<参考26>  河川敷の春から初夏にかけての草木と花


     【バラ科】  シモツケ属 : ユキヤナギ

 

これはバイオリン公園の道角に植えられたユキヤナギ。撮影は2014年3月26。いかにも管理者によって植栽された園芸種という印象だが、こんなものもバラ科にあるという参考として載せた。(背後の柱は京急の鉄橋の耐震補強された橋脚、その後ろは六郷橋。)

この特集の範囲を遙かに出るが、ずっと上流方面になる左岸の狛江市(宿河原堰の少し下手辺り)の高水敷に、このユキヤナギがピラカンサやノイバラと並んで、交互に或は絡み合うようになって続いて生えている場所がある。かなり前に誰かが植えたものが起原と思われるが、もう何年も手入れされたような気配はなく、曲線を描いて横に伸び自生状態のようになって生えている。
左に載せた木のように、公園などに植樹された園芸種のユキヤナギは端正な佇まいだが、半ば野性化し細い幹が撓んだような恰好のユキヤナギは、ピラカンサやノイバラと変わりない雰囲気で、そういう姿を見ると3種の印象は似たものに感じられ、同じバラ科として近縁であることに納得する。
(見たのは2014年3月中旬という季節で、ユキヤナギだけが花真っ盛りという点では他の2種とは大違いだったが。)


ユキヤナギの花は中心が黄色く、その周囲には大きな5枚の白い花弁が取り巻いている。中心部にあるメシベは5本で、周りのオシベはもっと多い。
花期は春で開花の時期はソメイヨシノより僅かに早いというのが目安のようだ。

都会の公園などでもユキヤナギはよく見られるが、古くから中国と共に日本にも野性環境で自生していたもので、枝垂れた枝の全体に雪を被ったように白色の花を密集させて咲かせることから、観賞用として広く取り入れられて文化的な用途で利用されてきたという。(県によっては、自生種は絶滅危惧種に指定されている。)
 


 
ここからは2015年12月20日に、多摩川の自然を守る会の月例観察会の折に撮影した自生のユキヤナギ(?)を参考に掲載する。
場所は中流の43km地点近傍の右岸。上流側に多摩大橋を見る場所で、この辺りは流路はそれほど強く湾曲していないが、澪筋は何故か極端に左岸側に寄り、水域は左岸側の堤防の直下に近い位置を流れる。その一方で右岸側には広い氾濫原のような雰囲気の高水敷が展開する。
右岸の幅広い高水敷の堤防側はオギやツルヨシなどの深い藪になっていて、そんな中に八高線橋梁下の堰で分流されたせせらぎが本流と並行して流れ、これとは別に所々に湧水の小さな池があって、オオミドロの中にミクリらしき枯葉が見られたりする。
直角方向には八王子水処理センターからの排水とみられる水路があり、大量の処理水が本流に注ぐ。この排水路はせせらぎ流とは立体交差(排水路が下)して合流を避けている。

高水敷の水路側には、大きな石が隙間なく展開する礫河原の中に、褐色の土丹が露出した区間があり、洪水の度に大きな礫が回転させられて土丹を削り、点々と窪みや溝が生じて特異な景観が形成されている。 深く削られ、繋がって水路化し流れを伴う淀みのような場所もあり、上手の方で本流と繋がる部分があるらしく、幼魚とみられる多くの小魚が群れている。一方、本流の水路に接した方では、土丹が浸食されて低い崖のような岸を成している。

この辺りで露出している土丹は「上総層群」と呼ばれる地層に属し、泥岩乃至半固結状態のシルトや粘土で出来ている。「上総層群」は鮮新世から更新世の頃の海成堆積層で、武蔵野台地の基盤を成す。土丹は1000メートルを超える厚さがあり、通常は「下総層群」(更新世中期以降の浅海性の堆積層)に被われている。

土丹は多摩川の八高線鉄橋周辺や浅川の浅川橋周辺などで露出しているが、[洪積世]:大氷河時代(170万年前〜)の氷河性海面変動 (グラシィアル・ユースタシイ) は約10万年毎に繰り返され、その高度差は最大100M以上に達したと考えられているので、多摩川沿いの土丹の露出は、何らか間氷期の洪水に関係しているかも知れない。

 
多摩川の上流方面(奥多摩地方)にはユキヤナギの野生種が自生している環境があるそうだが、中流のこの辺りのことは聞いたことが無い。初めのところで書いているが、狛江の高水敷に、横向きにうねった格好のユキヤナギが、ピラカンサやノイバラと混在し点々と生えている場所がある。ただしその一帯は近現代になってから治水対策のために、大規模に改修の手が入った環境で、半ば野性化しているように見えるユキヤナギだが、明らかに植栽起原と見做さざるを得ない。

