<参考1>  地名「六郷」の由来


7〜8世紀、律令制の下では地方行政の単位は当初「国郡里制」(国・郡・里の3段階の編成)が採られたが、その後郡の下は「郷里制」(幾つかの「里」をまとめ、50戸をもって郷とする)を組入れるようになった。
「武蔵国」(概ね、東京都・埼玉県・川崎横浜市に該当)の名は、「日本書紀」の689年に初めて見られ、奈良時代末期の「万葉集」には「牟射志」という表記もあるそうである。荏原郡という呼び名も万葉集に見るほど古いもので、平安時代(10世紀)の律令の施行細則を定めた『延喜式』や、当時編纂された辞書「和名抄」=『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)によれば、武蔵国は、国府(小野郷、現府中市)のあった「多磨郡」の他、橘樹(たちばな)郡、荏原郡、豊島郡、足立郡など21の郡から成り、荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志(かがし)・御田(みた)・木田・桜田・駅家(うまや)の9郷があったとされる。但し、各郷の現在地への比定は、郷によっては諸説あり、すべてが明確になっているとは言えない。
奈良時代には、中央集権制国家の確立に従い、30里(=16km)毎に1駅が設置され、駅には街道の規模に応じた疋数の馬が常備されるようになった。(注:江戸時代の1里は36町で3.93kmになるが、奈良時代当時の1里は約550mだったとされる。) 当時荏原郡に於ける東海道の駅は、現品川区大井の近辺にあったと考えられているので、駅家郷は後の大井郷にあたるとするのが通説である。
「史誌第36号」よれば、鎌倉時代、荏原郡9郷のうちの4郷は、東京湾沿いに北から、桜田郷・三田郷・大井郷・蒲田郷とされ(神田川〜多摩川の間になる)、山側の範囲(西側の5郡)の詳細位置は不明ながら、多磨郡に古万江郷があることから、多磨郡が狛江(こまえ)市の辺りまで伸びていたとすれば、荏原郡は概ね世田谷・大田・目黒・品川・港区と千代田区の一部に該当する。

平安時代、地方の豪族が所有し、或いは貴族や寺社に寄進した私有地は「荘園」と呼ばれ、これに対し国府(国司)の支配下にある領地は「国衙領」(こくがりょう)と呼ばれた。国衙(こくが)領には、荘・郷・保(ほう)・別名(べつみょう)などの行政単位があった。
大田区史編纂室が編集する「史誌」第36号に、「江戸湾岸の中世史」−荏原地域を中心に−という特集が載っている。この座談会で、鎌倉時代、荏原郡に武蔵国の国衙領としての「六郷保」があり、大井郷の領主・大井実春が六郷保の保司(ほうし)に任じられていた。この六郷保は、永富・大森・蒲田・堤方・原・八幡塚の6つの郷によって構成されていた。中心となる本郷は八幡塚だった、等のことが語られている。
家康が江戸に入った頃、日比谷の埋立地に城下町を築いたと言われるが、上記の特集記事には、より古い「平安海進」の時代には、東京湾から呑川に沿う低地帯に海が浸入し、「蒲田浦」やその奥に「堤浦」が出来ていて、当時海は今の池上の辺りまで入り込んでいたとする論文が紹介されている。六郷保の村々はこの二つの入り海の周りに存在し、これらの諸浦から江戸湾に出て漁を行っていたのではないか、というようなことも書かれている。
(上記のうち現在町名として存在しない郷名の位置は、概略で、「永富郷」は大森東、「堤方郷」は池上、「原郷」は多摩川、「八幡塚郷」は東六郷、の各町近辺にそれぞれ該当する。)

(当地の文化財として伝説上最も古いものは、現在左岸川裏(西六郷2丁目)にある「安養寺」である。寺伝によれば開祖は法相宗の僧行基で和銅3年(710)東光坊と号して開山された。和銅3年は平城京遷都の年にあたる。行基は各地を巡って民間布教に努め、畿内だけでも49院を作り造橋築堤などの社会事業を行うなどしたため行基菩薩と呼ばれた。「行基図」と称される日本地図は九州から奥羽地方までが網羅されている。行基は藤原不比等の時代には弾圧されたが、聖武天皇によって大僧正に任ぜられ、大仏建立に際して全国を勧進行脚した。各地に非常に多くの伝説が残されている。当山は光明皇后の皇子誕生の折、乳出の霊験があり、天平年間に聖武天皇によって医王山世尊院安養寺の3号を下賜され、七堂伽藍が建立されたと伝えられる。藤原仏三尊が伝存する。霊木は銀杏。旧古川村にあり古川薬師とも呼ばれる。)


