここから下の5枚の花の写真はいずれも2015年3月末に、左に載せた護岸にある若いオオシマザクラの木から撮った。オオシマザクラの花はサクラの花としては大きいものといえる。白色の5弁花で、多くのオシベを出す。
オオシマザクラはそれ自身が、植樹の対象として庭木や公園などに植栽されるが、多くの園芸種(サトザクラ)の交配相手としても使用されてきた歴史がある。(ソメイヨシノも本種とエドヒガンの交配種ではないかと言われてきた。)
サクラの原種は10種程度とされるが、自然下でも交雑し易く種類は複雑化していると言われる。更に人為的にも交配された”新品種”が存在し遺伝子は極めて絡み合った状態になっているようである。
多摩川の汽水域であとオオシマザクラが見られるのは大師橋の下手で、堤防下の荒れ地に何本かある。
この特集ページの主要な範囲では、多摩川緑地の背後になる堤防裏(「川の一里塚」がある場所と、都道「旧堤道路」が堤防上に上がってくる地点の間)に10本弱古木があって、花見時には地元の人が多く集まる。この後ろはシャープの流通センターになっていて都道の上り口は長くシャープの角と呼ばれてきたが、電気製品メーカーが苦難を強いられる時代になって、テレビを中心に液晶に力点を置いてきたシャープは最もダメージが大きく、将来展望を見いだせないままに、この一画も売却され更地化されてマンションなどの用地としての表示がなされている。
ここから先は少しおいてJR橋梁になり、そこで広大な多摩川緑地は終わる。六郷の橋梁群は上手からJR京浜東北線、JR東海道本線、京急電鉄線、第一京浜国道・六郷橋と続き、六郷橋から下手の河川敷は六郷水門水路で断ち切られるまでの範囲(概ね南六郷3丁目地先になる)を六郷橋緑地という。
左から下へ9枚の写真は六郷橋緑地背後のサクラを撮ったもの。撮影日は上の2枚が2004年4月5日で川上向きと川下向き、3枚目は同年4月2日の川下向きで遠くに大師橋の主塔が見えている。その下の2枚は2005年4月3日の川上向きで上の写真は六郷橋越しにミューザなどの川崎駅前ビルが見えている。その下の1枚のみ2015年3月30日に雑色ポンプ所の排水門裏側近辺で撮った。紅葉の1枚目は2005年12月1日の川下向きで遠くに大師橋の斜張橋が、その下の2枚は同年11月30日で川上向きで撮っている。(雑色ポンプ所の排水門建造以後、この並木の全体は往時の精彩を欠くようになった気がする。)
大正5年(1916)屋久杉で著名なアメリカ人アーネスト・ヘンリー・ウィルソンによって、ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの自然交雑による雑種であるという説が唱えられ、国立遺伝学研究所の竹中要の研究などを経て、エドヒガンを母としオオシマザクラを父とする交雑種らしいという説が有力になった。
ソメイヨシノは自家不和合性で種子を作らないため、増殖は人為的な挿木や接木によって行われる。実生の苗とは異なり、若木といえども世代交代をしておらず、親木の一部の再生が繰り返されていくので、全ての木は同一の遺伝子を持つクローンということになる。(バラ科の植物には自家不和合成の種類が多い。交配種のように親が一個体では受粉は結実せず実生の苗は得られない。)
2015年4月の サイエンスZERO では先ず、世界中のソメイヨシノは全て同一のクローンなのかという疑問の解明を取り上げた。
日本のサクラの原種と言われているのは概ね10種類(チョウジザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、タカネザクラ、マメザクラ、カンヒザクラ、ヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、ミヤマザクラ)であるが、サクラは自然に種間交雑が起き易い上、人が持ち歩くことで地域を越えた雑種が生じ、その上雑種同士の交雑や、寿命が長いため同種に於ける世代を超えた交雑が起きるなど、サクラの遺伝子は複雑に入乱れていて、ソメイヨシノの親探しは極めて困難なテーマだという。
