第七部 「河口」 周辺 

(大師橋周辺の地図を表示)

   その4 大師橋から多摩運河までの右岸


(左右の写真には拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

 
このページでは、右岸の大師橋から「河口」(多摩運河)までの道中を取上げる。この間の距離は2.4キロメートルほどである。
大師橋は長く架け替え工事が行われていたが、後工事されていた上り線が2006年11月11日に完成、6車線道路として全面開通するに至った。(大師橋については「その1 大師橋と左岸の防潮堤地区」に詳しく載せている。)
東京側では首都高速1号羽田線は産業道路の遥か海側を通ってくるが、川崎市に入る時両線は一体化し2段構造で並走するようになる。即ち多摩川の左岸では、大師橋と首都高速の橋台は200Mほど離れているが、右岸の橋台部で大師橋が首都高速の下に潜り込むようになって二つの道路が重なる。
近年架け替えによって同じ6車線道路に造られた六郷橋は、両岸で堤防を跨ぐ形になっているが、大師橋は右岸側では首都高速の下に入るため、右岸に向かって下り勾配をとり堤防ではすれすれの高さになる。丸子橋と同じように橋上の歩道が堤防上にそのまま繋がるのは自転車にとっては快適だ。

大師橋の川下側右岸堤防の川裏側帯には、桜が植えられ立派な並木に育っている。桜は大師橋から少し下った位置で始まり、川裏がいすゞ工場に変る少し手前まで700〜800メートル続く。(私見を言えば)六郷川の範囲でここの桜の見事さは、左岸ガス橋上手のものに次ぎ、(雑色ポンプ場工事で一部破壊されて精彩を欠く)左岸六郷橋下手のものを凌ぐ。
以下の桜の写真は2004年の撮影である。(ただし初めの全景写真と、末尾に1枚だけ記憶上の関係で2003年の写真を残した。)
[No.749a] は大師橋上の欄干から、殿町河川敷に続く枯れた葦原越しに、堤防沿いの桜並木を遠望したところ。中央左は対岸のJAL整備場、航空局レーダー、モノレール軌道などが見えている。その右、背後にJASの格納庫がある前で右岸の堤防が終わっているように見えるが、実際にはそこで川道は30度弱右に曲がり、河口方面に向う堤防はいすゞ自動車の陰に入って見えなくなっている。
(見出しの小画像の方は大師橋の南詰で、橋から堤防に降りた直後に川下側を向いて撮っている。これも [No.749a] と同じ2003年の撮影である。)
ここ殿町堤防の桜の存在を知ったのは最近で、由来のことは何一つ知らなかったが、「川崎大師観光ガイドの会」(若宮八幡宮参集殿2階:会長池上茂一氏)のHPに、ロータリークラブやライオンズクラブによって植樹されてきたと記されている。(ここの桜は常に太陽を背負っている位置だけに、写真を撮るとなるとなかなか難しい。)

六郷川は六郷水門の近辺からこの桜並木の辺りまで、約3キロメートルの間ほぼ真西から真東に向って流れる。従って右岸は川の真南にあたり、ここでは桜に向き合うと、もろに逆光という位置関係になる。
私の外にも何人か堤防から側帯に降りて桜を見上げている。桜は陰になって色が出にくいが、こうして裏から見れば北向きだから青空はグッと映える。桜の木陰が地面に落ちて、逆に他所ではなかなか撮れないような写真が撮れたりもする。

大師橋から700メートルほど川下の堤防上に、JR貨物専用線の「河底横過トンネル」の存在を示すコンクリート製の擬橋のような所がある。 左下の見出しにした小画像は、大師橋とトンネルのほぼ中間にある「法栄寺」の前(一画に水神社もある)。明治の海面開放により羽田と同様に大師の海も(京浜運河が掘られるまでは)優秀な海苔漁場として栄えていた。池上茂一氏のHPによれば、法栄寺は神仏分離が図られる前は「若宮八幡宮」の別当寺で、海苔弁財天を保管するなどしていた時期があるという。

「ねずみ島」は現在ほぼ川幅の中央位置にあるが、これは中洲ではなくかつて右岸側の陸地がここまであったことを示す名残跡。大正中期に始まる「直轄改修工事」以前の流路については、正確には古い地図などで調べるしかないが、明治期から引継がれている都県境界線によって昔の川筋を大雑把に推測することが出来る。

東京都と神奈川県の境界線は現在の川岸について、中瀬3丁目(川崎大師の東門前:小松製作所)の地先では右岸に食込み、その下大師橋北詰(正蔵院前)では逆に左岸に食込んでいる。かつての水路はこの辺りでは大きく蛇行していたことが分るが、直轄改修工事ではほゞこれらの頂点を接点とする包絡線の位置に新堤を築いている。(直轄改修工事の概要については注釈集の[参考11]に、また工事前の河口の流路については[参考14]に大雑把な絵を載せている。)
河口域のうち、水路が川幅の北寄りを通っていた、大師の渡し以東の区域では、水路の拡幅によって、南側(大師河原村)の沿岸部一帯が川中に組入れられることになった。(改修計画ではこの辺りでの川幅を、羽田量水標で558M、河口で630Mなどと決めていた。なお当時の左岸は「赤レンガ提」[参考19]が基準位置。)
六郷橋に近い方では、堤防間の領域は低水路と高水敷に分けられ、低水路は浚渫され、高水敷は洪水時の拡張水路として妥当な高さに削平されたが、河口部では堤防間の大半を常時水路とする計画だったようだ。
(ただし大師橋が出来たのは昭和14年で、それまで羽田の渡しが存続していたことからも分かるように、直轄改修工事の段階で低水路の掘削が直ちに実施されたわけではなく、水路の拡幅はその後の「維持工事」期間などを経て徐々に進み、昭和の中期から後期にかけて行われたの高潮対策の時期にほゞ現在のような水路になったと思われる。)

「河底横過トンネル」の存在を示す表示板には、この下を潜るJR貨物線のトンネルについて、「京葉線羽田墜道」と書かれている。京葉線といえば、幕張メッセの「海浜幕張」や東京デズニーの「舞浜」を通る総武線の海側線をイメージするので、この地で京葉線の名前を見るとエッと思ってしまう。
調べてみると、京葉線は昭和40年代に、コンテナ船の巨大基地大井埠頭の建設に合わせ、川崎市の塩浜操車場から大井埠頭・品川埠頭を経て汐留に至り、東京湾沿いに千葉市の蘇我までを結ぶ延長100km余りの湾岸貨物線として計画されたらしい。
川崎港では川崎から浜川崎までの貨物支線は古くからあり、大正時代から埋立の進んでいた西側には鶴見線が整備されていたが、東側(夜光、千鳥町、浮島町)の埋立が行われたのは昭和30年代で、浜川崎から東側の貨物線は昭和39年に塩浜までが開業した。
「河底横過トンネル」がいつ出来たかは知らないが、鉄建公団が「沈埋工法」(巨大な鉄の箱を川底に沈めて連結する)によって、六郷川を潜る川底トンネルを造った時の映像資料は昭和45年(1970)に制作されている。汐留〜塩浜間が竣工して浜川崎までの貨物線が全通したのは昭和48年(1973)のことである。
現在この東海道貨物支線は、芝浦で本線から分岐し、東京港から川崎港(塩浜貨物駅・神奈川臨海鉄道各線)を経て、浜川崎以後は鶴見線に入る。(一部は新横浜方面(横浜羽沢駅)に迂回して東戸塚で東海道線に合流する。) 廃止された川崎支線は、東海道貨物支線の旅客線化構想に合わせ、「川崎アプローチ線」として復活させる案が浮上している。

