<参考12> 流域の地形と海岸線の変化
下の図面は「新多摩川誌」に付図1として収載されている多摩川流域の段丘区分図で、ここではスペースの便宜上、最下流部を部分的に切り取った形で掲載した。
白抜きの部分は、多摩川の氾濫原(谷底平野及び三角州平野)を示している。
左岸側の段丘は、谷底平野に接する(横破線を施した)部分が「立川面」、その背後の(縦実線と縦破線を交互に施した)部分が「武蔵野面」である。
「六郷用水」の導水部となる「次太夫堀」は、狛江で取水したあと、東向きに立川面を横切って開削され、武蔵野面の裾(国分寺崖線)を伝うような経路を採って、田園調布(亀甲山)から鵜ノ木の南北引分に至る。
以下の多摩川の地形に関しては右記「国土交通省河川局」ホームページからの引用。[多摩川水系流域及び河川の概要]
流域の地形は、細長い羽状形を呈し上流域の関東山地と中流域の丘陵地及び台地、下流域の低地とに区分され、山地部7割、平地部3割で構成されている。
上流域の山地は青梅〜八王子以西に分布し、多摩川の流域面積の約2/3を占めている。山地の地形は唐松尾山(標高2109m)を最高峰とし、北東の雲取山(標高2017m)から南の大菩薩嶺(標高2056m)までの高度2,000m前後の稜線が多摩川の最上流部を馬蹄形状にとり囲んでいる。
山地の東縁には丘陵地が舌状に突出し、北から狭山丘陵・草花丘陵・加住丘陵・多摩丘陵などがその大きなものである。これらの丘陵地は300m 前後以下の高度を示し、中・小の河川によって侵食が進んでいるが、丘陵地の陵線は平坦に近く、全体として西から東に向かって高度を下げている。この丘陵地は全体的には三浦半島まで連続しており、多摩川中流以下の右岸側の大部分を占めている。
丘陵地の下位には洪積台地が分布し、多摩川左岸の武蔵野台地,右岸の秋留台地、浅川下流左岸の日野台地、川崎市内の下末吉台地などが該当する。武蔵野台地は形成された時期によって、何段かに分かれているが、多摩川流域では武蔵野U面(三鷹市・小金井市が位置)及びその下位面である立川面(立川市・府中市・調布市が位置)が大部分を占めており、その境界部に野川が流れている。この洪積台地は古多摩川が形成した扇状地面であり、その形成時期は概ね10万年〜2万年前位と考えられている。
沖積段丘の下位には多摩川や支流の河床に沿って沖積低地が分布する。沖積低地は左岸側を武蔵野台地、右岸側を多摩丘陵のそれぞれの崖線で画された幅1〜3qと非常に狭長な低地である。
沖積低地をさらに細かく見ると、二子玉川−溝口(18km)付近より上流は扇状地性平野、二子玉川−溝口付近以東から六郷−川崎付近(5km)にかけての地域は自然堤防帯平野、さらにそれより下流域は氾濫平野(三角州・デルタ)に分けられる。
扇状地性平野は溝口より上流側へ行くほど狭く、網状の旧河道跡が見られる。平均勾配は1/500程度で、多摩川の旧河道跡の間には平野を乱流していた時期に作られた砂礫堆の微高地(自然堤防)が島状に分布する。
自然堤防帯平野では自然堤防と後背湿地の組み合わせとなる。堤内地側には円環状をした明瞭な蛇行跡が数多く確認できる。平均勾配は1/1,000 程度である。
多摩川最下流域に発達するデルタ平野(三角州)は海抜高度5m以下で、顕著な起伏は見られない。このデルタの区間は多摩川が他河川よりかなり急勾配であるために、自然堤防帯的性格も強く残しており、かつ、面積も非常に発達が悪いものとなっている。
以下は「大田の自然」(大田区教育委員会編集発行)からの内容紹介。
武蔵野地方は、青梅・五日市方面を要とし、入間川と多摩川に仕切られた扇状の地形で、東に進むにつれ高度を下げ、がけとなって低地に接している。
