<参考14>  羽田弁天と穴守稲荷、京急穴守線

 
(左の地図はローマ字表記で書かれた地図「SHINAGAWA WAN」の多摩川周辺部分。明治23年の測量を元にし、大正時代に見直したとされる。澪筋の先に島状の浅瀬が記され、洲の先端に灯台が書かれているなどの点で珍しい地図。鈴木新田には鴨猟場のみ記載されている。緑字は今回の追記)

海老取川の東側(海側)はかつては広大な干潟で、多摩川の河口流と海老川の間に扇型に低湿地帯が拡がり、羽田浦の海側は別称「扇ヶ浜」とも呼ばれていた。扇の要(かなめ)の位置に当たる出洲は「要島」と呼ばれ、江戸時代の天明年間(1781〜88)初めには羽田村に属していたが、羽田猟師町の名主で羽田浦の船元として差配もしていた羽田屈指の実力者鈴木弥五右衛門が、羽田村の名主石井四郎右衛門から譲り受け、請負新田として幕府に願い出て開墾の許可を得、干潟の干拓に着手した。文化12年(1815)には新田としての形態が整い、出百姓層もこの地に住着いて、以後要島は羽田猟師町より分村し「鈴木新田」と呼ばれるようになった。(弥五右衛門の墓は正蔵院にあるという。)

ここには玉川弁財天(別称:羽田弁天)があって、江戸時代中期から海上守護神として江戸商家や廻船問屋の信仰を集め、浦守弁天とも称されていた。羽田弁天には上宮、下宮があり、上宮は西町の別当金生山竜王院(真言宗)にあって、弘法大師が護摩の灰を以って作ったとされる弁天像を祀る。
大田南畝の「調布日記」には、猟師町から帰る際に、「猟師町をすぐ、右に竜王院といへる額みゆる寺あり、左に朗羽山長照寺あり」と記されている。

(日蓮宗長照寺は現在大師橋の袂から500m余り川上側に行った本羽田3丁目にある。猟師町にあった旧寺は明治11年の大洪水で流出し、川欠となったためその後現在地に移転した、と「大田区史跡散歩」(新倉善之著)に書かれている。
「大田区の歩み」には大師橋を工事する際、正蔵院の川下側の筋向いになる長照寺の跡地から、たくさんの人骨が出たことが記されている。一方の竜王院は(現在は金生山ではなく医王山と称している)、大師橋の川下側羽田街道の入口で、長照寺跡地と概ね筋向いとなる位置に今もある。)

(以下玉川弁財天に関する内容は概ね「羽田史誌」による)
東町の要嶋にあった下宮のご神体は如意宝珠で、竜海という僧が水中より見出したが、それが多磨郡日原の霊水に涌出て、多摩川を下り羽田村に止まったものとの伝承があり、これがため羽田弁天はまた多摩川の守護神ともみなされて、沢井・柚木・二俣尾など上流の筏師達の寄進も受けていた。(但し上宮の伝記は全て下宮のことであるとする書き物もあり、縁起に幾らか混乱が認められることは古くから指摘されている。)

要島はもともと羽田洲の根元にあたり、砂洲を埋立てやがて新田が作られるが、下宮がいつ頃造営されたものかは不明である。玉川弁財天の縁起を伝えるものに「要島弁財天祠記」という書き物があり、正徳3年(1713)香国禅師によって書かれたとされる。表題に要島と付いているだけに、その時代に既に下宮が出来ていたことを証するかもしれない。
大田南畝の「調布日記」に、江戸時代まで別当竜王院にあった「略縁起」に、下宮の御神体になっている「如意宝珠」が南の大川(多摩川のこと)で網にかかったのは、康治2年(1143:平安時代、鎌倉幕府が開かれる半世紀前)と書かれていたことが記されているが、この如意宝珠は上宮(竜王院)にあったものを、後に要島に移し下宮として勧請したという説があるので、要島の弁天社がいつ出来たかの根拠にはならない。

右の絵は、上の落雁も歌川広重で、「よみがえる大田区の風景」(平成11年 大田区教育委員会編)からコピーした。下の絵と似た構図なので羽田弁天と思われる。天保6〜9年(1835〜1838)と書かれている。