現在の旅客京葉線の方は、昭和50年代に臨海副都心計画が策定され、ウォーターフロントが脚光を浴びることになったことと関係するらしい。当時の鈴木都知事の臨海副都心計画に照すと、この路線が格好の位置を占めることになりそうだということから、品川埠頭〜蘇我間について旅客輸送を併設することが追加されたという。
旅客線部分は、昭和60年代初めに西船橋〜千葉みなと間が部分開通し、その後順次延伸され、平成2年(1990)には新木場に達するが、湾岸線はここで切上げて旅客京葉線は東京駅に乗入れた。(その後湾岸地区をいく「りんかい線」が出来て、京葉線の新木場と埼京線の大崎が結ばれ、相互乗入れによって多様な路線が可能になっている。)
横須賀線が品鶴線に振替えられた昭和55年以後は、この貨物路線が唯一の東海道の貨物専用支線ということになる。地図で見ると、大井埠頭を出たあと、城南島で環七道と交叉した地点から地下に入り、昭和島下から空港敷地の下に渡り、弁天橋大鳥居の下を通って多摩川を斜めにくぐる。殿町第三公園の下を経て、京急大師線・小島新田駅の西側で地上に出、塩浜の貨物操車場(川崎貨物駅)に至る。
(昔から現実にこの線が存在したため、何かというとJRの羽田空港への乗入れが取り沙汰されてきた。2004年5月羽田空港「神奈川口」の建設が正式に決定したので、この線の利用(貨客併用化)についての議論が又賑わしくなってきたが、「神奈川口」構想には神奈川側の特別な思いがあり、この貨物支線の旅客併用化が一本道で実現していくかどうかは予断を許さない。)

  「神奈川口」構想に関係した鉄道の話題は [参考32] を参照(


大師橋から下手の右岸(殿町2丁目)には、僅かながら自生のウラギクが残っている。
水際のものは下のほう(トビハゼの次)に詳しく紹介しているが、塩湿地ではない(大師橋に近い方の)堤防下にも、ヨシ群落の際に未だ少しウラギクが見られる。
通路際は刈取られることで日当りが良く、ウラギクにとって好都合だが、刈取られるので更なる進出は叶わない。結局背後のヨシが勢力を増せば、理不尽にもヨシの群落に呑み込まれてしまうような形で衰退してしまわざるを得ない。
2005年までは六郷地区にも、河川敷に近い高水敷のもっと細い通路際に、ここに似てより大きなウラギクの群生地があった。 (参照 [No.66O2] [No.66O3]
六郷のその場所は、その後一帯で陸化が進み、バランスを欠いたヨシが暴走的に増殖したことや、近辺にホームレスの入植が増え、通路の周囲が荒らされたことなどが重なって、翌年にはほゞ壊滅状態になってしまった。
殿町には石やコンクリートの低水護岸は無いが、古くから石組みの護岸がある六郷橋近くでは、岸辺で追い詰められるケースも似たようなものである。水際でヨシの外縁に存在する形のウラギクは、背後のヨシやアイアシが暴走すると、石の護岸に阻まれて行き場を失い、呑み混まれた形になって消滅してしまう。

左の2枚の参考図は、大正時代に始まる直轄改修工事前の、河口部の旧流路を示したものである。1枚目は明治後期の地図に、現在の川幅位置を着色域で示した。(薄い紺色部は低水路で、干潮時には露出する干潟も含まれる。薄茶色部はヨシの群生地や荒地などの高水敷で、薄緑色部はグランドなどの利用がなされている河川敷部分である。いずれも堤防外(堤防間)にあって、洪水時には水路となる川表に属する。)
海老取川や川崎大師の位置は当時も今も不変だが、比較参考のため、今見えるものとして、大師橋、右岸堤防終端(河口水準拠標)、左岸AS局舎(空港監視レーダー)の位置を書込んだ。縮尺や向きなどを現旧で位置合せする制作上の必要から、上記の他に、京急穴守線(糀谷〜大鳥居)、都道旧提道路(直轄改修工事で新提が出来た後、従前の水除け提を都道に作り変えたもの)などの位置を併記してある。(尚、「河口水準拠標」は「距離標」の河口原点を示す標識ではないので要注意)
見出しの小画像は明治前期の頃で、氾濫原の様子は少し異なる。明治初期までは海に注ぐ主要な流路は、三本葦と末広島の間にあった。「三本葦」はかつて羽田弁天の高灯篭が設置され「常夜灯」と呼ばれていたところで、明治初年の頃までは左岸側になっていたが、氾濫を繰返しているうちに御台場沿いが本流に換わり、燈明が対岸に移ってしまったという話がある。因みに当時海老取川の分流口がある地点より海側では、羽田と大師河原の境界(荏原郡と橘樹郡の境界)は多摩川本流ではなく「八幡澪(みお)」と呼ばれた水路に沿っていて、河口部では本流は右岸側も羽田村(羽田猟師町)に属していた。

2枚目の拡大図には現在位置の目安となる諸物を書き込んだ。中心は「羽田の渡し」で、左岸側の船着場は現在の首都高橋梁のほゞ真下にあった。
左岸の防潮堤は昭和後期の造りで、直轄改修工事時代に築堤された「赤レンガ塀」は、現在も裏通りの道路脇に塀状に残されている。右岸の拡幅(掘削)も直轄工事で一気に現行のような姿になったたわけではない。

ねずみ島は右岸堤防と左岸防潮堤のほゞ中間位置にあるが、都県境界線はねずみ島と左岸の中間(島の北岸から境界線まで100Mほど)を通っている。即ち右岸の側はねずみ島を含む幅250Mほどの一帯が掘削され水没したことになる。
厳島神社のHP[大師むかし話](池上茂一氏)によれば、ねずみ島は最後まで買い上げに応じなかった殿町の人の梨畑だった。周囲を掘られたため海水が浸透して耕作不能になり、放置された跡地にヨシが茂り野鼠が繁殖し、いつしか「ねずみ島」と呼ばれるようになったとのことである。なお同じページに、当初の改修計画では水神社・法栄寺までが水没区域に入っていたが、地元出身の内務大臣鈴木喜三郎に陳情した結果、堤防は現状位置に落ち着いたとの経緯も記されている。

東京湾は深く抉れているため、その沿岸には広大な干潟が発達し、房総側から湾奥にかけてや、多摩川の河口先一帯などに遠浅の環境ができていた。
昭和の時代、これらの干潟は沿岸の干拓(埋立地の造成)のため次々に潰され、僅かに埋立を免れた部分でも、土砂の供給を断たれ泥が流出する一方で、干潟の面積は更に縮小し続けているといわれる。

多摩川の河口部は、洪水や高潮対策のため、六郷橋から先で両岸の高水敷が掘削され、水路は蛇行を均すように大規模に拡幅された。その一方羽田空港と浮島町の造成によって、川は海岸に出て海面に拡がるという正常な河口環境を失い、河口延長水路が海の中へ延々と続いていく異様な状況が生まれた。
多摩川が上流方面から運んでくる土砂は、川底が事実上勾配を失う感潮域(とりわけ水路拡幅のために掘削された跡)に堆積する。高水敷が掘削され低水路が拡幅整備された以後、航路になる澪筋の浚渫は行わてれいるようだが、左岸の六郷から羽田、右岸の大師河原から殿町の地先沿岸部は生態系保持空間に指定され、手付かずの状態で昭和後期から次第に塩沼地が拡がるようになった。
干潟は以前掘削された場所に土砂が堆積し、浅瀬化が進行した結果順次塩沼地となったもので、右岸側ではヨシ群落の外縁に沿って多摩運河口に至るまで広く続いている。

 
東京湾沿岸部では、三番瀬のように孤立して残された僅かな干潟で、年々泥が流出していくのとは対照的に、多摩川汽水域(六郷川)の両岸では、陸化に至る過渡的な現象として、泥干潟の形成が年々進行していることになる。
土砂が堆積した部分にはヨシが進出して陸化が促進され、その先に新たな干潟が発達していくという経過で、陸化の進んだ部分にクロベンケイガニ、塩沼地のヨシ群落にアシハラガニ、泥干潟にヤマトオサガニやチゴガニなどのカニ類が繁殖している。
湾入部や高水敷の蔭など、流れがデッドになり淀みが出来る場所では、トビハゼの繁殖に適するほどの微粒泥が集積維持される所もあり、東京湾での絶滅が危惧されているトビハゼの生息が見られる。