左上の紅葉した草の写真は、この土丹が露出した場所の低水路際の端で、この日に初めて発見されたユキヤナギ。 左の写真は上のユキヤナギの生え際を確認したいと思って、上手側の一段降りれる場所に下りて横から撮ったものである。
これを見ると、ユキヤナギが生え出しているのは、ごく地表に近い場所ではなく、地表から思ったより深い位置であることが分かった。ユキヤナギが出ている周囲には、この辺りには見られない小石が埋まっていることが分かる。
このユキヤナギの起原は分からないが、生え際のこの様子からは、近隣のどこかに植栽されているユキヤナギから種子が飛んできて・・・とは考え難い状態に思えた。
側面が削られてきて陽射しを感じるようになった埋土種子が発芽し、横に出てから上方に伸びてきたのではないかと思える。この場所での埋土種子ということになると、その起源は半端な古さではない。近年のこの界隈の洪水時の状況などは知らないので軽々に言うべきではないかも知れないが、土丹のこの深さに埋まっていた種子ということだと、埋まった時期は数万年前である可能性がある。

思わずロマンを感じてしまったユキヤナギを撮って、再び上に上がり、ほんの数歩行ったところの平面に、丈の低いユキヤナギの小さな集合があった。左の写真はその群集を撮ったもの。

晩秋のこんな時期だけに、半分以上の葉は紅葉して、緑色のものと混じり合っていた。驚くべきことは、紅葉していた枝には蕾が並んで付いていて、咲いている花も結構見られたことだ。

ユキヤナギの花は上の方に載せているように、花弁は5枚で蜜腺や葯などは黄色いので、花の中心部は黄色く見える。偶々ズームで撮った左の写真を見ると、花弁は既に1枚脱落したとみえて4枚しか無く、オシベの痕跡は残るものの、花の中心部は黄色ではなく赤味を帯びている。
この花は既に盛りを過ぎ、受粉したメシベでは子房が膨らみ始めて果実が出来、熟し掛かった果実(袋果)が紅く変色しきている状態と思われる。
上の崖の横から出ている株を見て判断するなら、この辺に密集する小さな株群も、近時どこからか飛んできた種子によるものではなく、洪水で表層部が削られたことで、土丹に埋まっていた埋土種子が陽射しを感じて発芽してきたのではないかと判断するのが妥当ではないかと思われる。

 


 
     【バラ科】  サクラ属 : モモ・オオシマザクラ・ソメイヨシノ

 
六郷橋緑地の護岸縁一帯の荒地にモモが数本ある。護岸とはいってもここは本流ではなく、かつて掘削されて水域に編入された名残の湿地。本流との間にできた中洲が発達して新たな左岸が形成され、間に取り残された部分が干潟になり、やがて奥の六郷橋寄りでは、泥沼化したところにヨシが広がっている。背後に川崎港町の河港水門近辺が見えているが、本流はその前側でヨシの後ろを流れている。

この辺りには護岸縁にHLが点々と居住していて、この辺りに点在するモモの起原については分からない。大きなものではないが、ここ数年サクラとほゞ同時期に多くの花を咲かせる。
花はサクラに似ているが、中心部の赤味が濃い特徴があり、全体として濃い桃色という印象だ。やがて夏には実も生りサクラでなく果樹であることがはっきりするが、食用になるほど糖度があるのかどうかは知らない。



モモは縄文前期には既に日本にあったようだが、単に食用果実の一つという存在ではなく、桃太郎のお伽噺があるように、古くから地方の生活に密着し、幾らか神懸った存在であったことが窺われる。桃に関しては、桃の節句とか桃源郷など良い意味で使われる例が目立つ。

サクラ属は総じて花柄が短いが、モモは特に短く、幹から直接咲いているかのように見えるものもある。花びらの色は桃色を中心に赤味の強いものから、逆に白っぽいものまで多様である。

左の写真上から5枚は同じ日、2015年3月30日の撮影、6枚目だけは同年4月2日の撮影。


左の3枚は上の花と同じ辺りの木で、2015年5月11日に撮った、モモであることの証明。



 


 
大田区南六郷3丁目地先の六郷橋緑地には、堤防裏に古くからソメイヨシノの並木が植えられているが、川表の河川敷の周囲にはオオシマザクラが点在する。
ソメイヨシノが植えられた当時は、南六郷の高水敷は戦時中から引き続く一面の畑で、昭和10年代に意味不明の掘削が行われて本流が拡幅したようになっていた範囲(現状は潟湖状の塩湿地)は未だ水域で、干潟も中洲も無くヨシさえ無かった時代で、高水敷は直に本流に面していた。
その後大田区が専有して河川敷が整備され、グランドや公園風の造りとなった。オオシマザクラはそのような時代になってから植樹されたものだと思う。
左の写真のオオシマザクラは六郷橋緑地の中程、河川敷の堤防側の端にあって、この辺りでオオシマザクラの標本木のような存在である。(上から3枚目までの写真は同じ木で2015年の4月初めに撮った。)