六郷保の領主は大井氏の後、陸奥五郎(八幡太郎義家の子義時?)などを経るが、鎌倉時代には荏原郡全体が桓武平氏秩父氏の流れをくむ江戸氏の勢力範囲に入った。勢力を築いたのは重長で、以後代々江戸氏の支配が続いたが、6代江戸遠江守が鎌倉公方足利基氏の執事畠山国清による新田義興(義貞の子)謀殺計画の実行犯となったことから、以後人望も勢力も失って喜多見に退いた。
上杉氏は藤原の一族の出で院に仕えていたが、足利氏との血縁関係から尊氏と行動を共にするようになった。上杉が関東に拠点を築いたのは、後に将軍となった義詮を執事として補佐した憲顕である。憲顕は直義方に属し、観応元年(1350)基氏を擁して高師冬を破るが、一転南朝方と結んで追討され10年野に下る。その後足利基氏に求められ、貞治元年(1362)関東管領に復帰した。
将軍義満の信頼が厚かった上杉憲定が関東管領職に就いたのは応永12年(1405)のことである。上杉氏は上野(群馬県)と越後(新潟県)を基盤とした「山内上杉氏」と、その他を支配した「扇谷(おおぎがやつ)上杉氏」の二つに分裂し、以後両上杉は長く争うことになった。(扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が江戸城を築城したのは、長禄元年(1457)で、主・定正に謀殺されたのは1486年。この当時は扇谷上杉氏の方が凌いでいた。)
上杉氏は戦乱期の抗争で次第に衰亡していくが、天文14年(1545)憲政は扇谷上杉の朝定に頼られて河越の戦いに加わることになり、ここで北条氏康に敗れて上野国に逃れ、7年後平井城も氏康に攻められることとなって、天文21年(1552)長尾景虎を頼って越後に落ちていった。永禄4年(1561)憲政は景虎に上杉氏の系図と関東管領職を譲ることになる。
それに先立つ天文年間(1532〜55)の頃、上杉憲幸が憲政公代として蒲田に館を構え「六郷殿」と呼ばれていた時期がある。執権荒金兄弟が大師河原村に城を固めて北条勢を迎え撃ったが、憲政の命によって北条と和し城を明渡して上総の国姉ヶ崎(松原氏)に預けられた。その後憲幸は北条の許しを得て武蔵の国に戻り、以後荒金兄弟は松原を称するようになった。北条・上杉と房州の里見義堯(よしたか)が鎌倉の海辺で一戦を交え憲幸は戦死したが、北条の許しを得て松原氏が憲幸の子氏幸を立て再興したとされる。(「川崎誌考」より)

小田原の北条氏(早雲)はもと今川に身を寄せていたが、伊豆を平定してからは、韮山城を居城として相模進出を狙い、明応4年(1495)に小田原城を攻略して東進の拠点とした。その後三浦氏を滅ぼして相模一国を平定した。二代目北条氏綱は、山内・扇谷両上杉氏の対立に付け込み、武蔵攻略に照準を合わせていたが、太田資高の内応を機に大軍を進め、大永4年(1524)上杉朝興を高輪原に破って江戸城を奪取した。朝興は河越城に逃れ再起を図るが、享禄3年(1530年)武蔵府中の小沢原で北条氏康に敗れ、遂に江戸を奪回できなかった。天文6年(1537)父の死により朝定が家督相続したが、北条氏綱によって本拠地川越を追われ、川越城奪還を図る中の15年(1546)河越城の救援に向った北条氏康軍に敗れ、扇谷上杉氏はここに滅亡した。
北条氏の関東支配は、天正18年(1590)家康によって小田原が落城させられるまで続くが、北条氏康の頃の「小田原衆所領役帳」(1559)によれば、当時は、北条氏の客分待遇だった、行方与次郎(弾正)が蒲田、六郷、羽田から大師河原一帯を領していたとされる。
 (「大田区の歴史」(新倉善之著)は行方(なめかた)氏について以下のように記している。)
行方氏と六郷領一帯との関係はきわめて深い。六郷神社には享禄4年(1531)の行方半右衛門記銘と、天文18年(1549)の行方弾正記銘の棟札があった。数代にわたって六郷地区の代官的存在となり、後北条氏が没落するまでこの地区の支配層であったことは明らかである。蒲田の円頓寺が、その館跡に建てられた寺院であると伝わり、羽田の「潮田文書」には、後北条氏から行方与次郎にあてた羽田浦水軍関係の書状など数点が伝存する。また、羽田の本住寺は行方氏の創建になるものという。しかも後北条氏家臣団のうち、当地区に役高をもつ諸氏に比べて、圧倒的に多い361貫余をもっていることも注目されよう。
特筆すべきは、行方氏が羽田浦水軍の実質的な支配者であったことである。江戸湾一帯の水軍の支配は玉縄城主の管轄下におかれ、房州の里見氏と対抗したようであるが、行方氏も玉縄衆に属しており、すでに名のある武将であったが、その関係で江戸湾中でも、特に要港である多摩川河口部の両岸、つまり六郷と大師河原に所領が与えられ配属されたのかもしれない。この地区には行方氏の事跡に関する伝承も数多く残されており、その権力の大きかったことが想像される。

