第七部 「河口」 周辺 

(河口周辺の地図を表示)

   その3 羽田飛行場沿岸


(小さな写真にはそれぞれ数枚ずつ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
マークはクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

近世まで羽田沖の砂洲は、多摩川と海老取川(〜大森海岸)の間に広く扇状に広がり、辺り一帯は「扇ヶ浜」とも呼ばれていた。扇の要の位置にあった出洲(要島)が干拓され、鈴木新田として分村したのは江戸時代後期のことである。
(鈴木新田の干拓など近世から戦前までの歴史については [参考14] で言及
明治大正時代の羽田は、度々洪水や高潮などの水害に見舞われながらも、解禁された海苔養殖に参画して漁業が盛んになり、穴守一帯が歓楽街や行楽地となるなど、戦前までは近郊のリゾート地としても大いに繁盛した。
昭和6年(1931)鈴木新田の北側(江戸見崎沖)に隣接する埋立地に、東京飛行場が立川から移転してきたことが、その後の羽田の命運を大きく変えていく端緒になった。
戦前から戦後の高度成長期にかけて、羽田はその地理的な特殊性が逆に災いし、この地はそれまでの暮らしから一転して、様々な辛酸を舐めさせられることになる。
(羽田空港の過去の拡張史について図解入りで解説 [参考16]
(現在最終段階に入っている沖合展開事業(オキテン)の詳細内容 [参考18]
(京浜運河構想から戦後の埋立によって、大森・羽田の内湾漁業が終焉した経過 [参考20]

羽田の海は広大な砂州(「羽田洲」)が広がる遠浅の海だった。近世以後干潮時の出洲のようなところから次第に干拓され、時代の経過と共に汀(みぎわ)線が徐々に沖合に移動していった。
[No.731] は海老取川の入口左岸から、近世に干拓され戦後空港敷地の主要部となった旧「鈴木新田」の沿川部を見たもの。防潮堤の先に羽田東急ホテルがあり、JALエアポートエンジニアリング(ブルーの屋根)、航空局AS局舎(紅白のレーダー塔)などが並ぶ。多分この辺りが戦前までの「鈴木新田」の終点で、そこに東貫川と呼ばれた澪があり、その先は「お台場」と呼ばれた別の干拓地になっていた。(参考図
1984年に始まった「沖合展開事業」によって空港全体は沖合いに移転した。[No.731] の左端に微かに見えている”ラセットブラウン”色の「スカイアーチ」が、現在の空港のほぼ中心地で、ターミナルビルはその近くにある。(参考図
[No.732] は同じ位置から見た河口方面左岸のズーム。陸と川(海)の境界はほゞ正面の延長線方向になるので、遠近が重なってしまい景色はよく見分けられない。櫛のように見えるのは東京モノレールの高架、その先の建物は給油施設で、ここが敷地の東南の端になる。水上に続く赤いトラスはA滑走路の進入誘導灯である。

大正時代に多摩川下流の本格的な改修工事が行われるまで、六郷橋から河口までの水路の幅は現在の1/3程度しかなかった。その当時の水路は大きな蛇行を繰返し、大師橋から下手には海に抜ける澪は幾つもあって、大規模な氾濫が起きる度に主要な流路が変わる状態だった。
大正末期から始まった直轄改修工事では、こうした河口部の流路を均すため、主として右岸側の「中瀬」地区(川崎大師近傍)から河口までの沿川耕地を大規模に掘削する計画を立てていたようだが、工事は堤防の強化造成が優先され、水路の改修までは手が回らなかったようである。高水敷の掘削や浚渫によって、低水路の大幅な拡幅や澪筋の屈曲整斉などが図られたのは、高潮対策工事が実施された時期だと思われる。
戦後左岸側では空港拡張のため埋立が進んだが、右岸側でも運河の掘削と工場用地造成のための干拓が行われ、多摩川沿岸には羽田空港と向い合う位置に「浮島」が造成された。[No.733] で見える右岸側は「浮島」になる。水際の境界線は左岸同様、前方方向に重なってしまい見た目で奥行きは測れないが、撮影している海老取川分流口から浮島の先端までは5キロメートルほどの距離がある。
手前の石積みは海老取川のページで紹介している「カメノコ」。(洪水時に本流から海老取川口に流入する水流の勢いを殺(そ)ぐ目的で作られた低い堰堤)
[No.734] はカメラを右に回している。屋根をチェッカーボードのように紅白に塗装したタンクは、川崎区浮島町のほゞ中央に位置する「東燃ゼネラル石油」。右端は浮島と殿町を仕切る多摩運河の手前側になる「いすゞ自動車」(2004年移転跡地)。

2004年元旦は「初日の出」を拝みに出た。夕日は結構経験を積んだが、朝日は一度も撮ったことがなかった。六郷川は六郷水門から弁天橋(海老取川分流口)まで2.5kmの間はほゞ真東に下り、その先で30度弱南に向きを変えて海に注ぐ。(「全図」
地軸の傾きは23.5度だから、目一杯太陽が南に偏る冬場には、日の出は河口中央かやや右岸(川崎側)寄りの位置になるはずと、机上で計算は出来るものの、実際には一度も見たことは無かったので、撮影場所は「現地で判断」の心積もりだった。

見たいのは初日の出だが、もろに逆光となる朝日自身は多分まともな写真にはならないので、写真としては本当は日の出前の「朝焼け」(暁光・曙光)を撮りたい。
日の出の時刻は6:50とされている。夕焼け(残照)を追いかけた経験から、「朝焼け」が最も神秘的な美しさを見せるのは多分6時前後になるだろうと推測した。しかし早起きが苦手なため、残念ながら家を出たのはもう6時を過ぎていた。辺りは未だ暗いがもう到底朝焼けに間に合う時刻ではない。三脚は持たず、今年足掛け20年目に入る愛車 [MIYATA] に跨って弁天橋に向かった。