低水側の端にも、立地条件が劣るため、幾分精彩を欠くとは言え、これと相対する程度の大き目のオオシマザクラがあったが、2013年に下記の事情で伐採されてしまった。

2013年に東電が古くからここにあった送電渡河ラインを廃止することを決め、ヨシ原(近代までの蛇行水路時代に左岸の端に当たっていた場所)にあった送電鉄塔を解体撤去する工事が行われた。
沼地のようになっているヨシ原に基礎を植えて鉄板を敷き、河川敷から鉄塔に至る仮設道路を作るに当たって、護岸沿いの荒れ地の中にある樹木のうち、障害となる数本を伐採したいとの要望があり、止む無く伐採を許可した経緯があるが、その中にオオシマザクラもあった。(送電ラインは雑色ポンプ所の少し上手の位置で川を横断していた。)

上流丸子方面の左岸、亀甲山の前辺りには、堤防の川表にソメイヨシノが植えられている。六郷近辺では、かつて多摩川緑地がゴルフ場になっていた関係で、水路側に土手が続き、その周辺にシダレヤナギやウンリュウヤナギが植えられていた。ゴルフのスタート地点になっていた六郷橋近辺にはトウネズミモチを主に雑多な高木が見られる。
然し近年は河川敷に高木が植えられることは殆どなく、公園風の場所に夾竹桃やドウダンツツジを植えたり、サツキやシャリンバイのような灌木を生垣のように植樹する例が多い。

昭和49年に狛江の水害事件が起きた際、河川敷に対する認識の甘さが指摘されたことがある。河川敷は平時には空地の有効利用というような感覚があるが、それに引きずられて河川敷本来の役割を忘れ、非常時に洪水の流下を害するような利用まで行われていたケースがあった。
河川敷は近代の治水として、堤防間の川幅を定め、その間で洪水がスムースに流下するように、容量を確保するべく掘削によって造成された広義の川であり、河川敷の平面は堤防上面に平行して下って行くように勾配に留意して削平されている。
河川敷は洪水時には川底となる場所であるから、河積を狭めたり混濁流の流下を阻害する恐れのある構築物は厳禁という再認識が図られた。高水敷に高木の植樹が行われなくなったのは、そのような認識の表われの一端かも知れない。

左の写真はヨシ原と向かい合うように、ネット式低水護岸の上に生えた未だ若い木である。撮影は2015年3月末で、花は満開で散り始めていた。オオシマザクラの花は、中心のオシベの部分は黄色いものが普通だが、この木の花には中心部が紅いものもあった。
この木の少し上手(雑色ポンプ所の前辺り)にも、岸辺の散策路脇にオニグルミと並んでオオシマザクラの木が一本ある。大きさは上の2本の中間位で、安定した立地にあって状態は良い。

ここから下の5枚の花の写真はいずれも2015年3月末に、左に載せた護岸にある若いオオシマザクラの木から撮った。オオシマザクラの花はサクラの花としては大きいものといえる。白色の5弁花で、多くのオシベを出す。
オオシマザクラは落葉高木だが、春に蕾と同時に芽吹き、3月下旬に開花する時には展葉しているので、緑色と白色のコントラストが鮮やかな景観になる。樹皮はよく見慣れたソメイヨシノのように厳ついものではなく、比較的に平滑で横向きに独特な縞状の皮目が入る。

日本で古くから鑑賞されていたサクラは、奈良地方の吉野が有名なヤマザクラだが、関東ではオオシマザクラも野生種のサクラとして良く知られる。原産地は伊豆大島が有名で伊豆諸島と考えられるが、伊豆や三浦、房総などの半島地方にも(炭焼き用に持ち込まれたと思われるものが)自生している。
いつ頃からかは知らないが、塩漬けにして桜餅に使用する若葉を採るために、伊豆半島の集落で、オオシマザクラが畑で栽培されている所がある。(西伊豆の松崎町には桜田という地名もある。)

オオシマザクラはそれ自身が、植樹の対象として庭木や公園などに植栽されるが、多くの園芸種(サトザクラ)の交配相手としても使用されてきた歴史がある。(ソメイヨシノも本種とエドヒガンの交配種ではないかと言われてきた。)
実生の苗を作れない品種を増やす場合の接ぎ木の台木としても利用されている。


