<参考13>  羽田猟師町と御菜八ヵ浦


多摩川の河口近くの左岸に海老取川(えびとりがわ)という派川があり、現在では海側の空港敷地(羽田空港1丁目)と羽田の一般居住区(羽田5丁目・羽田旭町・東糀谷6丁目など)の間を仕切っている。海老取川は多摩川口(弁天橋)から流入し南から北に流れ、森が崎の海岸に開口する短い川である。近世には海老取川の西側は羽田村で、北に向かって糀谷村、大森村と続いていた。(海老取川の東はやがて干潟が干拓され鈴木新田として独立する。)

「羽田郷土史」は、羽田村は源義朝が平清盛に敗れた平治の乱(1159〜60)の後、源氏の落武者7人が羽田浦に漂着して開村したと伝えているという。(よく似た話は琵琶湖の沖島などにもある。)
「大田区史跡散歩」(新倉善之)には、羽田最古の寺院である自性院(旧提際にある正蔵院の北隣、明治になって羽田神社が分離した)の開山慈性が平治元年に没していることから、源氏の落武者云々の伝承は慈性にまつわる伝説と附会したものらしく、史実とすべき根拠はないと記されている。
羽田浦は中世以来漁村だったが、比較的早い段階で東糀谷辺りが干拓され、六郷領用水が羽田地区まで引かれたこともあり農村とし発達する側面ももっていた。江戸時代後期から明治前期にかけて、多摩川に面した一帯は羽田猟師町と呼ばれる漁業専業の町となり、人家が集中し活況を呈した。
羽田猟師町が出来たのは、江戸時代の正保〜元禄の頃といわれ、漁村部が農村部と分かれる形で猟師町が分村したもので、当初その境界はあいまいだったとされる。近代の羽田猟師町は概ね弁天橋通りの南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から、東の大東地区(海老取川の際)までの範囲。中心に「羽田の渡し」を有し、多摩川水運を利用した材木船、砂利船、年貢米輸送船などが多く、経済力を背景とした商人も多く存在していたという。(「史誌第34号」羽田−近代化への歩みを語る−)
なお「羽田の渡し」は別名「六左衛門の渡し」と称されるが、これは公許の渡しではなく、稲荷新田(右岸)の小島六郎左衛門組が営んでいた私設の渡しだったためである。正確には「六郎左衛門の渡し」或いは「六稲荷の渡し」と呼ぶ。(大田南畝の「調布日記」には「六稲荷のわたし」と書かれている。) 江戸時代にはこうした村持ちの渡しとは別に、川舟がもぐりの駄賃稼ぎとして「白タク」をやる「脇渡船」というのが客を奪い、「六郷の渡し」の管理権を持っていた川崎宿はいつも倒産寸前の経営状態だったとされる。

羽田は多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れたため、江戸時代には江戸城に新鮮な魚貝類を献上する「御菜八ヶ浦」の一つとして幕府から指定を受け、羽田猟師町は江戸湾における漁猟の優先的特権を有して繁栄していた。
「新編武蔵風土記稿」は羽田猟師町の項に、家数は300軒余りで、平田船15艘、茶船38艘があり、皆「御免言字御極印船」(ごめんげんのじごこくいんせん)であるとし、極印船は、昔大阪の役の際軍船を多く出したことによって極印を賜わったと説明している。(「言」の字の極印は、無年貢船のしるしで、その焼印は鑑札である。− 「大田区史」)
寛政(1789〜1800)の頃の「江戸近傍図」中、荏原郡付近の注釈に、「羽田村、漁士町の2ヵ所で300艘余りの漁船・商船・肥取船を持っている」ことが書かれている。(昭和4年の統計では、羽田町の漁船及び艀船(=はしけ)の数1492隻、漁業人口 9,350名などとなっている。)

