<参考21>  染井村とソメイヨシノ


「東京の原風景」という本に、引用として、「江戸時代の日本の花卉(かき:園芸用の草花)、花木、庭木の改良発達は、当時としては世界的にユニークな特別なものであった」、「日本の浮世絵が西洋文化に与えた刺激より、園芸植物の与えた影響のほうがはるかに大きいと評価してよい」(中尾佐助「栽培植物の世界」)などのことが書かれている。
江戸時代、植栽文化のメッカとして賑わい、やがてソメイヨシノ(染井吉野)が生まれることになった染井村とはどいう所だったのだろうか。 (以下「東京の原風景」(川添登−NHKブックス)による。)

「花のお江戸」の歴史は上野に始まる。将軍家光の時代、黒衣の宰相天海僧正は、京都の比叡山になぞらえて、江戸城の鬼門に当たる上野山に、鎮護のための寺院を建立するよう奏上する。その名も東の比叡、東叡山と称し、延暦寺と同じく年号をとって、寛永寺と名付けた。この本覚院に家光が吉野から桜を移植させ、以来さかんに植樹が行われ、やがて上野に花見の群集がおしかけるようになる。
その後吉宗が江戸庶民のレクリエーションの場として、紀州ゆかりの地飛鳥山(王子公園)を積極的に開発するようになる。江戸城内の吹上御所から桜1270本、紅葉100本、松100本の苗を移植し全山に野芝を植えさせた。江戸庶民の花見の中心地は上野から日暮里を経て飛鳥山に移っていく。
江戸における植木・花卉など栽培植物の歴史は、まず大名屋敷の庭園造園に始まり、庶民のための花の名所の開発、そして鉢植や花卉の一般への普及という形で進んだ。元禄綱吉の時代、こうした花文化の動脈となっていたのは岩槻街道(現在の本郷通り:東大のある加賀前田家上屋敷前を通り、駒込を経て飛鳥山に至る)であった。六義園(りくぎえん:大老柳沢吉保の下屋敷)のつきる場所で岩槻街道から左手側に入っていくのが染井通りで、ここに藤堂家の下屋敷があった。もともと上野山には、藤堂高虎の下屋敷があったが、上野が東叡山寛永寺となって、将軍家霊廟の地となったため、その替地として藤堂家が賜ったのがここ染井である。
藤堂家に植木職として務めていたのが、苗字帯刀を許された伊藤伊兵衛で、代々同じ名を襲名し、享保の頃には、江戸随一の植木屋とうたわれた。伊藤伊兵衛は特につつじやさつきで有名だったようだが、飛鳥山に桜を植えたり、滝野川に紅葉を植えたりすることにも貢献している。伊藤伊兵衛として最も著名なのは、家重の時代将軍家の植木職を務めた伊藤伊兵衛政武で、つつじ、モミジなど各種の園芸書も著している。
伊藤伊兵衛が居た染井・巣鴨の界隈は、当時の地の利から、造園師や植木職人が集まるようになって特異な集落が出来、染井のつつじは飛鳥山の桜と並び称される花木の里として脚光を浴びるようになる。但し、染井は景勝地ではなく、植木屋の里であり植木センターであった。つつじに限らず、楓(かえで)椿(つばき)ほか多くの花木が栽培され、数々の植木屋が連なって、さながら植物園の観を呈していたのである。
再び本書内の引用になるが、幕末に観賞用植物の品種を求めて来朝したロバート・フォーチューンは、染井村の壮観に接してつぎのように書いているという。「交互に樹々や庭、格好よく刈り込んだ生垣がつづいている公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が、一マイル以上もつづいている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えの数千の植物がよく管理されている。」 (「江戸と北京」三宅馨訳)

サクラは数百種あると言われるが、大半はサトザクラ(里桜)と総称される交雑種(栽培種:園芸種)で実はつけない。サトザクラの多くはオオシマザクラを母木とし、関東地方で生まれている。(サクラは通常一重咲きだが、サトザクラの中に八重咲き、菊咲きとなるものがある。)

ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸末期(1850年代)に、染井村に集落を作っていた造園師や植木職人によって育成され、「吉野桜」の名前で売り出された新種である。その起源については今でも諸説があり明確にはなっていない。
上記のイギリス人の植物学者ロバート・フォーチュンは、染井村の桜園で初めて眼にした桜を、Prunas Yedoensis と命名して発表、1960年頃に染井村で発見育成されていた新種としている。
ソメイヨシノの起源について現在有力とされている説は、1916年、米国植物学者アーネスト・ウィルソンが提唱した、オオシマザクラとエドヒガンの雑種説である。国立遺伝学研究所の竹中要が、交配実験によりこの説を確認したとして、1965年にその結果が発表された。これによってソメイヨシノが野生種のエドヒガンを父種としオオシマザクラを母種とした交配によるらしいということになったが、自然交雑種か人工交配種なのかについては真相は定かでない。
「東京の原風景」には、「染井の植木屋が人工交配によってつくりだしたのか、その庭で自然交配して生まれたのか、あるいはどこかで自生していたものを、植木屋がもってきたのかは、まだ明らかにされていない。ただ、はやくからソメイヨシノの原生地が伊豆大島であるという風説があり、調査の結果、そこから自生のオオシマザクラ、エドヒガンザクラに混じって、ソメイヨシノの近似種が発見されたので、伊豆大島から自生種をもってきて栽培した可能性の強いことを竹中は示唆している」、と書かれている。(この伊豆大島原産説については、1993年「山と渓谷」社刊「日本の桜」に掲載された「ソメイヨシノの起源」で川崎哲也氏により、誤りであることが判明したと記述されている。)
そのほかには、誰かが伊豆半島に自生していたものを持ち帰り、伊藤伊兵衛政武が育成して原木にした、或いは伊藤伊兵衛政武自身が自家のサクラ園で交配させたという説や、済州島から渡来し吉野権現に献上されたものを、染井村の植木屋が吉野詣での帰りに持ち帰ったとする説、さらにソメイヨシノは雑種起源ではなく、独立した種であるとする説まである。

いずれにしても、染井村の「吉野桜」は、本家吉野(奈良)の山桜にある「芳野」とは別物であるため、明治33年に刊行された「日本園芸雑誌」に発表された「上野公園桜花の種類」の中で、藤野寄命が山桜と区別するために「染井吉野」と名付けたのがその名の始まりで、学名もそのままソメイヨシノになったということである。
ソメイヨシノは、接ぎ木によってたやすく増やすことが出来、成長が早い上に、若木でも花が咲くので、明治期に急速に都市環境を整備していく上で、まことに都合のいい品種だった。その結果明治以後に整えられた桜の名所(上野公園、隅田公園、芝公園、飛鳥山、靖国神社等)は、いずれも大部分がソメイヨシノで占めら、全国にも広がっていくようになった。

  以上「東京の原風景」(川添登:NHKブックス)の外、若干の部分で「桜伝奇」(牧野和春:工作舎)、「桜誌」(小川和佑:原書房)を参考にした。


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