海老取川入口の防潮堤まわりは若者を中心にかなりの人出で、首尾よく朝焼けを収めたと思しき三脚の放列もあった。(この人出を見て場所はこの辺りでよいらしいと分った。)
この日は予報で言っていたような快晴ではなく、南の空にはかなりの雲が出ていた。幸い日の上る辺りに雲は殆ど無く、6:50に近づくと水平線上に浮いた筋状の雲が輝き、日の出は見られそうだという確信が強まった。(水平線には房総半島が微かに見えているので、たとえ快晴でも水平線に日が出る形にはならない。)
6:51頃、観衆から一斉に歓声が上がった。[No.735] は新年の太陽が覘(のぞ)いた瞬間である。[No.736] [No.737] [No.738] 少し雲はあるものの、水鳥が飛交う中に新年の太陽は無事上った。(36は35から2分後、37は35から10分後。) 水平線上の煙突は袖ヶ浦方面の火力発電所(参考 [No.75F])、右側の建物は浮島の先端部が見えている。

右の [No.739] は初日の出を撮ったその足で空港敷地に入り、最も近いスポット(慰霊碑下)から、川上を向いて大師橋方向を撮った。これも新年の写真だが、これほど朝早い時間帯に撮った写真は他に無く、周囲がオレンジ色に染まった独特の雰囲気が撮れた。

昔羽田弁天社があったとされる場所よりやや川上寄りと思われる辺り、環八道路と川岸の間に、昭和57年(1982)2月9日羽田沖に墜落した日航機遭難者の慰霊碑がある。
事故は福岡発羽田行き日航350便(DC-8)が、着陸態勢に入った中で逆噴射して失速し、C滑走路の沖合300mに墜落したものである。この事故により乗客24名が死亡、乗員8名と乗客141名が負傷した。厳冬期の海で凍死寸前の被災者を、近くの住民が舟を出して救出した話が伝えられている。

右の [No.73A] 以下春先の富士 [No.73E] までの5枚はいずれも、新年の朝景色を撮った [No.739] と同じこの慰霊碑の近くで撮影している。
[No.73A] [No.73B] は、初日の出を撮った1年前、2003年の正月休みに撮った「羽田から見た冬の富士」である。2003年正月は5日の日が大気が格段に澄んでいたが、残念ながらその日の富士は終日雲が掛って絵にならなかった。掲載した [No.73A] は2日 [No.73B] は6日に撮影した。[No.73B] に写っている煙突の白煙は「味の素」(六郷橋下手の右岸)が操業を開始した記し、その右のビル群は川崎テクノピア。

次の [No.73C] は慰霊碑がある下の河原(低水路)に下りて撮っている。夏から秋に富士の見える日は珍しく、この日もご多分に漏れず台風一過の撮影。

航空機事故の古いものとしては、昭和13年8月森が崎で戦前最大の事故があった。日本航空輸送のフォッカー機と日本飛行学校のアンリオ機が空中接触して墜落。(両機の乗員は合せて5名) 墜落して数分後、フォッカー機のガソリンタンクが爆発炎上し、救助や見物に集まっていた数百名が被災した。即死は17名だったが、約1か月の間に負傷者が次々に亡くなり、結局死者85名負傷者76名の大惨事となった。 (「大田区の歩み」より)

空港周辺の住民は終戦直後に強制退去させられて住処を失ったばかりでなく、昭和30年代から長い間ジェット機の爆音に悩まされ続け、いつ事故に巻き込まれるかわからない恐怖にもさらされた。その一方沿岸部の埋立てのために(大森漁協などとともに)漁業権の全面放棄を迫られ転廃業を余儀なくさせられた。
戦後のこの地域は「公共性」という錦の御旗を掲げられ、経済発展至上主義のもとで様々に犠牲を強いられる側に立たされてきたといえるだろう。

海老取川を渡って空港敷地(旧鈴木新田)に入ってしばらく行くと、洪水時に迂回して海老取川に入っていく水流が岸近くに形成した砂洲があって、その辺りは堆積地のようで、あまり綺麗とはいえないが狭い砂浜になっている。
この近辺の堤防寄りにはハマヒルガオが結構あって、5月にはよく花を咲かせていた。ここから堤防を上がり下手に向うと荒地があって、恰も外来種の植物園のようになっている。ここには余所ではあまり見かけない種も多く、野草好きには堪らない雰囲気になっている。
たまたまこの時期にはシロバナマンテマ、ヒメコバンソウなどが群れていた。他にもミント、ブタナ、ニワゼキショウ、アカバナユウゲショウなど知っている種類もいろいろあったが、教わってもとても覚えきれないほどの多くの種類が見られた。
この一帯は元々はオキテン後に地元に返還される筈だったところだが、その後オキテン開始時には想定されていなかった、D滑走路の建設、再国際化に伴う国際線エリアの構築、神奈川口構想の提案など、矢継ぎ早に新しい事態が生まれ、それに伴うかのように羽田東急ホテルが撤収されたり、三愛石油の航空燃料受け入れ基地が廃止となるなど様々な変化が起きていて、最終的には一体どういうことになるのか推測できない。少なくともこの外来種の天国のようなこの空地は消滅するだろう。