左に載せた [No.74Fa] [No.74B3] [No.74B5] は、殿町2丁目地先のほゞ同じ位置で左岸の方を向いている。この場所ではヨシ原が一旦途切れ、干潟が堤防の法尻近くまで食込んだ湾入形状になっている。(正面はねずみ島、背後は左岸の羽田第一水門)
当地にヨシの進出できない干潟が形成されている理由については、丁度正面になる「ねずみ島」の存在が、本流の流れに何らかの影響を及ぼし、対面側に同規模の淀みを形成することになったと考える説や、この湾入部の背後にあるJR貨物支線の地下水汲上口から、常時清水(真水)がこの一帯に排水されていることが、ヨシの進出を妨げる何らかの作用をしていると考える説などがある。


泥干潟の上を跳び歩く魚類はマッドスキッパー(Mud skipper)と呼ばれ、日本では有明海のムツゴロウがよく知られる。
トビハゼ(Periophthalmus modestus) もムツゴロウと同じスズキ目ハゼ科に属するマッドスキッパーの一種で、大きさは精々10センチ程度と小さく、背鰭の形や色などの見た目もムツゴロウほど派手ではない。日本では東京湾から沖縄まで分布する。(沖縄には同属のミナミトビハゼも生息している。世界的な生息域の北限は朝鮮半島らしい。)
トビハゼの外呼吸は主として皮膚呼吸であり、鰓の性能はかなり退化していて、長時間水中に居ると窒息してしまうと言われている。実際トビハゼの鰓蓋は、空気中で風船のように膨らませたりしていて、隙間が明いて開閉するような普通の形のものではない。(背中が乾きそうになると濡らしに行くが、ゴロッと反転するのは必ずしも水辺だけとは限らないので、背中を下に付ける動作には呼吸以外の理由もあるように思われる。)

中生代の淡水魚は概ね空気呼吸を併用していたが、新生代に海洋で適応放散した真骨魚類は、鰾(ウキブクロ)を気管から切離して浮力調整用に特化し、呼吸は鰓にのみ頼るようになった。スズキ目は真骨魚類の頂点に立つ棘鰭類(きょくきるい)の代表格で、海水魚のマグロやタイ、淡水魚のシクリッドやパーチなど典型的な魚形が大半を占めるが、再度空気呼吸を取入れるようになった種類としては、乾季に干上がる熱帯地方に適応して、上鰓(じょうさい)器官を発達させたアナバス類(グラーミィなど)がいる。

    (参考1) (参考2) (参考3) (参考4)

トビハゼの背鰭は棘条部が後の軟条部と分離し、胸鰭の下位置にある左右の腹鰭は、半ば癒合して楕円形に近い形の吸盤に変形している。これらの特徴はマハゼなどハゼ科魚類に共通の特徴である。
トビハゼに固有の特徴は、胸鰭と尾鰭が分厚く棒状に近い形に変形していることで、移動手段は水中を泳ぐより泥干潟(時として水上)を跳び回ることに適し、系統樹では紛れのない魚類だが、実際の生活は両生類に近いものである。
トビハゼの背鰭は通常畳んでいて見えないが、威嚇やラブコールなど相手に意志表示をする時には立てて誇張する。棘条部は扇を開いたようなアーチ形で、軟条部は低く中段に黒っぽい帯状模様が認められる。左の見出し画像や [No.74Pa] [No.74Qa] は雌雄らしきペアが意思確認をし合っているケースで、同様のケースを上に「参考1〜4」として載せた。
腹部がふっくらと白く膨らんで、いかにもメスらしい感じのする個体と、棒状に近い体形でオスらしい感じの個体がペアでいるケースを見かけるが、実際に雌雄の区別がどうなっているのかは知らない。(比較的大きな個体でふっくらした体形のものが目立つ。)
トビハゼは通常はヨシ群落の中などを住み処とし、干潮時には干潟に出て活動するが、繁殖のためにはオスが干潟に巣穴を掘りメスを誘う。下の「参考5〜8」はある箇所で5分間1匹のオスを追った撮影。「参考5」はペアが良い感じだった。「参考6」は2分後で、先ほどの穴にヤマトオサガニが入ろうとしている。戻ってきたオスが怒って追い出しに掛かるところ。「参考7」はその3分後で、無事穴を確保しデレッと覗き込んでいる。「参考8」は直後にまたメスを誘ってディスプレイを始めたところ。

    (参考5) (参考6) (参考7) (参考8)

トビハゼは腹鰭で上体を支えた姿勢から、胸鰭を左右同時に漕ぐように使用して干潟上を這いずる。比較的高い部分に上って周囲を見渡す一方、水溜りに入ったり泥に埋まることも多く、道中の凸凹は全く意に介さないような動き方をする。
主要な移動手段は跳躍により、跳躍時には(多分方向安定性確保のため)背鰭を立てる。跳躍の準備段階では棘条部のみを立てている姿もよく見掛ける。跳躍の規模は一定せず、必要に応じて巧みに飛距離を調整する。
小さく跳ぶときには、下半身を浅く屈曲させ、尾鰭の付根辺りで地面を叩くようにしてピョンピョン小刻みに跳ねる。左の見出し小画像と[No.74Ra] は、下半身を曲げ胴体を浅くW字形に屈曲させたところで、これが小規模跳躍前の基本姿勢、下の「参考9」は着地の瞬間である。
非常時にはハイジャンプを連発して、数メートル以上の距離を高速で一気に駆け抜けることが出来る。ハイジャンプの場合には、尾鰭側を頭の方に大きく湾曲させ、上体も反対に折り曲げ全身をS字形に撓ませる。「参考10」 は大跳躍の寸前に全身をS字屈曲させたところ、「参考11」は上体が伸上り尾鰭を叩き出す瞬間、「参考12」は跳躍中だがどの程度の跳躍だったか記憶がない。上潮時に退避するケースなどでは、水上を軽く跳ねていく光景も見られるが、同じような姿勢から尾鰭で水面を叩いているものと想像される。
下の方に載せた[No.742a] は何か穴の中を手探りしているような? [No.74X] で右の海坊主のような個体は、偶然に瞬(またた)き代わりに目を頭に埋めた瞬間を捉えている。

    (参考9) (参考10) (参考11) (参考12)

昆虫類には、モルフォ蝶や玉虫のように色鮮やかな種類があり、多くの花は昆虫の色覚に期待して様々に彩色している。動物にも、極楽鳥、カージナルテトラ、カメレオン、等々、体色に際立つ特徴を有する多くの種類が存在するが、何故か哺乳類だけには綺麗な色をした種類が見当たらない。(哺乳類の原形は三畳紀のアデロバシレウス)
高等動物は元来優れた色覚を有していたが、哺乳類はその祖先、齧歯類(げっしるい)の時代(中生代:ラオレステス 15cm など)に、恐竜を避けるため夜行性となり、「聴覚」や「薄明視」の能力を強化する一方昼間視力の方は退化させてしまった。
恐竜が絶滅した後の新生代(第三紀)に陸上で適応放散し、ウマやゾウなど日中活動する多くの種類が出現したが、共通の祖先である原始哺乳類が色を識別する能力を失っていた為、その後の進化形に於いても、体色の発現は殆ど何の意味も持たなかったのである。
(暗所で、明暗により物の輪郭を識別する視覚を「薄明視」と呼ぶ。夜間撮影の映像で哺乳動物の目が光って見えるのは、網膜を支える脈絡膜の表面に蛍光反射する輝板(タペタム)があるためで、弱い光を増幅し網膜の感度を上げる機能をもつと考えられている。)
哺乳類は後期霊長類に進化した段階で双眼立体視を得、真猿類に至ってやっと3色の色覚を再獲得した。薄明視の視物質(ロドプシン:桿体)が網膜の全体に分布している一方、昼間視の視物質(錐体)は、黄斑と呼ばれる微小な凹み(中心窩:fovea)に集中的に存在し、この高度集積がヒトの凝視能力を実現している。それでもヒトが識別できる色相は200色余りとされ、500段階は区別できるとされる薄明視の感度に比べれば遥かに低い。