弁天社(上宮)は高灯篭に火を灯し(竜灯)、常夜灯として船舶の標的となる役目を果たしていたが、年月とともに次第に洲が増し、常夜灯が海上から遠ざかってしまったことから、更に海辺に寄った位置の下宮に常夜灯を移設したとされる。
要嶋が干拓されて新田としての形態が整い、羽田猟師町より分村し「鈴木新田」と呼ばれるようになったのは文化12年(1815)だが、その7年前の文化5年、大田南畝(蜀山人)は初めて要嶋の弁天に参った時のこととして「調布日記」に、「宇賀神の小祠あり、御穴宇賀神といふ、こゝこに常灯篭の高きありて入来る船の目しるしとせしも、近頃はたえてこのかたばかりをのこせり」と記している。
要嶋の羽田弁天(及び高灯篭)が、鈴木新田の干拓が完了するより遥か前の時点で出来ていたことを窺わせる。(「新編武蔵風土記稿」によれば、宇賀神社は本社の南側、高灯篭は社の巽の方(東南)にあった。)

砂洲の堆積は年々沖に進んで、新しい常夜灯も船の目印になりにくくなったため、嘉永3年(1850)社殿から離れた羽田沖の浅瀬の突端に櫓(やぐら)を建て、周囲を油紙の障子で張った箱枠を置き、その中央へ魚油を入れた器をおき、糸灯心に点火して航行船の目印とした。(羽田の常夜灯は四国の金毘羅大権現の御神燈から採火したと言われる。)
その櫓が自然に朽ち損じた後は、土を盛って家を建て、たいまつを燃やして、本格的に灯台の役目を果たすようにした。この方法は明治の初年まで続けられたが、洪水氾濫により多摩川の流路が改変され、海面浅瀬の地形が変化して対岸となってしまっため、余儀なく廃絶されることとなった。
明治以後は、私設の常夜灯に代わって本格的な官設の灯台が設けられ、羽田灯台と称せられた。『羽田誌稿』は羽田灯台について、「六郷川口ノ南、沙洲上ニアリ、螺旋鉄柱、高四丈、灯光不動緑色、照射五里余ニ達ス云々」、と説明している。尚灯台は対岸側に移ったが、灯台守の官舎は羽田弁天の前に置かれていたということである。

(明治期の河口付近の地図によれば、多摩川左岸に沿って鈴木新田の沖に字御台場があり、その対岸側の川中に字常夜灯と名付けられた三角洲があった。その後洪水によって字御台場と字常夜灯との間が河口の本流に変わり、川崎側の砂洲は三本葦と呼ばれ、旧水路は広末澪と呼ばれるようになった。三本葦は日本の航空黎明の一時期、飛行訓練に利用されたところである。なお上掲した地図では、煩雑を避ける都合上文字を分散記載しているのであり、玉川弁天や穴守稲荷は明治以前からあったものである。)

右の羽田弁天の絵は歌川広重(二代)の作。手前が下宮の社と思われるが、高灯篭(常夜灯)は浅瀬伝いの沖に描かれている。近世の羽田弁天の絵は周囲が殆ど水で、弁天社の周囲だけが浮島のように海面に孤立して描かれているものが多い。要島は干拓され堤防で囲って農地にしていたとされるので、満潮時にも水没するような状況ではなかったはずで不思議に思える。

大田南畝は文化5年(1808)多摩川巡視の際、羽田に向う前に、八幡塚村の名主に案内されて堤の崩れた所を調べて回り、その後雑色村に出るが、羽田までは道が悪いからと船に乗ることを進められている。
猟師町から羽田に向い、「蝦取橋といふを渡りて、羽田の弁天の前なる棚橋をわたり、社にいる、玉川弁財天という額を掲ぐ、こゝは要島をいふ所なり」と書いている。蝦は海老のことなので、蝦取橋は海老取川を越えたと考えれば、今の弁天橋のことと推測される。

「新編武蔵風土記稿」は昌平黌・地誌編纂局で、文化7年(1810)から文政9年(1826)に掛けて編纂された資料編のような体裁の地誌で、鈴木新田ができた頃とほぼ同じ時代に書かれたものである。
「新編武蔵風土記稿」には、下宮の沿革について縁起に関することのほか、「前に多摩川の流れを掘入小橋を渡せり」とあり、昔はここ(鈴木新田の弁天社があったところ)から南へ60間(109m)余りの大門道があり、その半ばに石の鳥居があったが、川欠によりその地が失われ、鳥居は川のほとりにそのまま横たわっている、いつの頃からか海岸に敷石をして、今では川欠のおそれはなくなったなどのことが書かれていて、何となく当時の様子を想像することが出来る。

