<参考23>  夕日・夕焼け・夕焼け雲の雑学


光は真空中では一定の光速度で直進し、何事も起きない。宇宙は太陽のような発光体、地球や月のような反射体が光って見えるだけで、その他の空間全体は真っ暗である。しかし地球には大気圏があり、地上から宇宙を見る場合には大気を通して見ることになるので、真空中とは違う様々な現象が生まれる。

光は媒質中に入ると速度が低下する。(媒質中の光速度と真空中の光速度の比をその媒質の屈折率と呼ぶ。水の屈折率 n=4/3=1.33 というのは、光は水中では真空中の 3/4 のスピードしか出ないという意味。) 空気中では光は真空中より遅くなるが、空気が濃いほどより遅くなるので、光は高空では速く地上に近づくほど遅くなることになる。光は真空中では直進するが、速度が異なる複数の媒質を通って進むときには、光は2点間を最短時間で結ぶ経路を選んで進む。これをフェルマーの原理という。
太陽が低く下がる夕方になると、太陽から直接やってくる光は空気層を斜めに横切る形になるので、地上にやってくる光は(フェルマーの原理により)大気圏外から地上まで直進してはこないことになる。遅くなる地上側で進む距離が少なくて済むように、速く進める高空側で長い距離を稼ぐ。即ち大気圏に進入した光は、進入直後は直進し、徐々に地上側に湾曲し、最大降下角で地上に到達する。見る人は光は直進してきたものと認識するので、日没を見る時、実際の太陽は既に地平線の下に沈んでしまっていることには気が付かない。
(フェルマーの原理は、鏡面の反射法則、凸レンズによる集光、パラボラアンテナの放物面など多くの現象を説明する。夏場のアスファルト路面の「逃げ水」は、ヒートアップした路面上で空気が膨張して薄くなり、正面遠くからの光が観測者まで直進せずに、スピードの上る路面側に湾曲した経路を通ってくるため、あたかも前方からの光が路面で反射しているかのように見える現象である。)


太陽の光は空気分子によって散乱される。散乱というのはバラバラに存在する空気分子により、光が四方八方に散らされることである。散乱される度合いは光の波長によって異なり、波長の短い青色光は強く散乱され、波長の長い赤色光はあまり散乱されない。
より強く散乱された青色光があちこちから地上に降り注ぐので、上空の空は一面青く見える。太陽から直接空気層を抜けてくる光については、青色光が散らされ失われた分だけスペクトルが幾分か赤側に偏っていることになるが、強いて言えばやや黄色掛かっているかという程度で、日中の太陽は殆ど白色に見える。

夕方になると、太陽から直接地上にやってくる光は、空気層を斜めに横切る形になるため、日中の場合より遥かに遠くで空気の散乱を受けるようになる。上空の空は依然として青いが、地平線沿いの空から届いてくる光は、散乱による損失が少ない赤色に近い光の割合がずっと増すことになる。
青い上空と赤い地平線付近に挟まれた中間の領域は、適度に散乱された黄色光が主体になって見える。こうして夕方の西空は虹を逆さまにしたような配色で彩られる。(理屈上では黄色と青色の間に緑色がある筈だが、現実的には黄色に呑み込まれてしまい緑色として知覚できるのは稀である。)

大気中には空気分子だけでなく、都市圏や工業地帯では排気ガス、地方でも土埃や花粉・海水飛沫成分など、さまざまな異分子や塵埃が含まれていて、太陽光が散乱を受ける度合いは、実際には空気分子によるより、より大きな異分子・微粒子によるものの方が大きい。
空気分子の濃度は一定しているものの、水蒸気をはじめ異分子や微粒子の濃度は、場所により時間により大きく変動する。従って晴天の日であっても、夕日が赤に偏って見える程度は、日によって(勿論場所によって)大きく異なる。
空気分子以外の不純物の濃度がどの程度あるかを推測できる身近な指標はないが、見た目で霞み掛かっているとか、スモッギーに感じられる空では、太陽光を散乱する不純物濃度が濃く、太陽から直接届く光線の輝度が低下することは確かである。思わずじっと見てしまうほど赤く(大きく)見える夕日は、放射光量が少ないだけ輪郭がはっきり見え、輝度が下がっている分で凝視に耐えられることの裏返しである。
大気が澄んでいるというのは、大気中に空気分子以外の水蒸気や浮遊微粒子が少ない状態をいう。冬場の大気は乾燥し黄砂・花粉などという季節的な塵埃も少ない。真冬に強風が吹くような日は(大気中のチリが吹飛ばされ)、日没直前の夕日といえども、眩しくてとても目を向けられないという場合がある。こんな時の夕日は黄色味を帯びた白色で、照らされた風景の方も夕日独特の赤味は殆ど感じられない。(空気分子だけの散乱で夕日が赤くなる程度は、それほどは大きくないということが窺われる。)