左の小画像は明らかに双眼で私を見ている。 [No.74V] の方は別の日で、私の気配に驚いて近くの窪みに飛込んだ後、そっと顔を出して周囲を見ている緊張の瞬間である。
トビハゼを観察していると、その最大の武器(特徴)は目にあるのではないかと思わせる。長く突出して周囲を見渡せるという点に限ればカニの方が有力そうだが、この緑色で中心が赤いトビハゼの目の外観は、尋常以上の高性能を予感させるものである。
泥干潟では全ての生き物が泥にまみれて識別しにくい。そんな中で比較的に弱いトビハゼが生きていくためには、特段に優れた視覚能力があるのではないかと想像してしまう。
魚類の色覚は脳に於ける分析処理能力ではヒトに劣るものの、(特に淡水魚の)受光センサー自身は多分ヒトより遥かに優れている。
水面近くを泳ぐ魚類は3原色だけでなく、近紫外線にも感受性のあることが知られている。元々脊椎動物の視物質は5種類あったと考えられており、浅い水中の複雑な光環境で進化した魚種が、ロドプシンの他に4色の感受性を発達させていたとしても不思議ではない。
ヒトの眼の色覚を司る視物質の分離度(特に赤緑)は甘いもので、脳の卓越した計算能力がセンサーの質の低さを補っているといってよく、こと色覚に関してヒトは自慢できる道具を持っているとは言えない。
明瞭な3色区分に加え、更に短波長側に1色多い4色に基く色覚とは一体どのようなものだろうか。人が見ている色世界が生物界に絶対的な景色ではなく、トビハゼの目に干潟がどのように見えているかは我々には全く想像することはできない。

    (参考13)   (参考14)   (参考15)

トビハゼは優れた保護色を示し、発見は容易ではない。「参考13」は白い人魚のポーズ。このくらい目立つとフォーカスに苦労しないが、婚姻色とは違うようで、単なる危険色としか思えない。「参考14」は背側腹側を明瞭に区別した色遣いの例で、普通に見られる。
「参考15」では、背側に通常の細かい縞模様の上に、更に太い黒色の帯条模様を出している。魚類にはこのような「暗色横帯」を操るものが珍しくない。「暗色横帯」には、水草などに隠れた場合に、捕食者から目立ち難くさせる役割があるという説があり、ヨシの茂みを棲家にするトビハゼにもあてはまるが、トビハゼでの使い分けのことは分からない。(観賞魚として有名なアマゾン原産のシクリッド「ディスカス」の例では、体調不良の場合や怯えたような時に「暗色横帯」を色濃く出現させる傾向がある。)
色素細胞(色素胞)は厚さ2ミクロン程度と薄く、平面の輪郭は一つの細胞でコンマミリオーダーの広がりをもつ。カロテノイドなどの色素を有する赤色素胞エリスロフォア、黄色素胞キサントフォア、光散乱性の白色素胞ロイコフォアなどがあり、光を吸収する黒色素胞の場合は、メラニン色素の顆粒を細胞全体に拡散させれば黒く発現し、メラニンを細胞の中心一点に凝集させてしまえば、細胞全体からは黒色が消失することになる。
体色を環境色に似せるように変化させる保護色は「背地反応」と呼ばれる。「生理学的体色変化」の多くは、目から入った視覚情報に基ずき神経系などによって色素胞を調整する2次反応だが、両生類以下の生物には皮膚にある色素胞そのものに光感受性があり、脳を介さずに色素胞が自動操作される1次反応もあることが知られている。

    (参考16)

今から4億年前の古生代デボン紀は、別名魚の時代と呼ばれる。後に硬骨魚類に進化していく系統は、肉鰭類(にくきるい)と条鰭類に大別されている。観賞魚の世界で「古代魚」と呼ばれるものの多くは、条鰭類から進化した系列で、ベルム紀末の絶滅を経た後の中生代に起源をもつ。(チョウザメ、ポリプテルス、ガー、アミア、ピラルク、アロワナなど)
古生代・肉鰭類の生き残りの可能性があるのは唯一シーラカンスで、かつては淡水魚だったとされるが、深海に下って生延びたらしく、近年インド洋の東西で発見されている。(オーストラリア肺魚(ネオケラトゥドス)も古生代の肉鰭類に近いと言われている。)
古生代の肉鰭類はメートル級で、鰭に骨や筋肉があり、ユーステノプテロンからアカントステガを経て、鰭を四肢に変え、浮力無しでも歩けるようになって上陸を果たした。両生網から爬虫網、哺乳網へ脊椎動物は画期的な進化を遂げていくことになる。
シーラカンスの映像を見ると、多くの鰭を実に多彩に動かしている。トビハゼの胸鰭は肉鰭類に似て分厚く房のような形をしているが、腹鰭は癒合して一つの吸盤と化し、臀鰭は(痕跡程度にまで退化しているのか)殆ど見えない。トビハゼの生活圏は既に両棲だが、サンショウウオなどの両生類と比べると、4足でなく2足(腹鰭を加えれば3足)歩行という点が明確に異なる。魚形のままで既に上陸しているトビハゼは不思議な存在だ。
両生類に進化した系統以外に上陸した魚類がいたことは聞かないが、現在ヨダレカケ(イソギンポ科)の例もあり、真骨魚類が小型化に成功したことと、浅瀬よりいっそ陸に出てしまった方が外敵が少ないという環境が、かつて無かった新しい条件なのかも知れない。

干潟の上にはカニが群れる。干潟の全面に分布して一番数が多いのはスナガニ科のヤマトオサガニ。大きさは1〜2センチと小さいものから、4〜5センチの大きいものまで様々いる。通常全身泥まみれで平たくなっていれば見難いが、大きいものでは立ち姿勢をとることも多く、こまめに動かすハサミが白っぽいので目に付く。
スナガニ科は長い眼柄の先に眼があって、水溜りに入ると、水面上をこの眼だけが潜望鏡のように突出して移動していく。その光景を見慣れないうちは、エッ何だ?!! と思わず注視してしまう。本当の眼がある甲羅の下側に、正面から見ると眼のように見える白い紋様のあることが分かる。相手を威嚇あるいは霍乱する目的があるように思えるが、その対象相手が何なのかは分からない。体の大きいものではハサミの大小ははっきり区別できる。大きいのがオスで小さいのがメスということだが、メスのハサミは本当に小さい。
干潟の陸側周辺の幾らか乾いた部分には、同じスナガニ科のチゴガニも結構多い。甲羅の大きさは1センチ程度と小さく、万歳するようにハサミを振上げながら、セッセと小さな砂団子を作っている。万歳動作は初夏から夏までの時期限定で、オスだけが行い求愛行動と考える説もある。
干潟に踏み込むとスナガニ類は一瞬で穴に潜り、アシハラガニとトビハゼは一斉にヨシ原に駆け込む。こちらが場所を決めて待機すると、まずヤマトオサガニが平常行動を再開し、次いでチゴガニも穴から出てくる。アシハラガニがそろそろ姿を見せるようになれば、景色として受容れられたことになり、トビハゼが出てくるのはその後になる。

六郷方面の比較的に乾いたヨシ原では、イワガニ科はクロベンケイガニが圧倒的に多いが、ここの塩湿地に広がるヨシ群落ではアシハラガニが断然多く、クロベンケイガニは1%いるかどうかという位少ない。
アシハラガニは干潟の周辺部にいて、ヨシ側に多いが何故か水際一帯にも群れている。陸側のものはヨシの茂みに逃込むが、水際のものは開き直ったように逃げないものもいる。干潟に出てくるのは殆ど4〜5センチ程度の似たような大きさで、干潟に巣穴は見られないし、体長の小さな子供の姿を見ることはない。
[No.744a] は干潟の食物連鎖を捉えた怖い写真だ。トビハゼに集中していたので、最初の経緯は見ていない。ふと反対側を見ると、アシハラガニがヤマトオサガニと取っ組み合っていた。ヤマトオサガニも大きさ的にはそれほどの差は無かったが、力の差は歴然で、足を捻じ曲げられ組敷かれたような姿勢になった。そこへ後からアシハラガニがもう一匹組付いてきて、ヤマトオサガニがサンドイッチ状態に挟まれているのが [No.744a] である。
程なく、ヤマトオサガニは右のハサミを根元からもぎ取られ、押さえ込みが外れた。そこで後からきたアシハラガニが獲物をよこせとイチャモンを付け、アシハラガニ同士のやりあいになった。「参考17」はヤマトオサガニがドサクサに紛れてスルスルとその場を離れる所。「参考18」は巣穴に入っていくところだが、オスの右のハサミは無残に失われている。ハサミはもぎ取った方のアシハラガニがしっかり確保し、もう一方は諦めて去った。「参考19」は左のハサミに獲物を掴んでヨシの方に入っていった勝者の姿。