羽田は2004年に初日の出を撮ったことで、この写真集の中で唯一朝日を撮っている場所である。夕景も加えればここでは主要な場面がそろうことになるので、2005年1月中旬に多摩川台で夕景を撮ったあとは、羽田に照準を合わせてチャンスを待った。
冬は空気が乾燥しているので、光線を散乱してしまう主要な障害物である水蒸気は確かに少ないし、黄砂や花粉なども問題にならない。それでも排気ガスや塵埃などの状況は日によって大きく異なり、冬場の夕景の美しさがいつも同じということではない。
結果的にこの日は不作だった。日没前に撮った写真を下の方 [No.73Fa] に載せている。それは東の方角だが、地平線際は綺麗ではない。肝心の西空もいい場所に目障りな雲が最後まで残ったし(富士に掛からなかったのは幸いだったが)、残照の色着きも期待したほどのものではなかった。日没後40分間、少し横の方の環八をひっきりなしに車が通るだけで、人っ子一人居ない川岸で凍えながら待って撮ったのが [No.73Ja] である。
日没はもろに逆光だから極端に露出を抑えて撮り、サングラスで見ているような不自然な写真になる。残照も逆に暗すぎてカメラの自動設定では撮れないような写真だから、調整具合によって雰囲気はかなり違ってしまう。(「残照」写真は「日没」写真より更に恣意的な度合いが強い。この日の写真は何となく浮世絵風の仕上がりだ。)
[No.73Ja] で中央に煙突のように見える太い柱は、建設中の「大師橋上り橋」の斜張橋部分の中心。斜張橋の主塔は、この時期未だ囲いが取れていないのでこのように見える。(参照 [No.640a]

[No.73D][No.73E] は2003年3月初旬の撮影。多摩川緑地で [No.434a] を撮った時は川は雨上りの泥水状態だったが、その後晴天が続き、大師橋緑地で[No.443a] を撮った日までにやや改善がみられ、この日はほぼ元の綺麗な水の状態に戻っていた。
近年、富士山では8合目までの永久凍土が消滅したようだと報道されている。(凍土が失われると、それだけ雪解け時期が早まり、縛りを失った土砂は崩れやすくなる。) 逆に草木が前進し、裾野側から頂上に向けて緑域が広がるなど、富士の景観は変わりつつあると指摘されている。(当地からでは富士の下半分は丹沢山系に隠れてしまうので、所詮銭湯に描かれたような冠雪した青い富士を見ることは出来ない。)

さて弁天橋先の空港敷地のうち、環八道路から内側は空港用地として完全に仕切られているが、多摩川沿岸一帯は扱いが不明朗な区域と言わざるを得ない。環八道路と川原の間は幾らか距離があるが、国土交通省は実際に使用していないこの部分も、何故かフェンスを張って立入りを禁止している。護岸伝いの川原部分は海老取川分岐口では開放されているものの、その先では工事絡みの制限も加わって全く要領を得ない。

[No.73Fa] は慰霊碑のある場所から川下側の護岸を撮っている。
羽田飛行場の再拡張(2009年供用開始)の概要は既に決定し、新滑走路の敷地となる埋立島は、現A滑走路の誘導灯のトラスを超えた川中の位置まで張出してくる。(空港島のうち川中に出る部分は、洪水の流下を妨げないように、桟橋構造とすることが決まっている。再拡張に合わせて、空港敷地のこちら側には国際線用のターミナルビルが作られるが、同時にこの辺りと多摩川右岸の殿町方面を、何らかの新しい方法で直結し、殿町側に「空港の神奈川口」が作られることも決まっていた。)
(羽田空港の再拡張について、計画図と現況までを概説 [参考27]
護岸沿いに下ると、環八道が幾らか内に切れ込んで、川との間に三角地が生じるようになる場所がある。三角地には、三愛石油、羽田東急ホテル、日航エアポートエンジニアリング、航空局局舎などの建物が集中し、この一帯で飛び地のような雰囲気になっていた。
石油施設の護岸を跨ぐ回廊には、火気厳禁・危険につき近付くなと掲示してある。その隣のホテルでは前面の土地の専有を主張しているような感じだ。その先のレーダー施設(ASR)では川下側に古い柵が設けられてあり、それぞれに立入禁止の意思表示は窺われるが、具体的にどの部分の立入が禁止されているのか明瞭とはいえない。
仮に通れる限りの部分は通行自由と解釈すれば、この撮影当時、慰霊碑の所から建前上の河口ゼロ地点(右岸の多摩運河入口に正対する位置)までは水際を歩いていけた。

「羽田東急ホテル」の川上側に隣接して「三愛石油」の航空燃料受入基地がある。右の2枚は「羽田東急ホテル」の前で川上側を向いて撮っている。(ここに大型のタンカーが直接来ることはない。)
「三愛石油」というのは一般にはあまり聞きなれないが、戦後の民間航空の草創期(昭和27年)に、専ら航空燃料を供給する目的で設立された。(現在では、規模的には石油・LPガス販売事業に比重が移っているようだ。) 昭和30年には、世界に先駆けて飛行場における航空機の給油システム「ハイドラント・システム」を独自に開発して運営を開始。これは(「三愛石油」のHPによれば)、従来タンクローリー車を飛行機に横付けして行なっていた給油作業を、地下のパイプラインを通じてあたかも水道栓をひねるようにして、大量の航空燃料を迅速・安全に給油できるようにした施設とのことである。