オオシマザクラが多くのサトザクラの親に選ばれたのは、花が大きく立派に見えることが大きな理由だろう。又接木で苗を作る場合の台木とされているように丈夫な樹種で、その意味でも改良種作りには欠かせない貴重な存在だったと思われる。

オオシマザクラといえば、上に載せた”標準木”のように、花弁は白く中心部は黄色いというイメージがあるが、この木の花の中には中心部が紅いものがあった。何らかの変異なのか、この木が純粋なオオシマザクラではないのか、などのことについては分からない。

ここからの2枚は、六郷橋緑地の川下側の端になる、六郷水門水路に面した場所にある木で、頭書の標本木ほど幹の太い木ではないが、場所から見て大田区などが人為的に植栽したものではないかと思われる。
この木を載せたのは、この木では葉の色が幾分茶色っぽく、花弁の先が丸く見えるなど、雰囲気が標準的なオオシマザクラとはやゝ雰囲気が異なるため、このような例もあることを示すためである。

サクラの原種は10種程度とされるが、自然下でも交雑し易く種類は複雑化していると言われる。更に人為的にも交配された”新品種”が存在し遺伝子は極めて絡み合った状態になっているようである。

サクラの園芸種はサトザクラと総称されるが、花が大きく丈夫なオオシマザクラを基にして開発されたものが多く、ヤマザクラとの交配種も人里に多く見られたという。関西で繁栄していたヤマザクラが江戸に持ち込まれ、江戸時代に関東でオオシマザクラとの交配種が作られていた可能性は高い。
このことは後に江戸でソメイヨシノが生まれることになった伏線として大きな意味を持っているのではないかと思われる。(以下ソメイヨシノのことは下のソメイヨシノの項で詳説する。)

ここから下の5枚は六郷橋の上手側になる多摩川緑地にあるものである。とは言っても場所は河川敷ではなく、堤防の川裏側の法面の最下段にあるもので、結構な大きさがあり、全体の印象はごく標準的なものである。(上の2枚は2015年3月31日の撮影)
スーパー堤防以外の部分で、堤防に植樹することは禁止だが、これは川裏側であることと、法尻に近い場所であることから除去を免れているのだろう。
オオシマザクラは六郷橋緑地では散見されるが、多摩川緑地では多分これ一本しかなく、水路側の荒れ地にはシダレヤナギやトウネズミモチ、オニグルミなどが連なり、オオシマザクラは見られない。

多摩川の汽水域であとオオシマザクラが見られるのは大師橋の下手で、堤防下の荒れ地に何本かある。

殿町の後半部(3丁目)にいすゞ自動車が居た当時、堤防裏の側帯に延々とカイズカイブキの見事な並木があった。いすゞの撤収により工場が解体撤去された際に、いすゞはフェンス際のカイズカイブキを残していったものの、残されたカイズカイブキは更地化の作業で相当痛められ、更に上手側がスーパー堤防化されるにともなって、全体の半分は伐採されることになってしまった。下手側でも更地のフェンス際にあるものは既にボロボロの状態で、隙間だらけで精彩も無く往時の面影は全く見られない。
大師橋の下手(殿町3丁目)のスーパー堤防が施された部分で、堤防と敷地の間に植樹が試みられている。カイズカイブキを伐採する際に河川事務所は樹林帯を再生するという約束をしていたが、当初はシャリンバイのような低木が植えられ何だこれはという状況だったが、テスト植樹など紆余曲折を経て、近年ではオオシマザクラが植えられる傾向が見られるようになっている。

左の写真は2015年4月26日に堤防の上の方からこの木の全体を撮ったもの。背後に低内地が見えているが、この木は堤防法尻の支えとして設置されているコンクリートブロックの上にある。

この時期新緑が美しいが、近寄って見ると、赤い実の子がたくさんできていて、中には青く膨らんできているものも散見された。この近辺では外にオオシマザクラを見かけないが、南六郷の方ら花粉が運ばれてくるのだろうか。(ここからの2枚は上と同じ4月26日の撮影)


この2枚は6月2日の撮影。何故か黒い色のサクランボも生っていた。


 


 
多摩川の汽水域には堤防裏の側帯にソメイヨシノの並木が作られている場所は多い。最も有名なのはガス橋から上手に、JR品鶴線鉄橋の近くまで続くサクラ並木。大正時代に始まる直轄改修工事では、堤防は法面の中間に小段を設けるような形に計画されていた。ガス橋前後の堤防の裏面は当初案に忠実に作られていて、この中段が花見に絶好の役割を果たすことにもなって、花見時は大変な人出となる。三菱自動車が撤退した跡地の再開発に際して大規模にスーパー堤防化が図られ、その部分のサクラはスーパー堤防の上の奥側に移植されたが、無事に定着しここの賑やかさは存続している。