    (参考17)    (参考18)    (参考19)


生物の光環境センサーについては、「シリーズ光が拓く生命科学」 日本光生物学協会編 (共立出版) に詳しく載っています。上記はその第1,2巻から一部を引用しました。

トビハゼなどのマッドスキッパーについては、右のサイトに生態や分類などについて分かり易く詳しい説明があります。 (右のバナーをクリック)

その他、「ディスカスの暗色横帯の例」と「虹色素胞イリドフォア」,  暗色横帯など「ディスカス紋様の名称解説」,  「古生代・中生代の魚類についてなど」  はそれぞれをクリック。



ねずみ島の前に大師橋から下ってきて最初の湾入部があるが、その後東海道貨物支線の「河底横過トンネル」を過ぎたところに2番目の湾入部がある。
大師河原から殿町地先の一帯は、水路拡幅のために同じように掘削された場所だと思われるが、場所によって環境条件が微妙に異なるのは不思議だ。土砂が堆積して形成された塩沼地の中に、部分的にヨシが進出できない場所があり、干潟が剥き出しになって湾入部のような景色になる。また同じように見える湾入部でも、全体が砂地に近い場合もあり、細かな泥が流出せず蓄積してトビハゼが生息していたりする場合もある。
ここには貨物支線に漏れ出す地下水を汲み上げて排水する樋管口があり、この影響について色々囁かれている。  (参考:地下水排水口) 
(東京の地下には広範囲に礫層が存在し、豊富な地下水が流れていて、湧き水が多く見られ○○温泉と称する銭湯も多い。地下鉄道を掘ると地下水が湧き出し、これが清水であることについては、東京駅で汲み出された地下水が品川区にパイプ輸送され、立会川を浄化している実績がある。)


ウラギクは十五夜の頃に見頃を迎える。2006年秋、殿町地先のヨシ群落の中にウラギクが自生していると聞いたのは、もう中秋の名月と呼ばれる満月の時期から3週間近く経った後だった。六郷では大半の株が既に花季を終えていたので期待はしなかったが、場所を確認しておく積りで見に行った。

ウラギクは花を終えると花びらが萎れ、一旦すぼんだようになるが中央の筒状花を綿毛に作り変えてまた開く。想像していたより花は残っていたが、半分くらいのものは既にすぼんだ状態になっていた。
 (ウラギクのことは 「六郷橋湿地:冬版」 の方に詳しく載せている。)

2006年11月20日から、京浜河川事務所が殿町3丁目でスーパー堤防の工事を始めるというので、その前後にまた何回か現場となる殿町一帯を見に行き、その序に綿帽子に換わったウラギクを撮った。この干潟にカワウが群れていたのでそれも一景とした。 (A4〜A7は11月中旬の同じ日、A8は11月末、A9は12月初めである。)

堤防はその性質上、河川事務所が主張するように「強化された所の人は安全」なだけでなく、他方で「強化されなかった所の人はそれだけ不安」になることが見過ごされてはならない。近代の多摩川下流で、神奈川側に堤防強化の動きが出ると、対岸の東京側で挙って反対陳情が行われたという歴史は、そうした住民意識を反映したものである。
そのような背景があって、大正8年に、国が必要な土地を全て買い上げ、下流部22キロメートルの全域で統一的な基準を設け、目標年次を定めた改修工事が着工されたのである。 内務省のこの直轄改修工事は完成まで15年ほどを要したが、大切なことは事前に明確な全体計画があり、完成目標に向かって工事が行われていったことである。
翻って現在のスーパー堤防構想を見ると、そこには信ずるに足るだけの全体計画が無く、工事は場当たり的に行われている印象が強い。当地でも仮にいすゞの移転跡地から多摩運河までがスーパー化され、大師橋から法栄寺辺りまでの民家の多い区域が取残された場合、万一想定外の大洪水や高潮が来るとすれば、殿町1,2丁目が相対的に弱い環として集中的な圧力を受けるおそれ無しとは言い切れない。

住民の不安心理を見透かしたように「計画未定地区」を残し、周囲で見切り発車し、結局住民自らの要望という形で自然環境に代償を払わせる(川表の側で堤防を強化する)という筋書きは、非民主的な手法であるばかりでなく、経済至上主義に捉われ環境保全の重要性を一顧だにしない時代遅れな発想と言わざるを得ない。
河川事務所は地元自治体の同意を得たのかどうかも不明のまま、2007年初頭に殿町3丁目のUR都市機構保有地でスーパー堤防の着工に踏みきり地盛を開始した。
当該区域で工事を急いだ背景には、空港の神奈川口構想の影が見え隠れするが、本来上手側の800メートル余(殿町1,2丁目)についてどうする積りであるのかを合わせた計画を、地元住民や環境等関係各方面に提示し、全体計画について同意を得た上で行うのが、民主的で将来に禍根を残さない正直なやり方ではないだろうか。

左の3枚 [No.74C5] [No.74C6] [No.74C7] は2007年、同地区での撮影。この辺りでは台風9号の被害は大したものではない。ウラギクも前年と比べて遜色なく、台風の影響は殆ど感じられない。

2009年には東電の送電保守Gとの間で、六郷のウラギク自生地を保護する約束が出来、例年になく観察に注力していたが、夏頃から枯れるものが多くなり、原因不明のまま数株が辛うじて花期にたどり着く有様だった。
成長したものの何故か枯れてしまった株を良く見ると、ほゞ例外なく、根元の部分で茎の外周が鉢巻状に抉られ、芯だけの状態になっていることに気が付いた。クロベンケイガニに齧られてしまったのではないかという説が有力だったが、時既に遅く確認は出来なかった。ただそのことがあって、殿町のウラギクはどうなっているのだろうという興味が湧き、10月初旬に当地にそのことを確かめに来た。いずれの株も根元はしっかりしていて齧られたようなものは見当たらなかった。(大師橋辺りを境にしてクロベンケイガニは少なくなり、イワガニ類は換わってアシハラガニが多くなるので六郷の環境は同一とは言えない。)
そのとき既にパラパラ咲いているものがあった。この場所を知ってから大体毎年花の時期には見に来ているが、いつも最盛期を過ぎた頃に来ていて不満があった。この年は偶々花期を確認できたので、その1週間後に来てこれら(No.74D1〜D5)の写真を撮った。
花は一番いい時期でかつて見たことがない程綺麗だった。不断あまり見かけないヒョウモン柄の蝶を六郷のウラギク自生地でも見たが、ここにも来ていた。


ここの3枚は川が緩く南にカーブする辺りで対岸方向を見た景色を、12年前、7年前と2014年の直近(2枚)の3時期で比較掲載したもの。海老取川の分流口、や弁天橋、曰く因縁があってここに移設されてきた大鳥居などが見える。
[No.74E1] は12年前の2002年の撮影で弁天橋は未だ改架中の時期だった。海老取川の分流口に見えているのは、新しく建設中の弁天橋の多摩川側に作られていた人道専用の仮橋である。(環八の穴守橋が既に出来ていて、車道としては専ら環八が使われていた。)
[No.74E2] は2007年10月の撮影で、この頃には既に空港の改修(D滑走路建設や新管制塔などの工事)が始まっていて、海老取川の両岸も新しい建物が建って雰囲気が変わってきている。
 (左岸の防潮堤から直接見た写真)  (改架中の人道仮橋)、 (完成した弁天橋) (洪水流下中の弁天橋)
[No.74E3] は2014年初めで、空港はD滑走路新設の後に国際線の復活が決まり、国際線専用の新ターミナルがオキテンの移転跡地の多摩川寄りの区画に出来、更にその拡張工事なども行われ、この時期にはほゞ完成に向っていた。弁天橋の後背地もこの間に多くの建物が建って様相が一変している。
この12年間に一貫して変わらずに見えるのは、海老取川の左岸、弁天橋の角にある薄紫色のマンション(セザール・シーサイド羽田)で、周辺には大きな建物が林立しているが、左岸側の建物は殆どがマンションであるのに対し、右岸側は空港敷地のようなもので、空港の関連施設が多く、弁天橋の後ろになる天空橋の右岸手前側には新しく小規模な船着場が作られたが、その岸上には国際空港下水道のポンプ場が出来(平たい建物は多分その関係)、その他右岸沿いには、蒲田消防署の空港分署や、航空振興財団羽田総合センターなどが続いている。
[No.74E4] は2014年の写真で、弁天橋周辺をズームしたもの。改架された弁天橋がよく分かる。