羽田空港の沖合展開に従って給油施設も移転した。新たに空港敷地の東南端が貯油基地になり、1996年に供用を開始した。この受入基地からの受入配管(地下のパイプライン)は空港アクセス道路と平行にビッグバード方向に向い、西側エプロンの下を通って貯油基地に至る。払出設備は東ターミナルの正面辺りにあり、貯油基地から払出設備までの払出配管は、東周りと西側直の2系統があったようである。(参照 [No.760]
その後、三愛石油は、羽田空港の国際線発着枠の増枠および新滑走路供用開始に合わせ、ハイドラントシステムの拡張、貯油タンク増設を行い(9,800kLタンク3基,8,000kLタンク5基の貯蔵能力を確保)、2010年にはD滑走路側に新たな受入施設として大型タンカーが着桟できる桟橋を新設した。

やがて燃料受入施設はD滑走路側に移転し、多摩川縁のこの施設は廃止となったが、桟橋自体は解体撤去とはならず、日本空港ビルデング(株)に買取られ、2011年には一般船舶用の船着場に改造され再使用されることになった。岸辺には立派な待合室が作られていて、当初は“Under JET”クルーズと呼ばれるツアーが不定期に実施されていたが、2014年7月、ケーエムシーコーポレーションが、週一間隔(毎日曜日)で、横浜ぷかり桟橋からこの空港船着場を経由し、お台場海浜公園に至る定期便を開設し、7月14日にこの波止場発で試乗会が行われた。
運行される船はシーバスのような温和なスタイルのものではなく、大型のクルーザータイプを導入している。数隻確保しているようだが、現物は撮れていないので、ここでは試乗会が行われた際のコマーシャルフィルムから当日使われた船と、環八に面した玄関口に掲げられている表示板に載っている船の2例を、参考として下に掲示した。

   (2014.7.14 試乗会のコマーシャルフィルムより)    (環八道路に面した入口の表示板から)

当面は週一の運行だが、2020年までには毎日運航するようにしたいとの説明があり、いずれはお台場海浜公園に止まらず、湾奥の別の場所にも停泊地を増やし、また千葉側にも航路を伸ばしていくことで、東京湾内湾をカバーするネットワークにしたいという目標を持っているようである。(国際線ターミナルからここまでの直線距離は短いが、現状ではターミナルと波止場を繋ぐ特別な通路が出来ている訳ではなく、航空機の利用客と直接は結ばれるような利便性はない。)

次の写真は紅白のASRがあった辺りから上手に広がる三角地帯。川沿いに道路に囲われた三角地が出来た経緯は、右岸側の「その4 大師橋から多摩運河までの右岸」(下の方)に詳説しているが、要するに初めてこの地が利用されるようになった際、旧A滑走路の端にJALの整備場が作られ、それに沿って滑走路に平行する道路と、弁天橋から直進してきてその道路に突き当たる道路が敷設された。弁天橋からJALの整備場までの道路は直線的に作られたが、川はここでゆっくり右折していくため、道路がJALの整備場に突き当たる地点では、川と道路との間にかなりの幅が生じるようになっていた。後に道路が更に先の方まで延伸されるようになった時、延伸された道路はJALの整備場を迂回するような形で川側に出てから先に延ばされたため、ここまでの道路と川の間にできていたズレの幅が、そのまま保存されるような形で鋭角部が長い形の三角地が残ったのである。
かつてはここに羽田東急ホテルや三愛石油の燃料受入基地などがあった。然し空港の沖合移転によって、当地にあった建造物は撤去され、川の沿岸部は地元への返還予定地とされている。(三愛石油の桟橋が空港ビルディングに買取られ、一般船舶用の桟橋に改造されて再利用されているが、この土地の権利関係はどのように扱われたのだろうか。)
波止場があるのは三角地の中央からやゝ上手側に寄った位置になるが、道路側を仕切る環八のここには「羽田空港2丁目交差点」のバス停があり、蒲田、大森、川崎などから空港に向かう定期バスの停留所になっている(「羽田空港2丁目」というバス停は別で、ここと弁天橋の中間辺りにある)。
交差点という意味は、ここで環八から左折してビッグバードに短絡する道路が分岐していることを言う。通称{アクセス道路」と呼ばれるこの道路は、国際線のエプロンの北側を直進し、A滑走路や誘導路の区間は地下に潜り、ビッグバードの北にある旧管制塔の北側で地上に出て、湾岸道路のターミナル周回道路に繋がるようになっている。(厳密に言うと、アクセス道路は環八の支線ではなく、湾岸道路(国道357号)の支線という扱いになっている。)

2014年には国際線専用の駐車場が川側に出来上がり、3月に羽田空港は国際線の発着便数を増便した。発着が深夜にはなるようだが、色々な体制が整い今や成田を差し置いて羽田から世界中に飛ぶようになってきている。
2020年のオリンピック開催を見据え、利用客の増加を視野に、京急は京急蒲田を停車せず、空港から品川までをノンストップで繋ぐエアポート快速を走らせている一方、東京モノレールは2014年に17年振りとなる新型車輛(10000型)を導入し、7月から順次営業投入していく予定。新たな鉄道敷設についても、りんかい線から直接空港にアクセスする新線建設案、天空橋の地下を通っているJRの東海道貨物支線を利用する案、東急が京急に乗入れる形で池袋方面から空港までを直結させる通称「蒲蒲線」案など、様々な案が取沙汰されるようになっている。
東京モノレールはオキテンの当初は環八に沿うような経路を採っていたが、国際線ターミナルが出来ることになって、モノレールの新駅が直接ターミナルの3階に設置できるように、経路を変更し軌道を作り直している。