多摩森林科学院主任研究員の勝木俊雄氏は、ソメイヨシノが選抜されて日本中に広がった理由はその成長力だと語っている。(木の成長が早い樹種を使えば植えてから花見が出来るまでが短期間で作れる)
番組では、未だ学会発表されたばかりの段階で、調査サンプル数が少なく、結論を出すには更に多くの遺伝子を調べる必要があるという専門家の言葉で結んでおり、今後の研究の進展が待たれる。
【「ソメイヨシノ誕生の謎」のテレビ番組の内容に基づく説明は以上までです。】
(補足1:中村教授の発表をもう少し補足すると、寛永寺の正門に向って扇形に植えられている10本の木のうちソメイヨシノ以外の7本で母が共通し、その内6本を兄弟としているが、残る1本は後に西田尚道氏の提唱によってコマツオトメと命名されたエドヒガン系雑種の原木のことで、これは兄弟の交配時に他の花粉が混入して結実したものと推定されている。
(補足2:上野公園のこの木が本当にソメイヨシノの原木であるとすれば、少なくとも150年以上の樹齢が無くてはならない。樹木医の一般的な見立てによると、この木の樹齢は100年程度ではないかという。木を伐って年輪を数える訳にもいかないことから、樹齢の面でもいろいろ議論を呼びそうだが、中村教授は、もし明治になってから上野公園でソメイヨシノの選抜育種が行われたとすれば、確実に記録に残っているはずと述べている。)
初めの1枚は2016年9月7日に、上野動物園の正門前から前方にJR上野駅があるという方向で、原木とされた木のほゞ全体が入るように撮った。(右手裏に小松宮彰仁親王の騎馬像、左手先にコマツオトメの原木が僅かに写っている。)
次の2枚は2017年4月2日の開花時に撮った。この日都心で桜満開の宣言があったが、上野公園のソメイヨシノは実際には5分咲き程度だった。こちらの2枚は上とは逆に、東京文化会館と国立西洋美術館の間の通りを真っ直ぐ進み、動物園の正門方向を向いた位置で撮っている。
将軍家光の時代、黒衣の宰相天海僧正は、京都の比叡山になぞらえて、江戸城の鬼門に当たる上野山に、鎮護のための寺院を建立するよう奏上する。その名も東の比叡、東叡山と称し、延暦寺と同じく年号をとって、寛永寺と名付けた。この本覚院に家光が吉野から桜を移植させ、以来さかんに植樹が行われ、やがて上野に花見の群集がおしかけるようになった。
同書には、「江戸時代の日本の花卉(かき)、花木、庭木の改良発達は、当時としては世界的にユニークな特別なものであった」、「日本の浮世絵が西洋文化に与えた刺激より、園芸植物の与えた影響のほうがはるかに大きいと評価してよい」(中尾佐助「栽培植物の世界」)などの記述も見られる。
(左上の写真一枚だけは、ソメイヨシノの適当なズームを探し、2004年3月31日にガス橋上手左岸のサクラ並木の中で撮ったものの中から採用した。)
左はその1株のソメイヨシノで、撮影は上と同じ2003年の4月1日、もう満開と言っていい状態になっている。
見る影も無くなったこの桜を惜しんで、枝振りが良く花も見事だった時期を偲ぶように、敢えてここに最後の数年について、同じ木を経年的に5枚載せることにした次第。
(左の写真は2004年4月2日の撮影。)
(左の写真は2005年4月9日の撮影で、緑地管理事務所の入口前に入り込んだ場所から、JR橋梁の方向を向いて撮っている。)
左に載せた木のように、公園などに植樹された園芸種のユキヤナギは端正な佇まいだが、半ば野性化し細い幹が撓んだような恰好のユキヤナギは、ピラカンサやノイバラと変わりない雰囲気で、そういう姿を見ると3種の印象は似たものに感じられ、同じバラ科として近縁であることに納得する。
(見たのは2014年3月中旬という季節で、ユキヤナギだけが花真っ盛りという点では他の2種とは大違いだったが。)
花期は春で開花の時期はソメイヨシノより僅かに早いというのが目安のようだ。