このページは右岸編だが、ここの区画では右岸から見た左岸を特集しているので、左岸のことながら、以下で撮っている対象範囲についての意義などを若干説明しておくことにする。 (下の括弧付きの太字はクリックで、それぞれの参考資料を別ウィンドウの形で表示するようにしてある。)

右岸が緩くカーブしていくこの辺りから見たの対岸方向には奇妙な「三角地帯」が存在するのだが、このことに触れる前に先ず全体像を把握しておきたい。
下に載せた参考資料の最初の1枚(直近の広域航空写真)は直近の河口域を広く見たもので、既に羽田空港の国際線ターミナルも見えてきているので2013年頃の撮影と思われる。因みに赤いラインは、右岸の堤防上のカーブを曲がった辺りから、弁天橋方向、或いは新船着場(旧ジェット燃料受入桟橋)方向を見た場合の視線の向きを書き入れたものである。《(第7部では(その4)(その5)で旧管制塔が多く写っているが、旧管制塔は丁度ここから新船着場を向いた方向の先(ビッグバードに並ぶ線)にある。写真によって旧管制塔があちこちに見えるように感じるのは、ここから左岸までの距離に比べ、管制塔までの距離は遥かに遠く、そのため見る位置によって前景との関係が大きくずれる為である。》

(直近の広域航空写真) 

羽田空港がオキテンに引き続いて、D滑走路や国際線ターミナルの新設など再拡張事業のために、周辺を含む区画整理を行うようになるまで、以下に説明する三角地区の中の下手側中央部(頂点近傍の一番厚みがある部分)には羽田東急ホテルが作られていた。その上手側の隣接した沿川部にジェット燃料受入基地があり、下手(右)側の三角地形の角には紅白に塗られたASR(空港サーベイランスレーダー)がそびえていて、その背後に巨大なJALの整備場があった。JALの整備場は厳密には三角地帯の外側、即ち環八道やモノレールの細い幅を越えた先の空港敷地内の端にあったのだが、右岸側から見れば三角地帯の直ぐ裏手に密着したような位置に見え、羽田東急ホテル、ASR、JAL整備場の3点が対岸の景観の主要部をなしていた。(参考資料の2枚目として羽田東急ホテルのあった”三角地”を含む周囲の航空写真を載せた。)

(国際線工事前夜、未だ羽田東急ホテルがあった頃の航空写真) 

穴守橋から入った環八道は海老取川に沿って上り、弁天橋の前で弁天橋から来た道路と合流して多摩川沿いを下ってくるが、その方向は若干北向きになって川から少しずつ離れていく。然し或る所で急遽又川側に向かうようになり、以後川に沿って進む。このため川沿いには少しの間、環八道(及びモノレール)と川岸に囲まれた不等辺三角形の土地が生じる格好になる。この奇妙な「三角地帯」が出来ていたために、そこに羽田東急ホテルなどが作られた訳だが、そもそも道路は何故このように屈曲した不自然な形をとるようになったのか。
(下の参考資料は、初めが航空写真で、「東京国際空港」の整備工事が一応の完成をみたとされる東京オリンピックの時(昭和39年)の全景、次は地図で昭和40年代前半頃に出たものだが、三角地を含む周辺の空港の配置についての記載は、初めに載せた(昭和39年)の航空写真とよく符合している。)

(昭和39年東京オリンピックの年の航空写真) (三角地帯を記した最初の地図) 

この三角地形が何時出来たのかを遡って調べると、昭和38年の航空写真に行き着く。
講和条約発効によって飛行場が占領軍から返還され、「東京国際空港」と改称して新たなスタートを切ったのは昭和27年(1952)で、昭和29年にはA滑走路を多摩川の際まで 2550m に延長し、昭和」の制定を受けて、ジェット化、エレクトロニクス化の趨勢に備えるべく、昭和32年度(1957)を初年度とする一大整備計画が実施された。昭和36年A滑走路はさらに北西側が延長され、A滑走路と平行に新たにC滑走路(3150×60m)が新設され、ローディングエプロン(駐機場)が22バース増設され、航空保安施設、ターミナルビルも一新されるなど、昭和39年(1964)の東京オリンピックに向けて工事は急ピッチで進み、東京モノレールと首都高速道路1号線も開通するなど、空港アクセス交通の大量化にも対処が行われた。
この時期に羽田東急ホテルが、埋立てられた「東貫運河」の真上に建設され、1964年(昭和39年)8月に開業した。羽田東急ホテルはこの辺りの景観の中心にあって、直木賞作家深田祐介が日本航空の新人スチュワーデスの奮闘を描いた小説『スチュワーデス物語』が日本航空の全面協力のもとで1983年にテレビドラマ化された際、その舞台として登場するなどしたこともあって、当地の象徴的な存在になっていたが、オキテンによる移転跡地整理並びに国際線地区建設に伴う周辺整理のため、開業から40年を経た2004年(平成16年)9月に閉館し解体された。(実質的には羽田空港第2旅客ターミナルビルに直結する位置に作られた「羽田エクセルホテル東急」へ移転したものと見なされる。)
(下の参考資料は、初めが昭和38年に道路が敷かれた当時の様子が分る航空写真、次は昭和30年の航空写真でターミナルビルは出来ているが、未だそこから先への道路は無く、後に三角地が出来る場所には、埋められないまま残されている「東貫運河」の跡地がはっきり認められる。)

(昭和38年道路が敷設された時点の航空写真) (昭和30年未だ東貫川跡地が残る頃の航空写真) 

鈴木新田は近世に埋立てられ羽田村から分村独立したが、鈴木新田の東の海側には、近世末期に「羽田お台場」と呼ばれるようになった河口の出洲があって、(おそらく本格的には近代になってから)ここも埋立てられ陸化した。出洲の状態にあった頃から鈴木新田と羽田お台場の間は「東貫川」と呼ばれた澪で仕切られていた。
近代後期に鈴木新田が主として穴守稲荷を中心とした歓楽地として賑っていた頃、羽田お台場には競馬場があったりしたが、戦時中は、東貫川側が軍需を賄う日本特殊鋼の羽田工場になっていて、東側には高射砲陣地などがあった。この時期まで鈴木新田のメイン道路は、稲荷橋から入る参道で、これを直進したところに「東貫橋」があって、これが羽田お台場に渡る唯一の経路だった。
(下の参考資料は初めが近代前期の多摩川河口部の概略図で「東貫川」の様子などを示している。次の加工された地図は、現代の流路が近代の流路とどのような位置関係にあるかを対比出来るように重ねて表示したもので、色々なものが書かれていて見難いが、黄土色の線は現代の道路の線を表している。三角地の最も厚みのある場所が丁度東貫川の真上になることが分る。)

(近代前期の多摩川河口周辺図) (多摩川河口域の新旧流路の対応図)  

終戦直後の米軍が撮った写真を見ると、東貫川の低地は幅広く直線的に掘削され運河のようになっていたことが分る。(戦時中に大型船が航行出来るよう開削したのではないか。) GHQは占領の初期事業として、海老取川の海側に大型機が離着陸できるような空軍基地を作ることを決め、鈴木新田を中心に北側の江戸見町、東側のお台場を合わせたL字型の土地を全て接収し、中間部を埋立てて(後のA滑走路の前身になる)滑走路を建設した。この際「東貫運河」は必要になる北側のみを埋め立てた。(埋立てに先立って航空機など残っていた日本軍の武器装備類が多く投込まれたとされる。)
(下の参考資料は、初めが羽田エアベースの滑走路に着工した時期の航空写真で、右岸側の埋め立ては未だ途上にある様子が良く分る。次は占領が行われる前の鈴木新田の概要を示した地図で、北側に当時立川陸軍飛行場から移ってきた東京飛行場が滑走路を拡張しつつあった状況を記している。鈴木新田の多摩川縁には川崎大師の東門前に近い位置に出来た「大師の渡し」と結ぶ「大師の早船」と呼ばれた連絡船の船着場があった。ここは堤防の低水路側になっていて、水域側に入るので、ここで問題にしている「三角地」とは関係しない。最後の航空写真は終戦直後に米軍が撮影したもので、海老取川からお台場までを抜き出している。この写真には稲荷橋で海老取川を越えた道路がそのまま羽田お台場の方へ繋がっていた様子がはっきり写っている。)