北条家が滅亡した後、家康が関東を治めるようになって、直後は長谷川七左衛門が代官となるが、その後伊奈半十郎忠治が代官職に就き、以後代々伊奈家が代官職を継承するようになる。江戸中期に右近将監忠尊が失脚して、大貫次右衛門光豊の支配に換わる。


明治期以前の郷土史については、とりあえず「新編武蔵風土記稿」を参照するのが常道である。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代後期に幕府が20年の歳月を掛けて編集した武蔵一国の地誌である。文化7年(1810)大学頭・林衡(たいら:後の述斎:松平家の出で林家の養子になった。蛮社の獄など天保時代の悪役として知られる鳥居耀蔵はその次男)によって建議され、文政9年まで昌平黌(しょうへいこう:老中松平定信によって格上される前は林家の私塾で昌平坂学問所という)に開設された「地誌調所」に於いて編纂が行われた。文政11年(1828年)に完成し、天保元年(1830)幕府に上程されている。
明治17年(1884)内務省地理局が原文を和とじの活字本に直し全80册で刊行した。現在あちこちに資料として収録されているものはこれに基ずくと思われる。

「新編武蔵風土記稿」によれば、江戸時代には荏原郡の村々は、六郷(34村)・馬込(13村)・世田谷(30村)・品川(13村)・麻布(5村)の5領に分かれ、合計で95ヶ村があった。近世の荏原郡・六郷領は、馬込領の南側「久ヶ原村」の南半分から、多摩川で仕切られる「八幡塚村」に至るまでの一帯に当たる。
(多摩川に面しているのは世田谷領・六郷領で、対岸の川崎側は橘樹(たちばな)郡の稲毛領・川崎領になる。) 荏原郡の大半は旗本の知行地として、細分化され分け与えられていた。「大田区史」によれば、「領」の概念は、個別領主の支配地を区分した意味ではなく、江戸城や将軍家が農村と直接関わる場合の行政単位としての機能を持ち、御触廻状の伝達、鷹野(鷹狩の用地)役所への諸届・取次ぎ、江戸城への上納物の負担、用水の維持管理の負担などの場合に、その単位として使われていたとされる。

「新編武蔵風土記稿」の内容から各村の概要をまとめた表が「大田区史」に載っているが、それによると 六郷領内の家屋総数は3700軒余で、最大は馬込村の307軒、最小は浜竹村の17軒となっている。地域的には大森地区に最も多く家屋の集中があり(東大森村300軒余・西大森村200軒余・北大森村180軒余)、平地、水田が多く、海浜で「漁猟・海苔」とされ、次いで羽田地区(羽田猟師町300軒余・羽田村270軒など)になっている。現六郷地区では、八幡塚村が152軒で筆頭、「水陸の田相半ば」とされ、その他の村はいずれも数十軒の規模であった。