この特集ページの主要な範囲では、多摩川緑地の背後になる堤防裏(「川の一里塚」がある場所と、都道「旧堤道路」が堤防上に上がってくる地点の間)に10本弱古木があって、花見時には地元の人が多く集まる。この後ろはシャープの流通センターになっていて都道の上り口は長くシャープの角と呼ばれてきたが、電気製品メーカーが苦難を強いられる時代になって、テレビを中心に液晶に力点を置いてきたシャープは最もダメージが大きく、将来展望を見いだせないままに、この一画も売却され更地化されてマンションなどの用地としての表示がなされている。

上と左の2枚がこの地のサクラで、2015年3月末に撮ったもの。上は上手向きで(中央の赤い部分は、都道旧堤道路が堤防上に上がってくる坂路のカラー舗装になる)、遠くにトミンタワーが見えているが、この間で川は大きく湾曲している。中間の川裏に安養寺(古川薬師)があり、ここは明治時代に堤防が決壊し氾濫した歴史があるが、川裏は民家が密集する区間でスーパー堤防化という訳にもいかず、低水路を埋めて高水敷を造成し、川の内側に向け堤防の拡幅や強化が図られた。低水路は右岸側の堆積が進んだ部分を掘削して帳尻を合わせたように見えるが、高水容量が減少した分の埋め合わせは如何ともし難いところだった。
左の写真は川下向きで、正面に見えているのは右岸のテクノピア(東芝の跡地を中心に再開発されたうち、川崎駅から川に向かう一画に作られた高層ビル群)の中にあるラゾーナのマンションである。

ここから先は少しおいてJR橋梁になり、そこで広大な多摩川緑地は終わる。六郷の橋梁群は上手からJR京浜東北線、JR東海道本線、京急電鉄線、第一京浜国道・六郷橋と続き、六郷橋から下手の河川敷は六郷水門水路で断ち切られるまでの範囲(概ね南六郷3丁目地先になる)を六郷橋緑地という。

六郷橋緑地の堤防裏にはソメイヨシノの並木がある。(確か昭和29年か30年頃に京急から贈られた若木が旧六郷橋の下手側に植栽されたのが始まりだと記憶している。)

左から下へ9枚の写真は六郷橋緑地背後のサクラを撮ったもの。撮影日は上の2枚が2004年4月5日で川上向きと川下向き、3枚目は同年4月2日の川下向きで遠くに大師橋の主塔が見えている。その下の2枚は2005年4月3日の川上向きで上の写真は六郷橋越しにミューザなどの川崎駅前ビルが見えている。その下の1枚のみ2015年3月30日に雑色ポンプ所の排水門裏側近辺で撮った。紅葉の1枚目は2005年12月1日の川下向きで遠くに大師橋の斜張橋が、その下の2枚は同年11月30日で川上向きで撮っている。(雑色ポンプ所の排水門建造以後、この並木の全体は往時の精彩を欠くようになった気がする。)
2005年は雑色ポンプ所の水門が堤防の川表に設置された年だが、この年のサクラの紅葉はかつてないほど鮮やかで、その後もこれほどここのサクラの紅葉が際立ったことはない。一方この頃より、六郷水門から下手に掛けても若木が植えられるようになり、育ちは早く、近年ではここが終わった頃、川下側で少し時期が遅れて満開の花見を迎えるという状況になっている。

大師橋の下手では右岸側にライオンズクラブによると言われる桜並木があり、大師橋下手から、かつていすゞ自動車の工場があった場所の角までの区間は花見客でにぎわう。

 


 
 【以下2015年4月にNHKのサイエンスZEROで放送された「ソメイヨシノ誕生の謎」の内容を紹介する。
 (一部に、「東京の原風景」(川添登−NHKブックス)などから引用し加筆してある。)】

 
ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸時代の後期(18世紀前半)に、今の駒込の近くにあった染井村に集落を作っていた造園師や植木職人によって(接木によるクローン法で)育成され、「吉野桜」の名前で売り出された新品種とされるが、その起源については諸説あって明確にはなっていない。