(昭和21年羽田エアベース着工時の航空写真) (昭和20年終戦時の地図) (昭和20年終戦直後の米軍写真) 

「東貫運河」の南側半分(多摩川口側)はその後も長く埋められずに残り、返還後「空港整備法」に基き昭和32年度(1957)から実施された一大整備計画によって初めてこの地も利用されるようになって、旧A滑走路の端にJALの整備場が作られ、これに沿い滑走路に平行する道路と弁天橋から直進してこの道路に至る道路が敷設された。その結果双方の道路によって、多摩川の川岸沿い(偶々東貫運河を埋立てた辺り)に三角地が形成されたのである。
空港はオキテン(沖合展開事業)によって空港の全体がそっくり沖合に移転することになった。その結果A滑走路も遥か沖合に移転し、ここで止まっていた道路が川沿いに延長されて移転先まで行くようになった一方、JALの整備場を初めこの周辺の建物は全て廃止となったため、三角状に屈折した道路だけが残り、道路はそのままの位置で拡張整備され現状に至ったのである。(羽田東急ホテルが建てられた場所は、かつて鈴木新田と羽田お台場を仕切っていた東貫川の丁度真上の位置に相当する。)

 

[No.74E5] は上の弁天橋方面を撮っていた場所からやゝ川下に下っている。羽田東急ホテルを中心に据えて撮っているが、ブルー色に見える桟橋はジェット燃料受入基地である。国際線エリアの建設に先立って、燃料受入基地はD滑走路側の貯油タンク近傍に移設されたので、ここはその後廃止となった。この写真を撮った2002年はもう空港の改修が進行している時期なので、ここが未だ使用されていたのこどうかは微妙だが、ここに出入している小型のタンカーが2隻写っている。(この燃料受入基地を近くから撮った写真は 「その3 羽田飛行場沿岸」 の方に載せている。 [No.73Fa]、ホテルの前庭の岸辺から [No.73H][No.73K]
このタンカーが接岸していた桟橋は燃料受入基地が廃止された後、客船用の桟橋に改造されて新たな船着場として再利用されている。羽田東急ホテルがあった当時の懐かしい風景はこの直ぐ下の冬カモを撮った2枚の写真にも残されている。 [No.743] (ASRについての近撮写真は「その3 羽田飛行場沿岸」 の方に載せている。 [No.73N]
[No.74E6] はそれから5年後の2007年で、既に羽田東急ホテルは無く、空港敷地の内部も工事のため更地化されて見通しが良くなっていて、モノレール越しにターミナルビルやスカイアーチなども見えている。
[No.74E7] は更に7年後で、国際線ターミナルが完成し、新しい管制塔も見えている。(新設されたD滑走路の見通しが悪くなったためビッグバードの駐車場ビルの一角に、より高く作り直された。)
[No.74E8] は更に川下方向に下った位置からの撮影で、出来立ての大きな建物は増設された国際線ターミナル専用の駐車場ビルである。尚この辺りの国際線ターミナルなどの建設中の様子を撮った写真は次のページ、「その5 右岸堤防終端 (河口水準拠標地点)」の下の方にも幾らか載せている。


川も空も冬には夏とは全く違う顔を見せる。しかしネットに載せる程度の写真で、冬の雰囲気がどのように表現できるか、となるとかなり難しい。陰影、濃淡、色調など微妙な綾に頼ることなく、構図で冬を表現しなくてはならない。白い富士は当然撮るとしても、それ以外の景色となると、(雪景色はまず滅多に撮れないので)、落葉して坊主になった木や枯れた雑草くらいしか頭には浮かばない。
この日もそんなことを考えながら撮影に出ると、ここでカモが寒そうにしているのに出合った。そこでこれを冬の一景として採用することにした。 [No.743] で、沖の方に点々と見えるのも同じ鳥(オナガガモの雄雌)と思われる。背景の中央は空港の管制塔、右手は羽田東急ホテルで水際に三愛石油の石油受入施設が見えている。(当地区は空港拡張のため再開発中で、この場所の羽田東急ホテルは今ではもう残っていない。)

六郷川の植生のうちで、この区域でしか見られないものが一つある。それは小ぶりのススキで、私はそれを便宜上「コススキ」と呼んだ。(単に「小さいススキ風の」という意味) 2002年の10月末から12月に掛けて、この方面に足を運ぶことが多かったが、それには一つの目的があった。それは一株の「コススキ」を見届けることである。

右岸の大師橋から河口までの区間は、大師橋の近くでは、狭い高水敷の先に大きくヨシ原が張出した形が続き([No.741],[No.74Ea],[No.74B])、大規模なヨシ群落が終わった後も、堤防下は概ね湿地化していて、植生は澪筋側でヨシ、堤防側ではオギが大半を占める。(ヨシの外縁には干潮時に露出する干潟が広範囲に形成されている。)
その代わりこの区間では堤防法面(のりめん:傾斜面)に様々な野草(帰化植物)が集中している。夏場この辺りでは刈取られる前の堤防敷にはセイバンモロコシが多く、メヒシバ、キンエノコロ、チカラシバなど、大師橋より上手では普通高水敷の平面で見られる種類が、限られた堤防法面の中で所狭しと勢力を競い合っている。
オギは湿地側には刈られない大型のものが群生する。上手の方ではあまり見ないが、ここでは珍しく堤防法面にもチガヤ紛いの小型のオギが見られる。

いすゞ工場の裏手に入るカオーブの近傍に、左に載せた [No.745] のように、しばらく堤防護岸が水に洗われる区間がある。(背後に写っている対岸の様子は未だ国際線基地が作られる前の時期で、写っている建物は、今はもう見られないASRの後ろがJALの整備場で、右手の4棟はオキテンによって新たに作られた格納庫で今も当然に存続している。)
2002年頃、法面の植生はこの辺りから小ぶりのススキが目立つようになっていた。葉幅がオギより明らかに細く、根元から葉が叢生する姿は、普通に見られるオギとは明らかに雰囲気が異なる。

左の [No.74U3] は川表の法面に密集する「コススキ」。(山野でなくこのような湿気の多い環境に、ススキという響きは必ずしも相応しくはないが、オギとは似ていないので小「ススキ」と呼んでおくのが無難かと)
花穂の風合や色調は株によって微妙に異なり、次の [No.746] は銀色に近い金色、次の [No.74U4] はその手前側で幾らか赤みを帯び、次の [No.74U5] は最も金色っぽいもの。以下の参考1〜4は金色系のもの。

   (参考1:金色コススキ)    (参考2:金色コススキ)

   (参考3:金色コススキ)    (参考4:金色コススキ)

銀色系はねずみ色ともいえ、花穂自身はオギに似て見えなくもないが、葉の細長い様子など全体の雰囲気は金色系のものと全く変わらない。

   (参考5:銀色コススキ)    (参考6:銀色コススキ)

上に参考として銀色に見える花穂の写真を掲げた。

左に載せた [No.74U6] は少し川下側に進んだ位置から見た堤防敷の風景。手前の川裏側にある赤い穂のコススキを撮ったものだが、遠くの方に川表の角に金銀の花穂が続く様子が見えるのが先に撮っていたところになる。
穂の赤いものは、上に載せた金銀の [No.746] [No.74U4] [No.74U5] や参考写真を撮った位置のほゞ対角の川裏側にあった。左の小画像はその部分で、 [No.74W] は花穂をズームアップしたものである。
赤い穂のものはここだけではなく、ここに来る前に大師橋を下りたすぐ近くでも見てきたが、やはり川裏側にあってそこでは穂の黄色い株と並んでいた。

   (参考7:黄色コススキ;メヒシバ?)