羽田空港は第4滑走路(D滑走路)の建設を皮切りに、オキテンの時代には考えられなかったような、無理に無理を重ねていくような無謀な増設を続けてきた。国際線の復活もそうした経緯の中にあり、すべてのシワ寄せは、煩雑この上無いこの空港で航空機を捌いている管制官に行っている。彼らは官僚であり、上から言われたことを只管実行する立場であって、これは無謀だの危険だのと言えるものではない。実情を最も良く知る現場からの声が出てこない一方で、経済的合理主義からものを言う経済学者やシンクタンクの指導者などの声ばかりが、マスコミを通じて声高に踊り、国民もまた便利になったと喜ぶばかりで、何が行われてきたのかを冷静に振り返る気持ちが無い。福島で事故が起きるまで安全神話に洗脳され、冷静さを欠いていたいた原発への非常識な感覚とどこか似ている。この国の国民性かも知れない。

多摩川の位置の原点となっている零点近傍は、右岸側は蛇行水路時代に殿町の陸地だった所を広く掘削して水路に編入した経緯があって、その後堆積が進み浅瀬化することで、広く干潟が形成されるようになっているが、左岸側も幾らかは掘削されていて、現在干潮時にはかなりの幅で干潟が露出している。もっとも川の改修が行われた当時の陸地は零点近傍までで、その先は広く羽田洲が広がっていた。然し羽田空港の相次ぐ拡張によって、岸の延長線を限界線として埋立が行われたため、「河口」は事実上無くなり、延々と防潮堤が築かれて河口延長水路が出来上がった。そうしてみると、河口延長水路内に見られる干潟は、堆積によって新たに生じた河口干潟ではなく、昔からあった前浜干潟の名残と考えるべきかも知れない。
この辺りから川上にかけてシジミが自然発生し、繁殖していることはかなり前から知られていたが、ここ数年は零点より海側の新D滑走路が作られた近傍で、大きなハマグリが採れるようになって、フィーバーしているが、その一方でそれなりの問題も起きている。品川から大森、羽田、川崎(大師)一帯の内湾沿岸部は、前回の東京オリンピックを控えた時期に、漁業権が東京都に買取られて漁協が解散消滅した経緯があり、アナゴ採りなど僅かな漁民が存続しているが、この海には一切の漁業権が存在しない。
ところがハマグリが採れるということで、鋤簾(じょれん)など専用の用具を使った乱獲が行われ、業者が入ってきて大掛かりに採取されたりもしているようで、ハマグリの絶滅が懸念され、自由採取を規制すべきかどうかで議論になっているのである。
漁業権の設定は漁民に権利を付与する一方、それ相応に対応する資源について保護育成の努力を義務付ける。東京都が漁業権を付与しようとしている大田漁協なるものは一体いつからあって、どういう人達なのかも知らないが、強いて貝類の自然発生に寄与したとすれば、浜の清掃活動を行ってきたのは「羽田ボランティア推進の会」であり、何の努力もしてこなかった人たちに、独占的な権利を付与することには納得がいかないという地元民も少なくない。

[No.73L] は紅白のレーダー塔(ASR)がある航空局の前辺りから対岸を撮っている。ここは「三角地」の端に当たり、もう旧「鈴木新田」を出て旧「字お台場」干拓地に入っている。
戦前の東京湾には、現在見られるような埋立島は殆ど無く、この界隈では唯一、鈴木新田から多摩川に沿う海側に小さな干潟干拓地があった。戦前の鈴木新田は(既に移転により撤去された)羽田東急ホテルがあった辺までで、そこに東貫川と呼ばれる澪があった。その先は「字御台場」と呼ばれる別の埋立地になっていて、海老取川の「稲荷橋」から伸びる道路が「東貫橋」で東貫の澪を越え「お台場」埋立地に続いていた。
  (羽田御台場について [参考15]
[No.73M] はカメラを川上側に振っている。「いすゞモータース」の横文字の看板が見えるが、遅くとも2005年にはこの看板は消えている。「いすゞ自動車」の移転跡地のうち大師橋寄りの半分は「都市基盤整備公団」が購入している。傍目には突然降って湧いたように見えた「空港の神奈川口」構想だが、公団による土地取得は計画的なことだったのだろうか。
神奈川口のメインとなる多摩川の横断は「架橋」になる公算が高く、川崎側にはコンベンションセンターなどが出来る予定だった。常識的にみて「神奈川口」の右岸側の拠点は、公団が土地を取得しているこの看板の周辺になるだろうと思われた。(看板は [No.734] にも写っている)

「神奈川口」構想は、羽田空港の国際化に照準を当てCIQなど空港関連施設の整備促進を目標に掲げていたが、そこまで空港領域を広げることは警備上の負荷が大きすぎるとして結局CIQは取止めとなった。(CIQとは、税関(Customs),出入国管理(Immigration),検疫(Quarantine)の頭文字で,人や貨物が海外と往来する際に必要になる手続業務を指す) その上需要の見込みが明確に立たないことや、架橋等に関する大田区側の強い反対などが重なって「神奈川口」計画は頓挫し、先行してスーパー堤防が構築されていたURの所有地は方向転換し、先端医療研究施設の集積地として整備されるようである。

[No.73N] はホテルを過ぎレーダー下を通り抜けた所。ここで一旦内側に切れ込んでいた環八道路が再び川に向かって出てくる。海老取川沿いの「穴守橋」手前で地下に入り、「天空橋駅」で京急と会合したモノレールは、この地点の少し手前で再び地上に出て環八道と並行する。(自転車の場合には川原伝いには来れないので、弁天橋から環八通り沿いに狭い歩道を通って、東急ホテル前を過ぎればここに出られる。)