染井村の「吉野桜」は、本家吉野(奈良)の山桜にある「芳野」とは別物であるため、明治33年(1900)に刊行された「日本園芸雑誌」に発表された「上野公園桜花の種類」の中で、藤野寄命が山桜と区別するために「染井吉野」と名付けたのがその名の始まりで、学名もそのままソメイヨシノになったという。
(注:ソメイヨシノの学名欄に Prunus×yedoensis とだけ書かれているものが多いが、これは小石川植物園の初代園長だった松村任三が1901年に命名したもので、エドヒガンとオオシマザクラの交雑種の総称を意味する。(サクラ属をCerasusとする人の場合は Cerasus×yedoensis となる。なお×は自然種間交雑種を示す表記で、人工交配種には使われない。特にソメイヨシノを示すためには、 Cerasus×yedoensis (Matsum.) A.V.Vassil.'Somei-yoshino' と書くのが正確な表記だが、ソメイヨシノが園芸種であった場合、 ×yedoensis に含まれるとするのが妥当なのか今後議論を呼ぶ余地がある。)

大正5年(1916)屋久杉で著名なアメリカ人アーネスト・ヘンリー・ウィルソンによって、ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの自然交雑による雑種であるという説が唱えられ、国立遺伝学研究所の竹中要の研究などを経て、エドヒガンを母としオオシマザクラを父とする交雑種らしいという説が有力になった。

ただし発生の起原については、オオシマザクラとエドヒガンの分布域の点で自然交配説が疑問視される一方、染井村の記録などから植木職人・伊藤伊兵衛政武が人為交配して育成したとの説も含め、染井村で人為的に作出されたとする説がほゞ定説となっていった。 (染井村について詳細はコチラ

ソメイヨシノは自家不和合性で種子を作らないため、増殖は人為的な挿木や接木によって行われる。実生の苗とは異なり、若木といえども世代交代をしておらず、親木の一部の再生が繰り返されていくので、全ての木は同一の遺伝子を持つクローンということになる。(バラ科の植物には自家不和合成の種類が多い。交配種のように親が一個体では受粉は結実せず実生の苗は得られない。)
現在日本全国にはソメイヨシノが数百万本あると言われている。実際にこれらの木は全て一本の原木のクローンなのだろうか、似たような交雑種が混じり込んでいることはないのか、確認する方法が無いままそうした疑念が付きまとっていた。

2015年4月の サイエンスZERO では先ず、世界中のソメイヨシノは全て同一のクローンなのかという疑問の解明を取り上げた。

茨城県つくば市の森林総合研究所では全国各地の様々なサクラを遺伝子レベルで分類しているが、日本全国の10カ所からソメイヨシノのサンプルを取り寄せ、遺伝子のうち個体間で差異が出易い領域(SSR)17カ所について比較したところ、検査したすべての検体について遺伝子は一致し、これらのソメイヨシノが極めて高い確率で同一のクローンであることが立証された。 (今回の検査で検体がクローンでないのに全てのSSRが"偶然に"一致する確率は1兆分の1だという)

日本のサクラの原種と言われているのは概ね10種類(チョウジザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、タカネザクラ、マメザクラ、カンヒザクラ、ヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、ミヤマザクラ)であるが、サクラは自然に種間交雑が起き易い上、人が持ち歩くことで地域を越えた雑種が生じ、その上雑種同士の交雑や、寿命が長いため同種に於ける世代を超えた交雑が起きるなど、サクラの遺伝子は複雑に入乱れていて、ソメイヨシノの親探しは極めて困難なテーマだという。
そこでソメイヨシノの親探しを目的とした遺伝子解析は、先ずソメイヨシノの遺伝子にどのサクラの原種の遺伝子がどの程度ブレンドされているかを解明することから始めることになる。

遺伝子のうち品種間で差異が出易い領域(SSR26カ所)について、野生種それぞれにパターンをとっておき、これと波形を比較することで、ソメイヨシノの遺伝子にそれぞれの野生種の特徴がどの程度含まれているかを探り、ソメイヨシノの遺伝子に対する野生種それぞれの関与の度合いを調べる。
その結果ソメイヨシノの遺伝子は、エドヒガン:47%、オオシマザクラ:37%、ヤマザクラ:11%、不明:5%の内訳になると判明したと発表された。(2014年)
従来までソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配によって生まれたとするのが定説であったが、この遺伝子解析の結果は従来の定説に修正を迫るもので、片親はエドヒガンとはされるものの、もう一方の親についてはオオシマザクラとヤマザクラの交雑種ではないかという可能性が高まった。
オオシマザクラとヤマザクラの人為的な交雑種は人里に多く見られ、ソメイヨシノは人が植えた木同士の交配により生じた雑種ではないかという仮説が有力となったのである。

多摩森林科学院主任研究員の勝木俊雄氏は、ソメイヨシノが選抜されて日本中に広がった理由はその成長力だと語っている。(木の成長が早い樹種を使えば植えてから花見が出来るまでが短期間で作れる)

