<参考11>  多摩川下流の直轄改修工事


以下「多摩川誌」による。ただし「多摩川誌」は多くの専門家によって執筆されているため、異なる編章で内容が重複している箇所は少なくない。直轄改修工事の基本計画について幾つか別のところから引用しておく。

大正7年(1918)7月20日、内務省告示第70号により、多摩川本川左岸東京府北多摩郡砧村大字宇奈根,右岸神奈川県橘樹郡高津町大字久地以下、海に至る下流部22kmについて、直轄改修区間の認定が行われ、ここに初めて統一的な多摩川改修工事が開始されることになった。改修計画は、水害の最も甚しい下流部22km区間についての洪水防御を主目的とし、多摩川の河状を根本的かつ統一的に改修することが目指された。
改修方法としては、既存の不規則な旧堤を改廃または整理し、脆弱な部分については拡築を行い、更に必要な部分については新たに堤防を設置することとした。更に河状を整理して高水敷を造成するとともに、障害物の除去を行い、流下断面の不足する個所には掘削または浚渫(しゅんせつ)を行い、洪水の疏通を図り、加えて下流部の舟運が盛んである区間については、適切な水路を定め、河口の派川のうち舟運に必要な左右各1本を残し、その他はすべて締め切り、流末の低水路を平均干潮面以下12尺(約3.6m)に浚渫して、洪水の疏通、悪水の排除、航路の維持を図るものとした。(予算総額588万円)

大正7年度から着工した下流改修工事は、総工費588万円で8カ年継続事業で開始され、数度の変更をみて、昭和8年度に総工費721万11円をもって竣工した。その改修区間は、左岸東京府北多摩郡砧村、右岸神奈川県橘樹郡高津村より海岸に至る22kmである。改修の基本方針は、計画流量4,170m^3/sec で、従来の無堤、霞堤など広狭一様でない河状を河幅383〜545mに整正し、連続堤防を設置した。堤防は、余裕1.5m、天端幅5.5m、両法2割、川裏に幅3mの小段を有するものとして新設あるいは拡築補強し、掘削浚渫が付随した。大正7年度より実地調査および用地買収をすすめ、大正9年度より掘削および築堤工事に着手した。

多摩川改修工事は、大正7年度より同14年度までの8ヶ年継続事業として起工された。しかし途中、第一次大戦の影響による急激な物価騰貴や、大正12年9月の関東大震災などのため、予算の増減や工期の繰延べなどが行われ、実際には昭和8年度にやっと完成するまで16ヵ年の長きに亘る継続事業だった。
当初の進捗状況は以下のようであった。大正9年度に事務所の名称は多摩川改修事務所と改められ、人力掘削に着手し、本格的な工事が開始された。翌10年度には改修事務所内に機械製作場が設置され、機械施工への準備に取りかかり、11年度より機械掘削が開始された。一方、掘削士砂(後には浚渫土砂も含む)を利用して、大正10年度より築堤工事にとりかかった。築堤にあたっては、沿川住民などの利便を考慮して陸閘を設置したり、堤上を道路に利用するための措置が構じられた。更に大正12年度には護岸工事が着手され、翌13年度に至り、低水路の機械浚渫が開始された。また浚渫に鋤簾式及吸楊式浚渫船が使用されたほか、鋤簾式蒸汽掘削機、機関車、軌条、土運車などの船舶・機械が活用された。付帯工事は本工事の進捗を待って、やや遅れて昭和2年度に至って着手された。総面積 428町8反4畝9歩6合6勺の全部の買収が終了したのは昭和7年度に至ってであった。

計画諸元について大雑把に見ると、計画高水流量は既往最高の明治43年洪水位に相当する流量を算定し、これに幾分の余裕を見た結果、浅川合流点より下流の計画高水流量は毎秒15万立方尺(4,170m^3/s)と決定された。(昭和41年の多摩川整備基本計画では、日野橋で4,700m^3/sec、浅川の合流量を合わせた石原で6,500m^3/sec、その下流は田園調布(下)から河口まで7,000m^3/secに改められている。)

計画高水位及び水面勾配の決定は、既往の最高水位を標準として、全川にわたってこれを超過することなく、河口より上流に向かって次第に急勾配とし、かつ不自然な変化がないように配慮された。なお既存の河状においては、上平間(ガス橋近辺)量水標以下において著しい水位の上昇がみられたので、改修後においてはその下流の河積を増大し、洪水の疏通を良好ならしめることにより、水位の低下を図るものとした。計画高水位は各量水標の数値が載っているが、当時の水位は多摩川基線(旧羽田量水標零)で示されているので理解は難しい。(羽田量水標は以前弁天橋の下手、灯台官舎の手前あたりにあったものが、現大師橋上になる正蔵院前あたりに移されたと推測する。)
計画高水位(H.W,L)はいずれも半端な数値だが、おそらく水平勾配の目標数値が決められ、それに対して各量水標の位置(距離)が掛けられて出た数値だからだろう。川崎(六郷橋)から河口までの勾配は1/2000とされ、実際の明治43年の洪水ではその程度の水面傾斜になっている。(海老取川近辺でも、2キロの距離で1メートル程度の落差があり、洪水が多摩川から海老取川に入り、弁天橋から穴守橋の方向に流下していくのは当然である。) 川崎の上は1/1800、ガス橋から丸子橋にかけては1/1500、その上は1/1000と傾斜が強くなっていく。

川幅については「従来は無堤部が多く、堤防が設置されていても霞堤または不規則なため、河幅が一定していなかったが、本計画においては表に示した標準により整正するものとした」等とあり、該表によれば、堤防中心間距離として、河口:350間(630m)、羽田量水標:310間(558m)、 川崎量水標:285間(513m)、古川量水標:270間(486m)、上平間量水標:250間(450m)、調布量水標:230間(420m)などと記載されている。
堤防の標準断面は左右岸とも馬踏3間(5.5m)、両法勾配2割とし天端高を計画高水位上5尺(1.5m)とした。ただし天端高15尺(4.5m)以上の場合は両側に幅2間(3.6m)の小段を設ける。
低水路は上流から漸次拡大して、河口部で最大水深12尺(3.6m)、底幅80間(144m)とし、海中の澪筋においては、水深12尺、幅60間(108m)を確保するとした。
(羽田は大師橋、川崎は六郷橋の上、古川は多摩川大橋下手で河道が右に湾曲する辺り、上平間はガス橋、調布は丸子橋の辺り。なお昭和41年の多摩川水系工事実施基本計画では、河口から13.2kmの調布で、川幅400m、計画高水位TP9.08m、堤防の勾配1:2などとなっている。)

多摩川下流部の改修工事が竣工した昭和8年度より、総工費110万円をもって、同17年度に至る、10ヵ年継続事業として、多摩川維持工事が起工された。本工事は改修された河川の現状を維持し、所期の効果を保持するためのものであり、一定不変の計画に基づいて施工するものではなく、堤防修補、護岸水制、高水敷地均、芝植栽、低水路浚渫などの諸工事が逐次施工された。なお、昭和12年度に至り、政府財政の都合により工期を1ヵ年延長し、昭和18年度までの11ヵ年継続事業とされた。更に昭和17年度には、工費321,000円を増額するとともに、工期を2ヵ年延長して、総工費1,421,000円をもって、昭和20年度に至る13ヵ年継続事業に変更された。

 

   [参考集・目次]