山地と低地の間の部分は、多摩川右岸の多摩丘陵(及び加住・草加丘陵や左岸の狭山丘陵)が最も古く、次いでその東側の下末吉台地(及び左岸の荏原台、淀橋台など)で、台地の中央部を占める武蔵野段丘(場所に応じて、久が原台・目黒台・豊島台・本郷台などと呼ぶ)は最も新しい部分である。
(高度は荏原台の池上本門寺で22m、久が原台は15m程度)
大田区の台地部分を詳しくみると、田園調布台及び呑川北側になる「荏原台」が下末吉台地と同時期の古いもので、呑川南側の「久が原台」は北側の広域な武蔵野段丘の一部で「荏原台」よりは新しい。多摩川中流左岸の立川段丘は武蔵野台の内では最も新しいが、久が原台の一部で「中台」と呼ばれる部分(鵜ノ木に寄った方)が、立川面と同じ程度に新しい段丘とみなされ、大田区部分の台地は厳密には3段になる。
(上の「武蔵野の地形区分」図は、「大田の自然」に掲載されているものを基に書き直したものである。ブルーの範囲は低地:沖積平野を示す。原図は段丘面が谷に刻まれる前の復元図に等高線を書入れたものだが、煩雑になるため等高線は割愛し地形面区分のみを表示した。「多摩川誌」にはほぼ似た図面に更に「等変位線」を描いたものが載っている。)
台地の深い部分は「三浦層」と呼ばれ、砂及び凝灰質の泥岩層である。その上に「東京層」と呼ばれる主として砂礫からなる地層がある。洪積世は大氷河時代として知られるが、それは氷期と温暖な間氷期の繰り返しであり、東京層は氷河が解けた海進の時期に堆積された海成層である。
荏原台(田園調布台、淀橋台など下末吉台に準ずる時代の台地)では、東京層の上は「渋谷粘土層」と呼ばれる粘土層がある。海岸の湿地に火山灰が降って(下末吉ローム)粘土化したもので、腐植物を多く含むことから、東京層生成以後の海退期に海岸平野が作られたものと想像される。
久が原台など武蔵野段丘では、東京層の上に渋谷粘土層は無く、「武蔵野礫層」に置き換えられている。この砂礫層は河床礫層であり、その上を覆う粘土:河川の氾濫原堆積物(Flood loam)と一続きの地層になっている。武蔵野段丘は洪積世後期に、古多摩川によって形成されたものと考えられる。
(「多摩川誌」には古多摩川について、台地北西部の「不老川」(としとらず)、「柳瀬川」、「黒目川」等はその状況を見ると、昔、関東山地を出た多摩川が延長川となって台地上をこの方面に流れていたが、延長川が流路を変更した跡の広い谷底に、もとの流路を引継いで現在の川が出来たもので、神田川、目黒川、野川もこのようにして出来た多摩川系統の古延長川の名残と考える説もあると記載されている。上図参照)
いずれの台地も最上層部はローム層になっているが、これは古富士火山(武蔵野ローム)やその後の箱根火山(立川ローム)の火山灰が堆積したものである。(ただし久が原台は荏原台ほどローム層は厚くない。)
火山活動は洪積世の終わりに終息し、沖積世以後次第に生物活動が進む環境となっていく。ローム層は鉄分が酸化して赤土となるが、腐植が濃くなった表層は黒土に変っている。赤土から石器は見付かるが化石は溶かされ残り難い。土器は生物活動が盛んになった黒土からしか出土しない。縄文時代は土器の時代だが、立川ローム層から黒曜石などの石器が発見されており、日本にも無土器の時代に人間が住んでいたことが実証されている。
蒲田や川崎などの低地は沖積世(氷河期の後今から1万年前以降)になってから陸化した三角洲平野である。洪積世は氷期と間氷期の繰り返しだったが、氷期の方が圧倒的に長く、この低地部分も陸化していた時期は長くあり、そういう時代に堆積した砂礫や火山灰は、海進の時代になって水没し、東京層の上に埋没ロームや埋没段丘礫として残っている。
氷河時代(洪積世)末期(ヴェルム氷期)には、海面は今より80メートル程度低く、海は浦賀水道の辺りまで退き東京湾は陸化して、古東京川が流れていたことが分かっている。