2015年3月に千葉大の中村郁郎教授のグループが、上野公園内の一画にある一本の古木がソメイヨシノの原木である可能性が高いと発表した。(この一画は江戸時代には寛永寺の境内の一部になっていて、寛永寺は幕末の戊辰戦争で彰義隊がたてこもって境内は戦場と化し、現在噴水広場となっている場所にあった根本中堂や歴代徳川将軍の霊廟など全山の伽藍の大部分は、官軍に焼かれて灰燼に帰したが、その時代に鐘楼堂の敷地だったこの一画は焼け残り、米軍の東京大空襲の時にも焼けなかったという。その後、鐘楼堂の跡地には明治45年2月に小松宮彰仁親王の騎馬像が建てられた。)
この敷地の周囲に、今回原木候補とされたソメイヨシノの他、ソメイヨシノ3本とコマツオトメ、エドヒガン系のサクラ5本の計10本が並んで生えている。これらのサクラについて、自家不和合性を司るS遺伝子の調査を行ったところ、2組から成るS遺伝子の内、7本の木で1方のS遺伝子が共通し、各3本づつの木ではそれぞれに他方のS遺伝子も一致していることが分かった。S遺伝子はオオシマザクラで60種、エドヒガンでは100種程度あるもので、出生が異なる木で偶然にこのような一致が起きる可能性は極めて低く、少なくとも、ソメイヨシノの原木の可能性があるとした1本とエドヒガン系のサクラ5本を合わせた6本のサクラについては、共通の親から生まれた兄弟であることが濃厚と見做されるという。

或る一本のサクラから採った種(或は苗)が並んで植えられているということは、そこがソメイヨシノの育種現場であった可能性が高いということを意味する。つまり新種となる可能性のある種(或は苗)を幾つかここに植え、得られたものの中から最も良いものを原木として採用し、そのクローンを世に出すというような意図だったのではないかと想定されることから、この一本がソメイヨシノの原木であるとした。

番組では、未だ学会発表されたばかりの段階で、調査サンプル数が少なく、結論を出すには更に多くの遺伝子を調べる必要があるという専門家の言葉で結んでおり、今後の研究の進展が待たれる。

  【「ソメイヨシノ誕生の謎」のテレビ番組の内容に基づく説明は以上までです。】

(補足1:中村教授の発表をもう少し補足すると、寛永寺の正門に向って扇形に植えられている10本の木のうちソメイヨシノ以外の7本で母が共通し、その内6本を兄弟としているが、残る1本は後に西田尚道氏の提唱によってコマツオトメと命名されたエドヒガン系雑種の原木のことで、これは兄弟の交配時に他の花粉が混入して結実したものと推定されている。

ソメイヨシノの原木と考えられるとした木以外の3本のソメイヨシノについては、群桜としての評価および苗木を販売するためのディスプレイ用として原木から採ったクローンが植えられたものと考えられるとしている。尚コマツオトメもここが原木になるが、このクローンは半蔵門近くの国立劇場の前庭に植えられている多くの珍しい桜の園芸種の中で確認されている。)

(補足2:上野公園のこの木が本当にソメイヨシノの原木であるとすれば、少なくとも150年以上の樹齢が無くてはならない。樹木医の一般的な見立てによると、この木の樹齢は100年程度ではないかという。木を伐って年輪を数える訳にもいかないことから、樹齢の面でもいろいろ議論を呼びそうだが、中村教授は、もし明治になってから上野公園でソメイヨシノの選抜育種が行われたとすれば、確実に記録に残っているはずと述べている。)


千葉大の中村郁郎教授のグループによって、ソメイヨシノの原木の可能性があるとされた上野公園の実際の木を撮った写真を以下に3枚載せた。

初めの1枚は2016年9月7日に、上野動物園の正門前から前方にJR上野駅があるという方向で、原木とされた木のほゞ全体が入るように撮った。(右手裏に小松宮彰仁親王の騎馬像、左手先にコマツオトメの原木が僅かに写っている。)
   
[初秋・ほゞ全体の姿]

次の2枚は2017年4月2日の開花時に撮った。この日都心で桜満開の宣言があったが、上野公園のソメイヨシノは実際には5分咲き程度だった。こちらの2枚は上とは逆に、東京文化会館と国立西洋美術館の間の通りを真っ直ぐ進み、動物園の正門方向を向いた位置で撮っている。
   [根元に近い幹の雰囲気]   [通路側に張出した枝の様子]  