羽田浦は漁猟とともに、江戸廻米の船運権益を一手に握っていた。即ち、多摩川流域村からの「津出し」(幕府領の城米と旗本知行所などの年貢米を江戸へ回送する)を、他の介入を許さずに独占して請負っていたのである。江戸時代の「津出し」について「大田区史」からその内容を引用し、一部を以下に紹介しておく。(原文のままでない)
流域の村々は城米や年貢米を最寄の船着場まで馬の背で運び出し、そこから羽田浦の船方に江戸への回送を委託したのである。「津」は水運に於ける船着場のことで、近世では「河岸(かし)」といわれたが、船で積出すことは依然として「津出し」と称していた。
多摩川を利用して津出しを行っていた村々は、下流域の六郷領・世田谷領・川崎領・稲毛領の沿川村にとどまらず、左岸では多摩郡中領(府中・是政・石原・布田・国領など)、右岸では都筑郡小机領・多摩郡柚木領にまで及んでいた。津出しの河岸は多くの場合古くからの渡船場が使われた。
茶船というのは瀬取り船とか上荷船などとも呼ばれ、今流でいえば艀(はしけ)のような小型の荷船のことをいう。ただし羽田浦の茶船には500俵積みとされる大茶船も混在していて、筏宿・伊東屋勘兵衛の「太上丸(だいじょうまる)」と称する持船3艘は、全長が13間(24メートル)ある300石(四斗俵なら1千俵積める)の大型船だった。(太上丸は御用木の海上輸送などに使われ、初代広重が屏風絵に描いたことでも知られる。)
平田船は平底の薄くて長い川船のこととされる。(ヒラタの書き方について「多摩川誌」では、舟へんに帯のつくりから成る字を宛てているが、活字が変換しないため手書きにしている。)
多摩川は流れが速いわりに水量が少なく、羽田浦の茶船はせいぜい古市場(ガス橋と多摩川大橋の中間)の河岸までしか上れなかった。そこで川上の村には、船頭が平田船の船首に曳綱を結び、川岸づたいに引張りあげたという。平田船は羽田までの川下げ専用船で、羽田で海上輸送の茶船に積み替えられて江戸に運ばれた。

(以下「御菜八ヵ浦」については「羽田史誌」による)
江戸時代、漁業権に関する幕府の扱いは、磯附村は農業を主とする磯附の百姓村の農間稼、本猟場は浦とも称せられ、漁猟を目的とする純漁村として区別するものだった。磯猟場は村界に従う境界により漁場が仕切られるとしたが、沖猟場は全く自由に操業できる入会とされていた。
本猟場は、江戸湾のうち、武蔵、相模、上総、下総、安房の五カ国、東西84ヵ浦に及び、古来から漁猟を扱う者だけを地域的に限定した村落に住まわせ、たとえ沿海磯附村の者であっても、後から猟師に加わることや、他国の猟師が、磯辺磯附村にきて、漁猟行為を行うことは禁じられていた。
家康の江戸入府以来、江戸の急速な発展と人口増加により、魚貝類の需要は増してゆくが、腐敗しやすい魚貝類を鮮度を保ちつつ供給するためには、至近距離の産地から短時間に搬入する以外に方法はなく、幕府は課税を減免する(言の字船)など、江戸期を通して猟民の保護的政策を継続する一方、関西などから先進的技術を持った猟師を江戸内湾の浦々に移住させ、幕府の魚貝調達の任に当たらせている。
このような条件のもとに成立したのが、いわゆる「御菜八ヵ浦」で、幕府への鮮魚類調達という特権をもって、内湾一帯の海面で独占的な漁業を行い、また漁業以外の海面支配、海運などにも大きな力を持つに至った。
最も古い歴史を有するのは、本芝、芝金杉の両浦で、その後品川浦が加えられ、この三ヵ浦を浦元と唱えた。次に、大井御林、羽田、生麦、神奈川、新宿の5ヵ浦が追加され、当時江戸湾沿岸には44ヵ浦あったが、この由緒で、八ヵ浦を元浦と称し、内海における漁業上の元締になったという。
一説によれば、本芝、芝金杉の両浦については、1600年代の後半には早幕府の御菜御用を務め、鮮魚を上納する代わりに、猟船に御極印を下附されたり(言の字船)、猟師に無年貢の印として除の字の鑑札を渡されたりしていたという。しかし浦方に対する御用が追々多端となり、浦方が困窮してきたため、両浦では享保19年(1734)、臨時の御菜魚上納については免除いただきたい旨願い出たところ、外の浦々の者は、助け合って御用を勤めたいと申し出、翌年八ヵ浦が御菜浦の組合として御用肴を献上することを申合せた。御菜八ヵ浦が内湾の特権的御用漁村として成立したのはこの時からとされるが、言字船が定められた頃には芝、金杉の両浦だけではなく、羽田浦、品川浦など近在の浦方も、既に幕府御用の正魚を納入していたと考える方が自然であるとの解釈もある。



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