沖積世になって氷河が溶け、今から6千年前頃をピークとする海進があったが、その後徐々に海退が始まるようになった。この時期、荏原・久が原の台地は海食崖となり、その下に海が広がっていた(奥東京湾という)が、やがて多摩川河口の扇状地に土砂の堆積が始まり、次第に三角洲デルタが陸化し、ほぼ2千年前には現在のような低地が形成された。
沖積世になって低地を形成した堆積層は「有楽町層」と呼ばれる。有楽町層は一般に上部が貝化石を多く含むシルトないし細砂の層で、下部は軟弱粘土層から成っているが、その基底面が複雑な地形であることから状態は一様ではなく、下部層を欠いているような地域も知られている。
(左の図は本稿とは関係なく、参考図として「新多摩川誌」から転写した)
後氷期以降の海岸線について、「史誌39号」「多摩川低地の生い立ち」(松島義章著)からその概要を紹介する。
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今から約1万年〜9千年前(縄文時代草創期)、最後の氷期が終り、以後温暖な気候に変わり後氷期に移っていく初めの時期。
この頃の海面は現在より40メートル前後低かった。多摩川(最終氷期の時期に形成された古多摩川)の河道は現在の流路より西側(武蔵小杉の西)を流れ、古鶴見川を合流した横浜市鶴見区矢向の辺りでは、川幅が1キロメートルに広がって南東向きに流れていた。川崎中心は東側ぎりぎりで川に含まれる位置にあり、川は川崎と鶴見の中間(池田町辺り)で東に向きを変え、川崎港方面で東京湾を南下する古東京川に注いでいた。
古多摩川の左岸側は広く陸化しており、そこには立川段丘面が広がり、その中央部を古呑川が直線的に南へ流れ、川崎市川崎区藤崎(川崎大師の南西約1キロメートル)付近で古多摩川に合流していた。
古呑川の合流点付近から河口にかけては、ヤマトシジミやカワザンショウガイの生息する汽水域となっていた。現多摩川河口から沖合いにかけては、大規模なカキ礁の分布が知られ、遠浅な干潟が発達していたことを物語る。
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9千年前から氷河の融解による急激な海面上昇(100年に2メートルの割合)が起こり、7,500年前〜7,000年前の縄文時代早期中頃までに、海面は約30メートル上昇して、現在より10メートル低いところまで達した。
古多摩川沿いは元住吉付近まで海が浸入していたが、左岸は久が原台の前面が川崎市小向付近にかけて半島のように突き出していた。その東側は古呑川沿いに蒲田辺りまで入海が形成されたが、その東側は大森から糀谷にかけて陸地が広がっていた。
鶴見川沿いの低地は海水が奥深く入り込み、横浜市港北区小机の付近まで達していた。
この時期の内湾は海面上昇が急であったため、上流からの土砂による埋立が遅れ、各地点とも泥深い環境に変化している。マガキで特徴づけられる干潟群集にかわって、ウラカガミガイ、イヨスダレガイよりなる内湾泥底群集や、ケシトリガイ、ヒメカノコアサリ、シズクガイ、チヨノハナガイを主体にした内湾停滞域群集の分布する内湾に変化している。
古多摩川や鶴見川沿いに形成された溺れ谷は、現在の東京湾の湾央の水深10〜20メートル前後の泥底環境とよく似た環境になっていた。
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6,500年前〜5,500年前の縄文時代早期末から前期にかけては、後氷期に入って以後の海進が最高に進んだ
時期で、6,500年前に海面は現在の高さを越し、6,000〜5,500年前には現在より4メートル前後高い位置にまで達した。(7,500〜6,000年前の海面上昇スピードは100年に1メートルの割合で、その前に比べ勢いが半減している。)