夕方の空が散乱ロスの少ない赤色光に偏っていく現象は、太陽が低く大気層の透過距離が長くなるほど強調されるので、日が落ちていくに従い夕焼け空は益々赤みを増していくことになる。


何気なく夕焼けという場合には、夕焼け空と夕日自身が混同されていることが多いが、夕焼け空は散乱光で夕日は太陽からの光を直接見ているという違いがある。
散乱光は直接光より桁違いに輝度が低く、直接光に比べれば格段に弱い光である。自然光の場合、光の強弱と着色度の間には、特定のスペクトルが選択的に減少させられるという事情が起きなければ、全体強度が落ちていくほど色度が強調されるようになるという関係がある。
快晴の日の夕日が沈む頃、周辺の空は赤く染まっていても、太陽自身は黄色か精々オレンジ色程度で赤くはならない。([No.342] 参照) これは輝度の違いにより色の発現度合が異なる結果である。ただし夕日が沈む(または朝日が上る)頃の大気が透き通っておらず、薄っすら雲がかかっていたりスモッグが漂っていたりする条件下では太陽が赤く見える。これは途中の大気中に空気分子より大きな(散乱力の大きな)粒子が多く存在するためで、太陽からの直接光も光量が損なわれ、赤色側の光だけがやっと届いてくる状態になっている。こんな時には、周囲の空からの散乱光はなおさら弱くなるので、太陽ばかりが目立ち、夕焼け空は暈(ぼか)され鮮やかに見えることはない。
言葉を代えて言うと、輪郭がはっきり見え凝視できるような時に限り太陽は赤く見えるが、眩(まぶ)しくて見ていられないような普通の太陽は黄色から白色に近い色をしており、夕日や朝日もその例外ではない。

霞んだ空で夕日が赤く見える時、じっと見ていられるだけにその印象は強い。ただ子供がお絵かきで、昼間の太陽でも赤く塗ってしまうのは、絵本などがそのように教えている影響ではないか。大人の場合には、そのように教育されてきた経験に、「太陽=燃える=炎=赤い」という情緒的な発想も重なって、「赤い太陽」には微塵の迷いもなくなる。
外国では大抵の子供は太陽を黄色に塗ると聞いたことがある。排気ガスなどが充満する都会では、限りなく赤に近い色の夕日は珍しくないが、日本の夕日が特に赤いということはありえない。つまりこの国では夕日に限らず「太陽は赤い」という思い込みが代々伝えられてきたということがあるらしい。
島国ならではの独自性が(世界標準に負けることなく)持続し得る例は、何も赤い太陽に限ったことではないので、驚くにはあたらないということか...。


さて”夕焼け”は一般に、「太陽が沈む頃、西の空が赤く見えること」と説明される。
東京周辺の大気中には排気ガスに含まれるススや土ぼこりなど(1ミクロン内外の)大きな散乱粒子が充満し、空はスモッグに覆われたような感じになっていることが多い。このような状態では全ての光線は暈(ぼか)され、一見したところ快晴に思える日でも、遠い西空が赤く見える”夕焼け空”の美しさはたかが知れている。
しかしこんな東京でも、”夕焼け雲”の方は、条件さえ整えば結構見応えのある眺めが期待できる。