場所は中流の43km地点近傍の右岸。上流側に多摩大橋を見る場所で、この辺りは流路はそれほど強く湾曲していないが、澪筋は何故か極端に左岸側に寄り、水域は左岸側の堤防の直下に近い位置を流れる。その一方で右岸側には広い氾濫原のような雰囲気の高水敷が展開する。
右岸の幅広い高水敷の堤防側はオギやツルヨシなどの深い藪になっていて、そんな中に八高線橋梁下の堰で分流されたせせらぎが本流と並行して流れ、これとは別に所々に湧水の小さな池があって、オオミドロの中にミクリらしき枯葉が見られたりする。
直角方向には八王子水処理センターからの排水とみられる水路があり、大量の処理水が本流に注ぐ。この排水路はせせらぎ流とは立体交差(排水路が下)して合流を避けている。
多摩川の上流方面(奥多摩地方)にはユキヤナギの野生種が自生している環境があるそうだが、中流のこの辺りのことは聞いたことが無い。初めのところで書いているが、狛江の高水敷に、横向きにうねった格好のユキヤナギが、ピラカンサやノイバラと混在し点々と生えている場所がある。ただしその一帯は近現代になってから治水対策のために、大規模に改修の手が入った環境で、半ば野性化しているように見えるユキヤナギだが、明らかに植栽起原と見做さざるを得ない。
これを見ると、ユキヤナギが生え出しているのは、ごく地表に近い場所ではなく、地表から思ったより深い位置であることが分かった。ユキヤナギが出ている周囲には、この辺りには見られない小石が埋まっていることが分かる。
このユキヤナギの起原は分からないが、生え際のこの様子からは、近隣のどこかに植栽されているユキヤナギから種子が飛んできて・・・とは考え難い状態に思えた。
側面が削られてきて陽射しを感じるようになった埋土種子が発芽し、横に出てから上方に伸びてきたのではないかと思える。この場所での埋土種子ということになると、その起源は半端な古さではない。近年のこの界隈の洪水時の状況などは知らないので軽々に言うべきではないかも知れないが、土丹のこの深さに埋まっていた種子ということだと、埋まった時期は数万年前である可能性がある。
この花は既に盛りを過ぎ、受粉したメシベでは子房が膨らみ始めて果実が出来、熟し掛かった果実(袋果)が紅く変色しきている状態と思われる。
上の崖の横から出ている株を見て判断するなら、この辺に密集する小さな株群も、近時どこからか飛んできた種子によるものではなく、洪水で表層部が削られたことで、土丹に埋まっていた埋土種子が陽射しを感じて発芽してきたのではないかと判断するのが妥当ではないかと思われる。
【バラ科】 サクラ属 : モモ・オオシマザクラ・ソメイヨシノ
花はサクラに似ているが、中心部の赤味が濃い特徴があり、全体として濃い桃色という印象だ。やがて夏には実も生りサクラでなく果樹であることがはっきりするが、食用になるほど糖度があるのかどうかは知らない。
ソメイヨシノが植えられた当時は、南六郷の高水敷は戦時中から引き続く一面の畑で、昭和10年代に意味不明の掘削が行われて本流が拡幅したようになっていた範囲(現状は潟湖状の塩湿地)は未だ水域で、干潟も中洲も無くヨシさえ無かった時代で、高水敷は直に本流に面していた。
その後大田区が専有して河川敷が整備され、グランドや公園風の造りとなった。オオシマザクラはそのような時代になってから植樹されたものだと思う。
左の写真のオオシマザクラは六郷橋緑地の中程、河川敷の堤防側の端にあって、この辺りでオオシマザクラの標本木のような存在である。(上から3枚目までの写真は同じ木で2015年の4月初めに撮った。)
沼地のようになっているヨシ原に基礎を植えて鉄板を敷き、河川敷から鉄塔に至る仮設道路を作るに当たって、護岸沿いの荒れ地の中にある樹木のうち、障害となる数本を伐採したいとの要望があり、止む無く伐採を許可した経緯があるが、その中にオオシマザクラもあった。(送電ラインは雑色ポンプ所の少し上手の位置で川を横断していた。)
然し近年は河川敷に高木が植えられることは殆どなく、公園風の場所に夾竹桃やドウダンツツジを植えたり、サツキやシャリンバイのような灌木を生垣のように植樹する例が多い。