車も電気も無い時代の庶民にとっては、船が唯一の便利な高速輸送手段だった。産業道路や大師橋が出来る前、鈴木新田の端(東貫川の手前)の川岸に、「大師の早船」と呼ばれる渡船の発着所があり、右岸中瀬の「新渡し」までを行き来した。戦前まで穴守稲荷はここ鈴木新田の中にあり、たいそう繁盛していたので、穴守稲荷と川崎大師の間を直接結び、参詣客の便宜を図る乗合船が運行されていたのである。
[No.73P] は [No.73N] と同じ位置で川下側を向いている。(左端は環八の街路灯、この突堤の後ろ側は整地された防潮堤敷になる)。一見したところ昔の船着場の跡かと思ってしまうが、位置的にここでは川下に寄り過ぎている。また大正時代の直轄改修工事では、右岸側の耕地が潰され水路の拡幅が図られたが、左岸が全く手付かずのままだったとは考え難く、岸辺が今日まで昔日の面影を残していると想像するには無理がある。 

多摩川の最下流部は六郷橋から大師橋を潜る辺りまではほゞ真東に向かうが、海老取川分流口の近傍で海に向かって30度ほど南に曲がる。多摩川汽水域の左岸からの富士は、川崎の市街地越しの眺望になるが、空港沿岸では川が南に曲がっている分で、先に進むほど前景の川崎ビル群の様子が移り変わっていく。
[No.73X] は2008年の正月に、防潮堤上の多摩運河と向合う位置(左岸0.0km標)で撮っている。最も海側に寄ったこの場所では川崎のビル群は富士の下から右に外れる。(丹沢山地は左端に見えるのが「大山」(1252m)で、その右に表尾根から続く主脈が連なる。最初の峰は「塔ノ岳」(1491m)で最高峰は「蛭ヶ岳」(1672))
[No.73Y] は防潮堤に沿って川上側(レーダー塔の方)へ少し進んでいる。移動距離は、200〜300メートル程度だが、右岸殿町を行く高速道の端は「大山」の下まで後退し、川崎中心地のビル群が富士に近づく。右端で下の方が隠れて見える高層ビルは、2007年JR川崎駅近くに出来た「ラゾーナ・レジデンス」で、このビルは [No.73Z1] では大山の頂上左手側に全体が良く見えている。
[No.73Z][No.73Z1] は東急ホテル跡地や三愛石油の施設を通り過ぎ、慰霊碑のある場所まで戻っている。上の方に載せている富士の多くはここで撮っている。ここから見ると川崎テクノピアのビル群(ソリッドスクエアなど)が富士の真下にくる特徴がある。
(慰霊碑の裏手からはラゾーナ・レジデンスは大山の左に外れた位置になる。2006年以前の写真にはこのビルは存在しない。更に左の比較的新しい「ミューザ川崎」は以前はよく見えていたが、近年では手前側に建物ができたため、ここからでは見えにくくなった。)

ここでは2006年の正月に撮った写真を5枚載せる。場所は羽田東急ホテルがある三角地帯を川下に抜け、環八道路沿いになる防潮堤下の帯状の空地を海方向に下りながら撮ったもの。
最初の [No.73M1] は三角地を抜けた直後の場所で、振返る向きでASRとモノレールを撮っている。モノレールの軌道は国際線ターミナル駅に乗入れる前は、このように環八に沿って川の方に向かっていた。次の [No.73M2] はかなり下った場所でANAのジャンボジェットがA滑走路に着陸するところを撮った。横断して見えるトラスのようなものは、夜間に使用されるA滑走路の誘導灯を設置したものである。次の [No.73M3] は防潮堤の上に、距離の基準点(零点)マークが埋め込まれている場所で、対岸方向を見たもの。中央は多摩運河の開口部で、右岸側の零点標は、運河の川下側にある「日鉄鋼管」の倉庫のような建物がある敷地の角にあるとされるが、私有地になっていて直接確認することは出来ない。
次の [No.73M4] は更に下った場所から対岸を見ている。日鉄鋼管の川下側は「花王」の川崎工場になっていて、ここには写っていないが海運を利用するための船舶も見られる。(写真は [No.762] に掲載している) 最後の [No.73M5] は同じ辺りから対岸の上手方向を見ている。多摩運河の上手側はいすゞの工場が続いていたが、多摩運河の際だけは三愛石油の敷地になっていて、LPガスの球形タンクが並んでいた。三段に見える道路は、下段が浮島通りの浮島橋で、上部の2段はアクアラインで東京湾を横断してきた高速道路の延長で、浮島を縦断して殿町から(建設中の)大師橋JCTまでが目下建設中で、将来的には川崎市を縦貫する高速川崎縦貫道になる。

江戸時代には川舟がもぐりの駄賃稼ぎとして、街道以外の場所で庶民を輸送する「脇渡船」が行われた。その中に「直路(じきろ)」と称し、大森から羽田を経て大師に至る非公式ルートがあったという。往還筋の渡船場・茶屋・旅籠などが、「脇渡船」に客を取られ収入が減って難渋していると、取締りを訴える文書が残されている。(大森から大師に向かう舟はおそらく海老取川を通ったことだろう。)

[No.73Q] は防潮堤沿いに進んで多摩川の距離原点標があるゼロ地点に近づいている。
[No.73R] は同じ場所で浮島の先端方向を見ている。「浮島」から沖合の「風の塔」までは5キロある。(風の塔については「浮島」のページで詳しく説明している。) 「風の塔」から更に5キロ行った所に「海ホタル」があり、東京湾アクアラインはそこから洋上に出る。([No.73R] で「海ホタル」は微かに見えているが橋は遠すぎて見えない。)