昭和初期に刊行された「武蔵野歴史地理」(高橋源一郎著)によれば、玉川弁財天は、江戸時代中期(1700年代)、穴守稲荷社が未だ勧請されない頃に、江戸商家や廻船問屋の信仰を集め大変繁盛したとされる。
当時名産として知られ社前の茶屋で売っていた「蒸し蛤(はまぐり)」は、潮水に浸して砂を吐かせ、別に綺麗な潮水を汲んで水を足して蒸(む)したもので、文政中『嘉陵紀行』を表した村尾正靖をして、こんなに美味しいものは江戸では食べることが出来ないと言わしめ、「弁天の蛤あじな羽根田浦」という狂歌も伝わっている。

寛政6年(1794)の古河古松軒による「四神地名録」には、荏原郡の名産は、「大森の海苔・玉川の鮎・羽田の蛤」の3つしかないと記されている。
鈴木新田を干拓した羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門と、文人幕吏として知られる大田南畝は同時代人で、文化5年(1808)、6年に南畝が多摩川巡視の旅に出た際、弥五右衛門宅を宿所にしている。
大田南畝はその折したためた「調布日記」の中で、「社のうしろに枝をたれて洲にのべふしたる松ニ三本あり、その松のもとより洲の上にあゆみ潮ひかたをゆく事二十町あまり、人々蛤とり浮木なともとめ得てかへり、〜」と記している。蛤を採取していたのは、砂洲の上を2キロメートル余り沖に歩いていった先だったということが分かる。


左上と右下の掛け軸はともに歌川広重(三代)の作である。左は羽田洲の先に作られた本格的な灯台。(位置はこのページのトップに載せた「品川湾」(西南部抜粋図)に示してある。) 右は鈴木新田にあった当時の穴守稲荷を描いたもの。ともに実物では上方(空の部分)はもっと長いが割愛させてもらった。

明治以後は私設の常夜灯に代わって本格的な官設の灯台が設けられ、羽田灯台と称せられた。羽田に灯台があったことはあまり知られていないので若干付言しておくと、羽田灯台は英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンによって明治8年に建設された。彼は政府のお雇い技師として、明治元年26歳の時、英国から派遣されてきたスコットランド人で、日本に滞在した明治初頭の8年弱の間に、26の灯台を設計建設した他、電信架設、鉄道建設、街路整備、港湾計画など広範囲の分野で日本の近代化に貢献をした。)、


穴守稲荷神社は、鈴木新田を開墾した鈴木弥五右衛門が、文政年間(1818〜1830)の初め頃、新田開発の守護神として、要島の堤防に稲荷社を勧請したのが始まりで(祭神:豊受姫命)、この稲荷社は新田住民や周辺からの崇敬を集めるところとなっていた。(「穴守稲荷社」という名前の由来は、それまで高波によってしばしば防波堤に大穴が開けられてきたが、この社をお祀りしてから嘘のように決壊しなくなったという言い伝えによる。)
明治政府は祭政一致の理念を実現すべく、全国の諸神社を神祀官の管轄下におき、伊勢神宮を頂点とする社格制度によって編成し体系化した。そのため私祭を規制すべく、「地蔵堂稲荷の類」にかかわる社寺を無願で創立することを禁止するとともに、「人民私邸内等に自祭する神祠仏堂へ衆庶参拝」も禁止とし、取締ることとしていた。
明治18年鈴木嘉之助は東京府知事に「稲荷神社公称願」を提出し、その甲斐あって神社創建は公許され、以後「穴守稲荷神社」と公称するようになった。 (「大田区史」より)

明治期以降の鈴木新田には鴨猟場があった他、海岸には幾つもの海水浴場があり(春は潮干狩り)、明治29年に鉱泉が発見されたこともあって、穴守一帯はレジャー施設や歓楽街として発展した。
京浜電気鉄道は川崎宿-大師間で開業した翌々年の明治34年(1901)、川崎宿−大森駅線を開通させたが、その翌35年には、途中の蒲田から海老取川を越える稲荷橋(人道)の西詰まで支線を出し、川崎大師とともに穴守稲荷への参詣線をも兼ねる足となった。