「新編武蔵風土記稿」は「六郷領」という名前の由来について、「巻之39」(荏原郡之一:総説)では、足利時代の文書に「武蔵国六郷保内大森云々」或いは「六郷保内原郷」などの記述が見られ、「小田原役帳」(徳川以前当地を支配していた後北条氏の所領役帳、「新編武蔵風土記稿」では「小田原北条家分限帳」としている部分もある)に六郷内大森、或いは六郷鎌田(現在の蒲田は歴史上しばしば鎌田と書かれる)などと記載されていることから、永禄の頃(1560年代、信長が出てきた頃)には郷名に唱えていたものが、今では領名になったものだろうと書いている。
更に「巻之40」(荏原郡之ニ:六郷領)では、「多摩川の岸沿いの、八幡塚、高畑、古川、町屋、道塚、雑色の6村が、昔六郷村という一つの村であった、という言い伝えがある」ことを述べ、また、「延宝の頃(1670年代、4代将軍家綱の末期にあたる)紀行に、六郷の渡しより上つかた、六郷の流落合て東海に朝宗す、故に此名ありと」と紹介しているが、「今はそうした説はその地には伝えられていない」旨も注釈している。(紀行文の具体的な名前は記されていない。なお「朝宗スル」は「大辞林」によると、河水が大海に注ぎいることの意)
今の領域は「東鏡」(「吾妻鏡」とも書く。鎌倉時代(1180〜1266年)の諸事を幕府の家臣が日記風に記したもの)の頃定められたものとは違い、家康が関東に入ってから実務的な必要で分けたもので、領名だけ古い時代の郷庄の名前を付けている例も多いとし、ここでも鎌倉時代の書のことに言及しているが、「小田原役帳」にしても地名が今とは違っていると指摘している。
更に続けて、「多くは多摩川涯の村々、瀬のかはりたるによりて変革ありし地なり」(「涯」は岸の意)と書かれ、多摩川が氾濫により流路を変え、境界が変わる地域であることに注意を喚起している。
要するに、江戸時代の「六郷領」は鎌倉時代に存在した「六郷保」と繋がるものではなく、家康以後に便宜上定められた領域分けの一つだが、領名を定めるに当たって、古の時代から郷庄の名前に関わって当地の辺りで使われてきた「六郷」を充てたのではないか、というような判断が示されている。

明治4年の廃藩置県によって新たな東京府ができるが、新東京府は旧武蔵県が分割された品川県、小菅県、大宮県のうち、品川・小菅両県の全部と浦和県(旧大宮県)の一部、及び神奈川県の一部を合体して成立した。その後、荏原郡は明治11年(1878)東京府に誕生した15区6郡の1つになる。その範囲は現在の品川・大田・目黒・世田谷区にほぼ相当する。

鎌倉時代の「六郷保」は、近代でいえば六郷はもとより、蒲田、大森、不入斗、新井宿、池上、矢口、調布などの村々を含み、また江戸時代の「六郷領」は八幡塚村を中心に34ヶ村がこれに属していた。このように「六郷」は古来広い領域を包括的に指す地方名として使われ、明治時代もその前期までは、「六郷川」や「六郷の渡し」などに六郷の字が見られるものの、限定的な村名などとしては六郷の名は出てこない。
(近世の「六郷川」は、多摩川のうち六郷領に接して流れる部分を呼称したものと考えれば、世田谷領との境にある亀甲山から河口までの範囲が「六郷川」ということになる。)

なお「六郷」の語源については他に、当地の八幡社に「六供斎料」として寄進された郷庄を「六供郷」と呼んでいたが、何時の間にかそれが「六郷」に変ったとする斎料地説がある。(同じ事が、秋田県仙北郡六郷町の地名の由来の一説にもとり上げられている。)
また一部には、室町時代から既に、六郷保のうちの八幡塚周辺を単に六郷と称していたのではないかとする説もあるが、有力な証拠はなく通説になっているとは言えない。「六郷の渡し」の隣にあたる「矢口の渡し」や「羽田の渡し」では、村名によって渡しを呼称している。ただ「六郷の渡し」が「八幡塚の渡し」や「川崎の渡し」でなく「六郷の渡し」と呼ばれたことが即、「六郷」が「八幡塚」の別称として使われていたことの例証だということにはならない。周辺の「渡し」は、地域的な往来に供されるローカルな存在であったが、東海道は京都と関東を結ぶ幹線であり、「六郷の渡し」は全国的な規模の旅行者に供されたものである。「六郷の渡し」は、六郷という村にある渡しという意味ではなく、それが西方から「六郷領」に出入りするメインゲートの位置にあったことで、自然にそう呼ばれるようになったと考えるべきではないか。



   [参考集・目次]