河川敷は近代の治水として、堤防間の川幅を定め、その間で洪水がスムースに流下するように、容量を確保するべく掘削によって造成された広義の川であり、河川敷の平面は堤防上面に平行して下って行くように勾配に留意して削平されている。
河川敷は洪水時には川底となる場所であるから、河積を狭めたり混濁流の流下を阻害する恐れのある構築物は厳禁という再認識が図られた。高水敷に高木の植樹が行われなくなったのは、そのような認識の表われの一端かも知れない。
この木の少し上手(雑色ポンプ所の前辺り)にも、岸辺の散策路脇にオニグルミと並んでオオシマザクラの木が一本ある。大きさは上の2本の中間位で、安定した立地にあって状態は良い。
オオシマザクラは落葉高木だが、春に蕾と同時に芽吹き、3月下旬に開花する時には展葉しているので、緑色と白色のコントラストが鮮やかな景観になる。樹皮はよく見慣れたソメイヨシノのように厳ついものではなく、比較的に平滑で横向きに独特な縞状の皮目が入る。
いつ頃からかは知らないが、塩漬けにして桜餅に使用する若葉を採るために、伊豆半島の集落で、オオシマザクラが畑で栽培されている所がある。(西伊豆の松崎町には桜田という地名もある。)
実生の苗を作れない品種を増やす場合の接ぎ木の台木としても利用されている。
この木を載せたのは、この木では葉の色が幾分茶色っぽく、花弁の先が丸く見えるなど、雰囲気が標準的なオオシマザクラとはやゝ雰囲気が異なるため、このような例もあることを示すためである。
このことは後に江戸でソメイヨシノが生まれることになった伏線として大きな意味を持っているのではないかと思われる。(以下ソメイヨシノのことは下のソメイヨシノの項で詳説する。)
スーパー堤防以外の部分で、堤防に植樹することは禁止だが、これは川裏側であることと、法尻に近い場所であることから除去を免れているのだろう。
オオシマザクラは六郷橋緑地では散見されるが、多摩川緑地では多分これ一本しかなく、水路側の荒れ地にはシダレヤナギやトウネズミモチ、オニグルミなどが連なり、オオシマザクラは見られない。
大師橋の下手(殿町3丁目)のスーパー堤防が施された部分で、堤防と敷地の間に植樹が試みられている。カイズカイブキを伐採する際に河川事務所は樹林帯を再生するという約束をしていたが、当初はシャリンバイのような低木が植えられ何だこれはという状況だったが、テスト植樹など紆余曲折を経て、近年ではオオシマザクラが植えられる傾向が見られるようになっている。
左の写真は川下向きで、正面に見えているのは右岸のテクノピア(東芝の跡地を中心に再開発されたうち、川崎駅から川に向かう一画に作られた高層ビル群)の中にあるラゾーナのマンションである。
2005年は雑色ポンプ所の水門が堤防の川表に設置された年だが、この年のサクラの紅葉はかつてないほど鮮やかで、その後もこれほどここのサクラの紅葉が際立ったことはない。一方この頃より、六郷水門から下手に掛けても若木が植えられるようになり、育ちは早く、近年ではここが終わった頃、川下側で少し時期が遅れて満開の花見を迎えるという状況になっている。
【以下2015年4月にNHKのサイエンスZEROで放送された「ソメイヨシノ誕生の謎」の内容を紹介する。
(一部に、「東京の原風景」(川添登−NHKブックス)などから引用し加筆してある。)】
ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸時代の後期(18世紀前半)に、今の駒込の近くにあった染井村に集落を作っていた造園師や植木職人によって(接木によるクローン法で)育成され、「吉野桜」の名前で売り出された新品種とされるが、その起源については諸説あって明確にはなっていない。