花穂が黄色いものを3枚目に [No.74U6] として載せた。上の参考7は同じ箇所を下から見上げるような向きで撮ったところ。穂だけを見るといかにもメヒシバと思わせるが、メヒシバ属の葉は通常先の尖った被針形で、これほど極端な線状葉ではない。この細長い葉は金銀赤の穂を付けたものとよく似ていて、同じ仲間かもしれないという気がした。

これら堤防法面のコススキを撮ったのは10月中旬に入ったすぐの頃だったが、次にこの地区に行ったのは2週間後の10月末に近い頃で、堤防敷の草は見事に刈られていた。

ウカツだったと思いその日は失意のうちに帰ってきた。だがこのコススキには気があったので諦めきれず、翌々日に気を取り直して再度行ってみることにした。
(確かに法面は完璧に刈られていたが、その先(多摩運河寄り)の堤防下は調べずに帰ってきた。もしかして下には残っているものがあるのでは..と思い付いたからである。)
堤防下を丁寧に調べると、澪筋側の藪と堤防下の刈取の境目に、僅かながら刈られずに残っているコススキがあった。それは除草車の轍(わだち)の跡が根元を翳(かす)め、正に危機一髪という位置にあった。下に載せた [No.74U7] [No.74U8] はこの時に撮影したもので、完全な形を留めているのはこの場所だけだった。

いすゞの敷地範囲全体に川裏の側帯には「カイズカイブキ」が植えられている。植樹は市の指導によるものと聞いているが、上手の味の素はアラカシなど数種が取混ぜて植樹されているのに対し、いすゞの場合はこの「カイズカイブキ」一種に限定され、これがこういう広い場所ならではというのか、剪定されない樹木が火炎状に伸びて独特な景観を呈し、それがこの区間の一つの魅力にもなっている。
2002年当時、堤防上面が舗装されていたのは、いすゞ自動車が始まる前までで(サイクリングコースはそこで終る)、そこから多摩運河までの残り1キロはガタガタ道で、その当時の河口に続く堤防道は左の [No.747] のようだった。(小画像の方は振返って川上向き。なおその後ここで光ファイバー埋設工事が行われ、工事後多摩運河までの天端面はすべて舗装された。)
この区間は堤防下には幾らか陸地があるが、陸といってもすぐ湿地になり、除草車が入るのは幅2メートル程度の1車線分だけ。澪筋側の半湿地には大型のヨシやオギが茂るが、刈り取りが入る堤防法尻側では時に「ヤマアワ」が見られたりとやや植生が異なる。

この日は一株(?)でも残っていたことに満足して、あまりよく観察せずに帰ってきてしまったが、その後頻繁にこちら方面に来るようにして、この場所で堤防下に下りコススキの観察を続けた。
3枚目の [No.748] はそれから3日後の花穂がまだ出たてで初々しい頃、次の段の2枚 [No.74U1] [No.74U2] はその12日後でもう11月に入っている。この日花穂は十分開き爛熟期に入ったという印象があった。下の段に載せた花のアップ [No.74T][No.74U] はこの日に撮った。
アップは光線の具合で色が必ずしも正確には写っていないが、赤い穂に黄色い葯(花粉袋)をいっぱいぶら下げている。(同じように黄色いオシベがよく見える花の写真は、一ヶ月前に堤防法面で [No.746] を撮った時の中にもあった。) 花穂を数本持帰ってよく観察したら、護頴(ごえい)には小穂(しょうすい)と同じ位(長さ5ミリ前後)の芒(ノギ)があることが判った。この頃がこの草の絶頂期だった。

   (参考8:枯れ始め)    (参考9:枯れ姿)

参考のため、その後のこの草の様子を載せておいた。参考8はそれから1ヵ月半後の12月、花穂は20本くらい出ているが全て黒くなり、地上部全体が枯れ始めている。この日「この草の最期を看取った」という気がした。参考9の完全な枯れ姿は翌年2月のものである。

この界隈のコススキは、図鑑で見られる範囲で言えば、ウンヌケモドキ(コカリヤス)に似ている。(丈は70〜80センチで、これに該当する部分は多いが、ウンヌケモドキは本家のウンヌケ同様、西日本でレッドデータブックの絶滅危惧種II類に載るような希少種である。
当地ではこの一帯は除草車によってバカバカ刈り倒されてしまう状況下にあり、常識的に考えてそのような希少種である可能性は無い。以下参考のため、近い種類で有名なものを少しだけ図鑑から引用。
ウンヌケはウンヌケモドキよりは少し大型で、愛知県周辺の原野に生え、愛知万博の環境アセスに登場する。ウンヌケはエウラリア属(Eulalia)だが、学名の Eulalia speciosa は綺麗なススキというような意味らしい。命名上もう一方の本家になるカリヤスの方は、紛れもないススキ属(ミスカンサス)で、規模が少し大きく、山地だけに生え小穂にノギはない。似て非なるものにカリヤスモドキがあり、こちらは小穂の2倍以上に達するノギをもつ。主として火山地帯の高原で見られ、花は夏〜秋というから早いほうである。
尚サトウキビ属(サッカラム)の中に、海岸の砂地に生えるハマススキ(ワセオバナ)というのがあるが、その名の通り花は早く、花序は主軸が太く白い軟毛が密生するもので、このコススキとは印象が全然違う花である。

河川の高水敷というような湿気の多い環境で、このような散房花序といえばオギと相場は決まっている。だがこの「コススキ」の花にはノギがあることを確認しているし、この葉の細さはどう見てもオギのものではない。
定期的に刈取が入る場所では、本来の背丈に達せず、園芸種くらいの大きさで穂をつける例が少なくない。本来はもっと大型になる種類が小さく変異した場合、姿形も幾らか違ったものになってしまう多能性は否定できない。
ただ幸いにして、偶々当地の堤防法面にはオギはあった。ここに来る前の、大師橋を下りたすぐのグランドを過ぎた辺りで、刈取りの入る法面に群生するオギを見ていた。その時撮っていた写真が、下段の最後に載せてある [No.74T3] である。
[No.74T3] は平面に普通にあるオギに比べれば遥かに小さく華奢だが、これは紛れも無くオギの雰囲気を持っていて、この後で見ることになった件のコススキはこれとは明らかに雰囲気が異なる。
こうして釈然としないまま何年か経ち、そのうちに当地でもコススキは見られないようになり、このことは気に掛かりつつも次第に記憶から薄れていった。

2007年3月に「多摩川の自然を守る会」の人に、この界隈の写真を見てもらう機会があった。そこでこのコススキを出して年来の疑問を聞いてみたところ、「ハチジョウススキ」ではないか、という貴重なアドバイスをもらった。

「ハチジョウススキ」という言葉は初耳ではなかったが、素人にはその名前から、それは伊豆諸島方面の固有種という思い込みがあった。調べてみると 「ハチジョウススキ」 は三浦半島や房総半島にも分布しているらしいと分かった。山野ではなく水辺にススキがあってもいいのだと教わったことは、まさに「目から鱗」だった。
「コススキ」は刈取面にあって、本来の姿ではなく小さく変異している可能性が高い。だが刈取面にのみあるというのは不自然であり、これが法面などに散った変異種なら、必ずその原種も近くにあるはずである。そこで当時の古い写真をひっくり返し、澪筋側の藪が写っているものを探した。そこで見付けた写真を左に載せた。
左の [No.74T1] や [No.74T2] は堤防下のコススキとして上にその顛末を載せた株のほゞ背後といえるような場所を撮った中にあった。そう思って見ると、確かにこれはオギとは雰囲気が違うように見える。ただし 「ハチジョウススキ」 だと断言できる根拠がはっきりあるわけではない。
「多摩川の自然を守る会」の人は、「ハチジョウススキ」 を識別する方法として、葉縁の棘が疎らなので、擦ってみた場合葉縁がざらつかないということを教えてくれた。ただ今となっては、秋になってこれを探し出し擦ってみる以外に確認の方法はない。
背後に 「ハチジョウススキ」 があったとしても、法面に散ったものは何故「コススキ」のように、花穂が金,銀,赤,黄など様々な色になるのか、単に小型化するだけでなく、園芸種のような雰囲気になってしまうのは何故なのかなど疑問は尽きない。



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