穴守線は、大正2年(1913)には、海老取川を鉄橋で越えて鈴木新田に入り、神社のある穴守まで延長された。これによって穴守稲荷神社の参拝者は増加し、花柳界や博打関係など "穴" に縁(ゆかり)の人たちの信仰も集めて繁盛を極めたという。

終戦後占領軍の飛行場拡張のための強制退去令に際し、稲荷社も立退きを迫られ暫時羽田神社(本羽田3丁目)に合祀されることになった。
(穴守駅前の一の鳥居だけは、撤去しようとする度に事故が起きるため、占領軍も諦めそのまま空港に残されたという逸話がある。この鳥居は長く旧ターミナルビル前の駐車場にあったが、羽田空港の沖合展開事業の中で、(同地が新B滑走路予定地に入ることから)1998年に現在地(弁天橋のたもと)に移された。

(以下の写真7枚は全て2002年以降の撮影で、最近の様子を示したもの)

鈴木新田にあった玉川弁天(羽田弁天)もこの強制退去令にあい、羽田6丁目の現在地(防潮堤の川裏)に遷座した。
占領軍の飛行場拡張のための強制退去令について、「大田区の歩み」(宮川茂)には次のように記載されている。
「9月21日、海老取川以東全地域に対して48時間以内強制退去の命令が出ました。戦時中の強制疎開と同じ僅かの補償金だけで千二百世帯、三千人の住民は主な家財道具をまとめ、住みなれた穴守町、鈴木町を後にし、多くは近くの羽田、糀谷あたりの親類、縁者を頼って移転して行きました。」
「退去した跡と糀谷、萩中の焼け跡には米軍第808飛行場建設部隊がバラックやかまぼこ兵舎を建てトラック、ブルドーザー、パワーシャベルなどの機械を持って進駐してきました。

そして大林組、間組などの土建業者と日本人労務者を使って不要の建物は破壊焼却し、戦争中の日本の飛行機、自動車などは黒田家鴨猟場跡の池や東貫川に埋め、六郷川や海底の土砂をサンドポンプで送って盛土し、その上に二子玉川付近からトラックで運んだ土をのせブルドーザーで固め、更にコンクリートや鉄板で滑走路、誘導路を作りました。仕事は一日3交代、24時間休みなしに進められ僅か六か月で完成しました。」

強制退去令は海老取川の東側全域が対象とされたが、「史誌第40号」(蒲田−羽田空港間連絡線)によれば、接収された地域は空港用地に止まらず、「占領した飛行場の要員などの宿舎を建設するため、現東糀谷1丁目,西糀谷2丁目の一部、同3丁目の全域、萩中3丁目から本羽田3丁目にかけての大部分の住民も同様に立退きを命じられた」こと、などの証言が記載されている。


同誌には、当時、省線蒲田〜羽田飛行場間に敷かれた軍用側線のことが詳しく書かれている。占領軍は飛行場工事に要する膨大な資材を輸送するため、基地内の工事現場まで貨車を直通させる必要があるとした。そのため、「省線蒲田〜京浜蒲田」及び「稲荷橋〜飛行場」間に新線を敷設し、中間の京浜蒲田〜稲荷橋間は在来の京浜電気鉄道・穴守線の上り線を接収して繋ぐこととした。
昭和20年(1945)京浜電気鉄道・穴守線の上り線は、空港と同時に接収され(本線は単線化)、省線に接続出来るように軌間変更が行われ(京急の軌間はJR在来線の1067mmではなく新幹線と同じ1435mm)、蒲田側飛行場側それぞれに敷設された新線と繋がれた。この占領軍の鉄道は主として、砂利・セメントなどの建築資材、航空機やエンジン部品などの物資輸送に使われ、時にはアメリカへ帰る兵隊を乗せた列車も走ることがあったという。
昭和27年(1952)まで京浜蒲田〜稲荷橋間では、旧京浜電気鉄道(注)と、蒸気機関車に曳かれた軍用列車が併走していたことになる。
  (軍用側線の図や写真については [参考32] に掲載