当時の海岸線は、多摩川沿いでは川崎市中原区等々力緑地と千年(ちとせ)を結んだ線付近にあり、左岸は鵜ノ木から下丸子辺りが陸の最前線となり、呑川沿いは武蔵野台地の仲池上付近まで海が入った。鶴見川低地は横浜市都筑区川向町から佐江戸町、早淵川沿いでは大棚町まで海が入り、複雑な海岸線が拡がっていた。(海岸線は概ね等高線10mラインの位置にあった。)
この時期泥質底の湾央部では内湾停滞域群集と内湾泥底群集が広く分布し、水深の大きな内湾が多摩川低地から鶴見川低地の横浜市港北区綱島付近まで広がっていたことが示される。
湾奥部の泥深い潮間帯にはマガキ、ハイガイ、ウネナシトマヤガイ、イボウミニナで特徴づけられる干潟群集が分布し、特に鶴見川低地の湾奥部(大熊町から菊名付近)で著しい。呑川の入江も規模は小さいながら干潟群集が生息し、鶴見川入江の支谷早淵川によく似た遠浅な干潟環境になっていた。
武蔵野台地沿いの下丸子から大森に連なる海成砂層の分布域では、砂底群集が生息できる環境になっていた。蒲田本町付近は水深の大きな泥底だった。
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約5,000年前頃から海退が始まり、4,500年前の縄文時代中期には海面が1〜2メートル低下し(縄文中期の小海退)、干潟から離水が生じ内湾は急激に減少した。海退は鶴見川沿いに顕著で、海岸は小机を通り越し鶴見区鳥山町付近まで退いた。
多摩川沿いでは、上流から押出される土砂で湾奥部から埋め立てが始まり、東横線付近まで海岸線が後退した。東京湾に面した武蔵野台地の前面(大森・池上・下丸子)と下末吉台地沿いでは、沿岸流の発達などにより、それまでの泥質底の海岸から砂浜海岸へと変化した。即ち、細かい泥質の堆積物から粗粒の砂質堆積物が堆積することにより、砂浜海岸が発達して上部砂層が形成されるようになった。
大森貝塚など湾岸の貝塚構成貝類は、それまでのマガキ、ハイガイ主体の干潟群集から、ハマグリ、アサリ、イボキサゴを中心とする内湾砂底群集になっている。
この時期鶴見川入江の入口付近、および多摩川低地の中央部は、まだ水深10〜20メートルの内湾環境にあったことが、内湾停滞域群集や内湾泥底群集の分布によって知られる。ただ蒲田本町辺りでは、内湾砂底群集構成種が見られるようになり、それまでの内湾停滞域群集の生息する泥底環境から、砂の堆積する環境(浅い砂浜海岸)に変わったことが示される。
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縄文時代後期から1,500年前までの海岸線や内湾環境を示す資料は殆ど得られていない。特に2,500〜2000年前の弥生時代の情報は断片的にしかなく、海岸線を復元するには至っていない。これは多摩川低地と周辺台地の都市化が早い時期より行われ、地表の人工改変が進んでいて、確実な時代を示す資料が断片的にしか得られなかったためである。(今後は地質古生物学資料と考古学資料の収集に努めるしかない。)
古墳時代に入ると、多摩川低地の砂堆上に古墳や貝塚などが形成され、人の生活の場が低地にまで拡大した。低地は中央部で川崎市川崎区小向町付近まで海が入っているが、沖積平野は北側が蒲田周辺まで陸化し、西側も(都筑区から港北区一帯の)下末吉台地に開析された溺れ谷が埋まり、沖積平野は鶴見まで陸化が進んでいる。
この時期の内湾はいずれの地点でも砂層が確認され、それまでの泥質層の堆積する場から、すっかり上部砂層の堆積する場に変った。多摩川デルタの発達によって、水深の大きかった内湾が、急速に上流から上部砂層で埋め立てられ陸化していったことを物語る。
当時の浅海は内湾砂底群集の生息に適した環境であり、川崎駅地下街や、藤崎、田島付近でもハマグリ・シオフキ・イボキサゴなどの分布が確認されており、広く遠浅な砂浜海岸となっていたことが分かる。
[参考集・目次]