更に防潮堤沿いを川下に進むと、対岸の正面に多摩運河の入口が見えるような場所に着く。(写真は [No.761] に掲載している) 今では何の痕跡も無いが、多分その辺りが旧御台場埋立地の東端にあたる。右岸の多摩運河(浮島川の岸)が基準になり、左岸側でもその対岸が”建前上の河口”ということになる。[No.73S] は空港フェンスの外を走るモノレール。

2014年7月に偶々モノレールに乗る機会があったので、モノレールの車内から、ガラス越しにはなるが、どんな写真が撮れるか試しに撮ってみることにした。
[No.73L1] は新たに改修されて出来た船着場の辺りでカチャッ。これは上の方に載せた [No.73K1] とほゞ同じで、高い方から見ている分だけ桟橋が良く見えている程度の違い。次の [No.73L2] は [No.73L1] を撮ったすぐ後で引き続き国際線の専用駐車場近辺でカシャッ。これには [No.73G1] のように環八通りの川側の歩道からでは分からないゲート部が写っている。駐車場の周りには周回道路が出来ているが、ここに入って行く道路はアクセス道路から分岐するようになっていて、環八側からでは見えない。アクセス道路というのは、丁度船着場のある位置で環八通りから左折して、国際線領域の北側を進みビッグバードの周回道路まで短絡して行けるようになっている道路で(A滑走路や周辺の誘導路の区域は地下に潜って横断する)、このアクセス道路が分岐する三叉路があるために、船着場前にあるバス停は「羽田空港2丁目交差点」と称する。次の [No.73L3] はもう少し海の方向に進んで、対岸に多摩運河の開口部が見える位置でカシャッ。これは上に載せている [No.73M3] とほゞ同じ写真になっている。日鉄鋼管の建物は既に綺麗になっていたが、合併により日鉄住金鋼管に社名が変わっている。三愛石油のLPガスタンクが並んでいた運河際の敷地は、ANAのケータリング棟に変わり、機内食の製造・調製業務などが行われている。
次の [No.73L4] と [No.73L5] の2枚は国際線ターミナルビルの中から撮ったもの。[No.73L4] は展望デッキで、ビッグバードの北側方面を撮っている。旧管制塔の北側3棟は気象庁東京航空地方気象台で、その北側に4本のポールが見えるが、2本ずつがそれぞれの道路の両脇にあって、二つの連絡道路を吊っている斜張橋の主塔である。国内線のターミナルビル(ビッグバード)は、中央に湾岸高速や湾岸道路が走り東西に分断された形になっている。そのため湾岸高速などの道路群を跨ぐ多くの連絡道路橋が出来ている。最も良く知られているのはスカイアーチで吊られた双子の中央連絡橋で、その他の橋は鋼箱桁橋が多いが、ここに見えている二つの橋は斜張橋になっている。南側の方は環八から分岐してきたアクセス道路で、ここで橋を下りれば湾岸道路に繋がる。北側の方の斜張橋は「エアサイド連絡橋」と呼ばれている。人の場合、出国審査をパスして搭乗ゲートを潜ったらエアサイドに入り、もうランドサイドには戻れない。「エアサイド連絡橋」から北側の領域は貨物の上屋などで、貨物の場合、税関や検疫という審査がエアサイドとランドサイドを分ける。「エアサイド連絡橋」は北側の貨物エリア全体の外側を周回する道路に繋がるメイン道路で、もっと北側には小規模な貨物地区連絡橋というのもある。最後の [No.73L5] は展望デッキを出て反対側の窓越しにモノレールを撮った。上手側で軌道が降下しているが、ここから地下に入り、天空橋を経て穴守橋を過ぎた先で地上に出て整備場駅に至る。

多摩運河正面の防潮堤の上縁に「海からゼロメートル」の標識が植えられている。(今ここに河口がある訳ではなく、前後に何の変りもない防潮堤が続く途上にある。ここから川下側はマイナス表記ということになる。)
多摩川左岸の距離原点からマイナスの部分は、昭和29年の旧A滑走路延伸時に600mほどが埋められ、次いで昭和36年旧C滑走路が建設された時に200m余りが追加された。(この敷地の角には国土地理院の2級基準点標識が植えられていた。)
   (標識1:原点標)    (標識2:距離標 -600m)    (標識3:2級基準点)
その後オキテンで広大な埋立てが行われ、左岸の川岸は更に大きく伸びることになった。オキテンでは新A滑走路より沖合い側に必要な敷地のみを造成、旧C滑走路の先端部は埋められず、川岸に300mx500m程の切欠を生じている。(新A滑走路先端部も同様に切欠状になっている。 参考図 「空港拡張史」
旧C滑走路の先端部分が埋められなかった経緯については、国は何度か埋める必要があると申し入れたが、大田区側が「残された貴重な環境である」として、その保存を強く求めたため、結局埋められずに残ったといわれている。
[No.73T] 以下は旧C滑走路の先、川岸が切欠かれた形になっている場所での撮影。この場所の手前で環八道路もモノレールも左折しながら地下に入っていく。(このトンネルは地盤が軟弱で掘削するのに大変苦労した所らしい。) 環八道は格納庫の下を通って湾岸道路に接合し、モノレールの方はもう一度左折してターミナル駅に向う。