(注:ソメイヨシノの学名欄に Prunus×yedoensis とだけ書かれているものが多いが、これは小石川植物園の初代園長だった松村任三が1901年に命名したもので、エドヒガンとオオシマザクラの交雑種の総称を意味する。(サクラ属をCerasusとする人の場合は Cerasus×yedoensis となる。なお×は自然種間交雑種を示す表記で、人工交配種には使われない。特にソメイヨシノを示すためには、 Cerasus×yedoensis (Matsum.) A.V.Vassil.'Somei-yoshino' と書くのが正確な表記だが、ソメイヨシノが園芸種であった場合、 ×yedoensis に含まれるとするのが妥当なのか今後議論を呼ぶ余地がある。)
現在日本全国にはソメイヨシノが数百万本あると言われている。実際にこれらの木は全て一本の原木のクローンなのだろうか、似たような交雑種が混じり込んでいることはないのか、確認する方法が無いままそうした疑念が付きまとっていた。
そこでソメイヨシノの親探しを目的とした遺伝子解析は、先ずソメイヨシノの遺伝子にどのサクラの原種の遺伝子がどの程度ブレンドされているかを解明することから始めることになる。
その結果ソメイヨシノの遺伝子は、エドヒガン:47%、オオシマザクラ:37%、ヤマザクラ:11%、不明:5%の内訳になると判明したと発表された。(2014年)
従来までソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配によって生まれたとするのが定説であったが、この遺伝子解析の結果は従来の定説に修正を迫るもので、片親はエドヒガンとはされるものの、もう一方の親についてはオオシマザクラとヤマザクラの交雑種ではないかという可能性が高まった。
オオシマザクラとヤマザクラの人為的な交雑種は人里に多く見られ、ソメイヨシノは人が植えた木同士の交配により生じた雑種ではないかという仮説が有力となったのである。
この敷地の周囲に、今回原木候補とされたソメイヨシノの他、ソメイヨシノ3本とコマツオトメ、エドヒガン系のサクラ5本の計10本が並んで生えている。これらのサクラについて、自家不和合性を司るS遺伝子の調査を行ったところ、2組から成るS遺伝子の内、7本の木で1方のS遺伝子が共通し、各3本づつの木ではそれぞれに他方のS遺伝子も一致していることが分かった。S遺伝子はオオシマザクラで60種、エドヒガンでは100種程度あるもので、出生が異なる木で偶然にこのような一致が起きる可能性は極めて低く、少なくとも、ソメイヨシノの原木の可能性があるとした1本とエドヒガン系のサクラ5本を合わせた6本のサクラについては、共通の親から生まれた兄弟であることが濃厚と見做されるという。
千葉大の中村郁郎教授のグループによって、ソメイヨシノの原木の可能性があるとされた上野公園の実際の木を撮った写真を以下に3枚載せた。
[初秋・ほゞ全体の姿]
[根元に近い幹の雰囲気] [通路側に張出した枝の様子]
その後吉宗が江戸庶民のレクリエーションの場として、紀州ゆかりの地飛鳥山(王子公園)を積極的に開発するようになる。江戸城内の吹上御所から桜1270本、紅葉100本、松100本の苗を移植し全山に野芝を植えさせた。江戸庶民の花見の中心地は上野から日暮里を経て飛鳥山に移っていく。・・・
このような背景を勘案すれば、ソメイヨシノが偶然生まれたというより、染井村の職人が長年の経験や知識に基づいて親木を選定し、相反交配を行うなど交配技術を駆使してソメイヨシノを開発したとしても何ら不思議ではない。ただ何故染井から出て寛永寺の境内で育種を行ったのか、ソメイヨシノという園芸種の開発動機やその背景には興味が湧く。
(左の写真は、JR京浜東北線六郷橋梁の上手にある大田区の緑地管理事務所前にあるソメイヨシノを、2003年3月28日に初めて撮った時の写真で、未だ咲き始めの時期になる。)
この道路を通って堤防上に出てきた場所で、降りていく坂路とは反対の上手側の堤防上(天端の後方で管理事務所の前)にソメイヨシノが1株ある。
記憶は定かではないが、この頃から一部枝を伐っていたかも知れない。だが2015年には既に多くの枝を伐って存命を図っている状態で、今後どうなるか微妙という印象だ。