雲は上昇気流に乗った水蒸気が高空で冷却されて凝集し、ミクロンオーダーの細かい過冷却水や氷の粒子となって集合したもので、粒子の大きさは空気分子より桁違いに大きい。太陽光線は雲にぶつかると、波長の如何を問わず大きく散乱されるので、雲を抜けてくる光は通常白色を呈する。夕焼け雲というのは、赤色光に偏った夕日に照らされて、雲が赤く染まる現象のことである。
曇天の日でも地上は十分色を見分けられる程度に明るい。普通の雲は結構日の光を透過するのである。高空で凝集して出来た雲は粒径が微細なため、気流に弄ばれるように漂う。ミクロンオーダーでも重力の作用は受けるが、空気分子の抵抗も受けるので落下することはない。重力は粒子の質量即ち粒子径の3乗に比例し、気体の粘生抵抗は粒子の表面積即ち粒子径の2乗に比例する。従って或る臨界値以下の粒子径では、周囲の空気分子による影響の方を強く受け、一方的に落下するような動きはとれない。
高空の雲は再び蒸発してしまう場合もあるが、互いに衝突して合体を繰返していくと、粒子径が臨界値を超えた大きさからは、次第に重力の作用を強く受けるようになり、空気抵抗を押しのけて僅かずつ落下するようになる。粒径がミリオーダーに成長したものは急速に落下し、途中で液化して雨となる。

夕日が未だ直接見えている時間帯では雲は染まらない。「沈んでしまった夕日」が、地平線の彼方から、地平線スレスレに送ってくる照明が高空の雲を赤く染める。
従って夕焼け雲が劇的なスペクタクルを展開して見せる条件は、大気が澄んでいる環境で、西の地平線上に夕日の通り抜ける窓が開いていること、西空から上空にかけて広範囲に高度の高い(白く見える)雲が存在することの3点である。

一般に夏より冬の方が空気は澄んでいて、綺麗な夕焼け雲が見られそうに思うが、実際には冬場は夏場より夕焼け雲を観察できる機会はずっと少ない。
夏場の雲は高いので、粒子が微細で散乱された光の透過性がよい。一方冬場の雲は上昇気流が弱いためあまり高空に達しない。低い雲は粒子が大きく密度が濃いため、太陽光は大きく散乱されて失われ、裏側(地上側)まで通り抜けてくる光は少なく、低い雲の裏側は陰をつくり易い。そのため冬場の夕暮れの雲は、太陽に面した側では幾らか焼けているのかもしれないが、地上側からではほとんど陰としてしか見えないケースが多いのである。


夕焼け雲は、ただ雲が赤く染められるだけでなく、地平線際の雲が輝いて見える条件が重なったとき、息を呑むような美しい光景が展開される。 ([No.327] 参照)
夕日はもうとっくに沈んでいるのに、雲が輝いて見えるのは、その僅かな間だけ、雲が鏡のように働くからである。このとき地平線上の雲の下面には、地平線の彼方の夕日から、赤に偏った光線がスレスレの角度で入射する。正面から見れば隙間だらけの雲でも、下面スレスレの角度から照らされると、粒子が繋がって見え連続体のように機能する。このような条件にある雲は、鏡のように遠方の夕日を地上に反射して寄越す。
一般に雲が夕日を受け赤く染まって見えるのは、雲によって散乱された赤色光が四方八方に飛び散り、その一部が地上にもやってくるからである。しかし雲が上記のような特殊な条件を満足し、夕日を”反射”するときは事情は全く異なる。反射が見えているときそれは、散乱光のように入射光の極く一部を見ているのではなく、入射光の殆ど全部を見ていることになる。
地平線上にある雲が、地平線の彼方からくる夕日を反射する位置に入ったとき、雲は(その僅かな時間だけ)夕日を映し出し、光り輝いて見える。