講和条約の発効により飛行場が返還され、同時に穴守線の接収も解除された。返還された上り線は軌間を元に戻し、京浜急行電鉄・穴守線の複線が復活した。ただし海老取川の東側は空港の敷地となったので、鉄橋以遠の部分は廃線になった。
(注:戦時下の国策合併:1938年の陸上交通事業調整法により統合政策が推進され、西南地区は東京急行電鉄に一本化、西北地区は西武鉄道、東北地区は東武鉄道、東南地区は京成電鉄に統合された。旧京浜電気鉄道は、戦時中は東急電鉄・京浜線となるが、1948年に京浜急行電鉄として分離独立した。)
稲荷社は既に昭和23年(1948)に、現在の地(羽田5丁目)に再建され遷座していたので、京急ではそれまでの稲荷橋駅を340m京浜蒲田寄りに移動し、最寄駅として「穴守稲荷」と改名した。 東京モノレールが開通する前年の昭和38年(1963)には、穴守線は新たに空港線と呼ばれるようになるが、京急線終点の海老取川の手前駅は(利便性は無くただ飛行機が見えるというだけの)「羽田空港」駅に過ぎなかった。

東京国際空港はその後埋め立て拡張され、空港ターミナルビルも沖合いに移転新築されることになる。京急電鉄では、昭和63年(1988)から進めていた空港線延伸第1期工事が、平成5年(1993)4月1日に完成し(海老取川を過ぎた地下に)羽田駅(後に駅名を「天空橋」に変更)が開業、平成10年(1998)11月18日、第2期工事が完成し、空港ターミナルビル「ビッグバード」のほぼ真下に位置する真の「羽田空港」駅が開業する運びとなった。
(京急電鉄のHPによれば、「空港線の始点である京急蒲田駅では、京急蒲田駅付近連続立体交差化事業がすでに始動しており、この改良工事により横浜・横須賀方面からの直通運転の終日化がはかられて、さらに便利になる」とのことである。正月恒例の箱根駅伝と踏切りの問題がいずれ解決することになる。)
省線蒲田から京浜蒲田までの軍用貨物線があった当時のルートは、現在の大田区役所北端位置を出てアロマスクエアの北側を通り、蒲田4丁目を抜けて京急蒲田の南側に出るもので、廃線となった以後その跡地は都道になっている。

以下余談になるが、東急東横線(及びみなとみらい21線)は2012年から営団地下鉄(東京メトロ)13号線(池袋-渋谷:2007年開業予定)と相互直通運転を行うことが決まっている。京急空港線の空港ターミナル乗り入れや、東京メトロ13号線の着工を機に、東急多摩川線と京急空港線を結ぶ「蒲蒲線」構想が真面目に議論されるようになってきた。
ただし、双方は軌間が異なることや、空港線の運行容量の点で直通運転が難しいこと、「蒲蒲線」は地下線が有力視される一方、京急は全線の高架化を進めていて、「京急蒲田」では乗り換えが容易でないことなど、採算化するための課題が多過ぎて、実現するかどうかは不明の情勢が続いている。
(京急空港線は産業道路の踏切を廃止するために大鳥居駅を地下化した。現在では「蒲蒲線」は半ば死語となり、「東急と京急を短絡させる線」は大鳥居接続を本命案として生延びている。)

鉄道は闇雲に計画して事業化できるものではなく、15年毎に大臣が諮問する「運輸政策審議会」により事前に大所高所から検討され、答申で俎上に上っていなければならない。

直近の建議は2000年1月に答申された「運輸政策審議会答申第18号」「東京圏(半径約59km)における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」であり、答申は目標年次を2015年(平成27年)とし、審議の結果を、2015年までに開業するべき路線、整備に着手するべき路線、整備について検討するべき路線、に分けて細かく記載している。
通称「蒲蒲線」はこの答申で、「目標年次までに整備着手することが適当である路線」に上げられており、関係者間で話合いがまとまれば、鉄道事業許可を申請出来る資格は持っていることになる。現状ではこの短絡線は、東急蒲田、京急蒲田を迂回した形で、「矢口の渡し」〜「大鳥居」間に地下線を曳く案などが公開されている。(事実上「蒲蒲線」ではなくなる。)
ただその後に急遽、「羽田空港の神奈川口」の建設が決まり、京急大師線の空港への延伸の可能性が検討されるなどのことがあり、京急を取巻く環境が混沌としてきたため、東急多摩川線と京急空港線を短絡する新線の実現性は益々予断を許さない情勢になったとみられる。



   [参考集・目次]