 
   「東京の原風景」(川添登−NHKブックス)によると、「花のお江戸」の歴史は上野に始まる。

将軍家光の時代、黒衣の宰相天海僧正は、京都の比叡山になぞらえて、江戸城の鬼門に当たる上野山に、鎮護のための寺院を建立するよう奏上する。その名も東の比叡、東叡山と称し、延暦寺と同じく年号をとって、寛永寺と名付けた。この本覚院に家光が吉野から桜を移植させ、以来さかんに植樹が行われ、やがて上野に花見の群集がおしかけるようになった。
その後吉宗が江戸庶民のレクリエーションの場として、紀州ゆかりの地飛鳥山(王子公園)を積極的に開発するようになる。江戸城内の吹上御所から桜1270本、紅葉100本、松100本の苗を移植し全山に野芝を植えさせた。江戸庶民の花見の中心地は上野から日暮里を経て飛鳥山に移っていく。・・・

同書には、「江戸時代の日本の花卉(かき)、花木、庭木の改良発達は、当時としては世界的にユニークな特別なものであった」、「日本の浮世絵が西洋文化に与えた刺激より、園芸植物の与えた影響のほうがはるかに大きいと評価してよい」(中尾佐助「栽培植物の世界」)などの記述も見られる。


江戸時代、染井村は世界的にもトップレベルの植栽文化の中心であり、多彩な技術を有し園芸植物にも先進的に取組んでいた。
このような背景を勘案すれば、ソメイヨシノが偶然生まれたというより、染井村の職人が長年の経験や知識に基づいて親木を選定し、相反交配を行うなど交配技術を駆使してソメイヨシノを開発したとしても何ら不思議ではない。ただ何故染井から出て寛永寺の境内で育種を行ったのか、ソメイヨシノという園芸種の開発動機やその背景には興味が湧く。

 (左上の写真一枚だけは、ソメイヨシノの適当なズームを探し、2004年3月31日にガス橋上手左岸のサクラ並木の中で撮ったものの中から採用した。)


 
(左の写真は、JR京浜東北線六郷橋梁の上手にある大田区の緑地管理事務所前にあるソメイヨシノを、2003年3月28日に初めて撮った時の写真で、未だ咲き始めの時期になる。)

多摩川緑地の下手の端はJR京浜東北線の橋梁で終わるが、その位置の堤防上は一寸したスーパー堤防風に幅広くなっている。多摩川緑地を利用する人の車のために、旧提道路から折れて、ここで堤防上に出てくる一般道があるが、JR橋梁の避溢橋部分の下が駐車場にされていることもあって、そのまま駐車場方向に降りていく広めの道路がある。(2013年に川下向きの坂路に作り替えられた。)
この道路を通って堤防上に出てきた場所で、降りていく坂路とは反対の上手側の堤防上(天端の後方で管理事務所の前)にソメイヨシノが1株ある。

左はその1株のソメイヨシノで、撮影は上と同じ2003年の4月1日、もう満開と言っていい状態になっている。

このソメイヨシノは1株ながら、かつては綺麗な桜として孤高の存在を誇っていた。然し何故かこの桜は2008年頃から年々衰えが目に見えるようになり、2012年には遂には大きな枝を何本も伐ってやっと生き残る状態となり、今では往時の趣は全く失われてしまった。

見る影も無くなったこの桜を惜しんで、枝振りが良く花も見事だった時期を偲ぶように、敢えてここに最後の数年について、同じ木を経年的に5枚載せることにした次第。

(左の写真は2004年4月2日の撮影。)

大田区が借用している多摩川緑地と六郷橋緑地の広大な範囲には、多くの野球グランドのほか、サッカーやテニス、ゲートボールなど各種のグランド施設があり、それらグランド類の他、芝を敷いた公園や区民広場、アンツーカー面の遊び場などもある。それらはすべてはここで一元管理され、日常、区の職員がバイクでテレテレと行っている巡回パトロールもここを拠点にしている。

(左の写真は2005年4月9日の撮影で、緑地管理事務所の入口前に入り込んだ場所から、JR橋梁の方向を向いて撮っている。)

(左の写真は2006年4月4日の撮影で、道路に寄った下手側の堤防上から管理事務所向きに撮っている。この頃までは未だ太い枝が横に張り出し、満開時にはとても見応えがあった。)

左に載せた写真は、2007年4月7日の撮影で、朝方に脇の道路上から(管理事務所裏手から見るような向きで)緑地方向を向いて撮っている。先方左手に対岸(右岸)テクノピアのビル群の頂上部が、正面の桜の後ろには対岸スーパー堤防上のマンションが見えている。(右手は管理事務所入口への通路に植えられたカイズカイブキ群)
記憶は定かではないが、この頃から一部枝を伐っていたかも知れない。だが2015年には既に多くの枝を伐って存命を図っている状態で、今後どうなるか微妙という印象だ。

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