夜大通りに向かう小道を歩いていて、遠くの交差点の信号が、途中の道端の何かに反射してやけに眩しいと感じた経験はないだろうか。こんな時、道路の脇の方で信号の光を反射しているのは、電柱に貼られていた看板であったり、ベニヤ製の掲示板であったりする。いずれにしても、近づいて見ればザラザラな面で、(日常見慣れていても)その辺に鏡のような物体があるとは認識していないので、遠くの明かりが妙に反射して見えたりすると不思議に思うことがあるのである。
このように視射角がゼロに近いスレスレ入射の時に限り、通常粗面とみなされるような平面が、擬似的に鏡面のような反射性能を示す現象を「グレイジング・イフェクト」 と呼ぶ。( "grazing effect" は「牧草効果」ではなく、軽く掠(カス)る程度に触れた場合という意味で、角度がホンノ僅かしか変わらない程度の反射条件を指す。) この特異な効果は二つの作用が複合して起きている。
反射面が理想的に平滑な鏡面の場合、どこで反射した光も条件が同じため(位相差ゼロ)、入射光は失われることなく反射光を生じる。しかし一般の粗面での光の反射は、山部での反射光と谷部での反射光の間に、光路差に従う位相差が生じ、この位相差がπを超える普通の反射では、重なり合った光波は干渉して完全に打消される結果になる。このように反射光が生じない一般の粗面での反射は拡散反射と呼ばれる。
上記したような両側の反射面(条件)、即ち、完璧な鏡面と通常粗面の中間に、位相差が0とπの間に入る、微妙な反射面(条件)があることになる。反射面の凹凸による光路差は、凹凸そのものが小さい場合には当然小さくなるが、その他視射角が小さい場合にも小さくなる。これは山が密集する地形を見る場合、上空から見れば山谷の存在がよく分かるが、地上に近い高さから見た場合には、山の先に又次の山が見えて、谷の存在がよく分からず、山の頂きだけを連ねたような擬似的な平面が見えることに通ずる。
光路差が小さく、位相差がπ/2までにとどまるケースでは、鏡面反射の場合の1/2の反射エネルギーが確保される。(この基準をレーリーのクライテリオンという) 即ち位相差がゼロからπ/2になるような範囲では、反射光は散光にならず、概ね鏡面反射に近い反射光が生じると考えてよい。
一方フレネルによる反射率の計算式は、視射角がゼロに近付くと、屈折光(反射面で反射体内部に進入し、透過したり吸収されたりするエネルギー)が急速に減じることから、反射光量が飛躍的に増大するようになっている。理論上視射角ゼロで反射率は1となるが、反射率カーブは、視射角が10度以下の辺りでは急勾配で立上っていて、スレスレ入射の状態では反射率は限りなく1に近付く。
視射角がゼロに近いスレスレ入射の時に生じる "grazing effect" は、視射角が小さいことによって反射面の凸凹による拡散度合が減少することと、視射角が小さいことによって反射率が高まり反射エネルギーの割合が増大すること、の二つの効果が複合して生じると考えられる。


カールツァイスのティースター(T*)レンズのコマーシャルに、「夕日の赤は赤じゃない」というフレーズがある。夕日の赤は信号機の赤のような純色ではない。全ての色が重なりあった白色光から、短波長側の光が失われていくことによって、白色のバランスが崩れ、全体が次第に赤色を帯びた側に彩色されてくるのである。
塵埃や水蒸気を多く含むかどうかなど、その時の大気の状態によって、散乱の様子は微妙に異なり色は違って見える。沈んでいく太陽との位置関係に応じて、散乱を受ける大気の厚さが変わるので、時々刻々にもその色は変化してゆく。

夕日が次第に赤みを増していくのは、散乱された青色光が失われていくためだが、やがて太陽が地平線に沈み、あたり全体が暗くなっていく過程もまた赤さを強調することになる。
夕日は白色光から青色光が減じ、スペクトルが赤色側に偏っているが、明るいうちはまだ白色光のゲタを履いている。夕日の直接光が地球によって遮(さえぎ)られ、あたりが暗くなっていくのは、このゲタの部分が除かれていく過程である。
(例えば赤の割合が青の2倍に偏った光、赤:青=4:2 から、白色光として同じ量1ずつが失われたとすると、残った光は、赤:青=3:1 になる。この例では、暗くなることによって、赤の青に対する割合が2倍から3倍になり、それだけ赤への着色度合が高まることになる。)

夕焼け雲が夕焼けより赤いのは、もう直接的には見ることが出来ないほど遠くに去り、最高度に赤さを増した(沈んでしまった)夕日が、雲に中継され散乱光として見えるからである。
ただ偶々(たまたま)地平線上で輝いて見える雲がある場合、その雲はその位置で今まさに沈まんとして見える夕日を映して(中継して)いるので、光量が強くオレンジ掛かった色を反射して寄越すことになる。



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