国土交通省は2002年後半に河口からマイナス部分の防潮堤を全面的に改修増強したが、その際沿岸部への立入を遮断するフェンスを強化した。(空港敷地には環八道路に沿ってフェンスがあるので2重のフェンスを強化したことになる。)
空港には鉄道や一般道を使用することで、中枢部まで誰でも容易に入れるという現実がある。テロリストならこんなところにミサイルなど持ち込んで飛行機を狙うより、ターミナルに突入して暴れた方が余程効果的で実現性も高いと考えるだろう。
警備面から言えば、このような見通しのよい辺境部分に広い緩衝地帯を確保することは過剰だ。こうした発想は、かの「スーパー堤防」を彷彿とさせ国交省の十八番(おはこ)といえるが、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」(論語)という古人の教えをどう考えるだろうか。

もとの空港敷地のうち羽田鈴木町、羽田穴守町、字御台場などの部分は終戦直後に占領軍が接収したところで、1200世帯3000人の住民は戦時下強制疎開のような扱いを受けて退去させられたという。「東京国際空港」は「ハネダエアベース」を譲り受けたとされるが、用地はタダ同然で取得出来たことになるのだろうか。

その後の沖合展開事業は移転した後、跡地を地元に返還する(跡地の利用計画について地元区の要望を十分配慮する)という約束で始められたが、現状ではあちこちで市民を締め出し、必死に監視カメラを覗いている姿が目に浮かぶ。
国土交通省は不要になった跡地の売却収入として1千3百億円を見込んでいると聞いたこともあるが、道義的にみて国交省が売れるような土地はあるのだろうか?
オキテンは間も無く当初計画の全てを完了するが、事態は当初想定されていなかったような「再拡張」に向かって突進んだ。再拡張は海に向かうだけでなく、国際線ターミナル用地など新たな需要が発生したことで、前空港の移転跡地を大きく侵食することになった。
(2004年までに、この区域にあったJALの整備場や日航AEなどの建物は撤去された。羽田東急ホテルもここは閉館となり、第二ターミナルの方に羽田エクセルホテル東急としてオープンした。)
「再拡張」によって、「跡地」が当初想定されていた 165ha から 53ha に縮減された過程で、地元住民の要望が十分に配慮されたとは到底思えない。最終的に「跡地」なるものは残らない公算が強いが、近代に入って何度も「大義」(公共性)の前に犠牲を強いられてきた「羽田の宿命」を考えると、「開放」される筈だった土地が夢と帰したことに対しては、不満より無力感の方が先立つことだろう。


以下オキテンが完了した後の、空港の内部の様子を撮影した写真を参考掲載する。

沖合展開による空港の移転は、第一期として1988年に新A滑走路の供用開始、第二期は1993年に西ターミナルの完成によりターミナルの移転が行われた。第三期は1997年に新C滑走路、2000年に新B滑走路、2004年に東ターミナルが順次供用を開始した。
A、B滑走路はともに海側コースのみの使用に限られ、両方向に離発着可能なC滑走路は、以下のような使い分けがなされる。南風好天時はA離陸C着陸(城南島方向)、南風悪天候時はA又はC離陸(東京湾方向)B着陸、北風時はC離陸(城南島方向)A着陸。
但しC滑走路を城南島方向で使用する場合には、離発着とも大井埠頭の上空で旋回する(東京の市街地上空を避ける)海側ルートを飛行する。

A滑走路に向いて先に作られた西ターミナルは、現在では第一旅客ターミナルと呼ばれる。A滑走路側のエプロンは主としてJALが使用し、ターミナル1にはJALのカウンターや乗降口がある。
[No.73A1] 「No.73A2] はターミナル1の展望デッキから、A滑走路に着陸する降下中の機体を撮った。背後は多摩川越しに首都高速の浮島ジャンクション方面。
[No.73A3] は着陸後の機体で、これも偶々JALになっているが、滑走路自体はすべての機に同一使用される。(背景はモノレールの後ろに大師橋やスポッチャ、その後方には川崎中心地のラゾ−ナ、ミューザ、ドコモ、市民病院などのビルが見えている。)

沖合展開された新空港は中央に高速湾岸線が走り、この高速道路を何箇所もの連絡橋が跨いでいる。新らしい羽田空港のランドマークになっているのは、鼓(つづみ)状に織られたケーブルで橋桁を吊るアーチ式の連絡橋だ。
[No.73B1] [No.73B2] は2008年5月初旬に、第一ターミナルから第二ターミナル方向を向いて撮った。両側の建物は駐車場で、奥にC滑走路が見えている。
新しい空港のシンボル「羽田スカイアーチ」は、湾岸道路を挟む東西のターミナル地区を結ぶ双子の連絡橋(東京国際空港中央南北連絡橋)を吊る、(世界初の)「主塔アーチ型斜張橋」の主塔である。「ラセットブラウン」という(紫がかった赤い)色のアーチは、長さ160メートル高さ44.5メートルで、南北二つの橋桁を28本のケーブルで吊っている。(西側に偏った位置から全体を吊っているので、ワイヤーの張り方は東西対称ではなく、各々西側5本東側9本の計28本である。)

羽田空港はオキテンの後再拡張することになり、現在4本目の滑走路(D滑走路)を建設中だが、D滑走路はC滑走路の端から2キロメートルほど遠くにあり、現管制塔からではその全域を十分に目視することが出来ない。そこで国交省東京航空局は2005年に、現管制塔より38メートル高い116メートルの新管制塔を建設することにした。
[No.73B3a] は、11月下旬の晴れた日に北を向いて、現管制塔の南200メートルほどの位置に建設中の新管制塔を撮った。[No.73B4] は同じ日に撮ったスカイアーチ。

先に作られた西ターミナルが供用開始された11年後、C滑走路に向いた海側に東ターミナルが竣工、こちらは第二旅客ターミナルと呼ばれる。C滑走路側のこちらのエプロンは主としてANAが使用し、ターミナル2にはANAの乗降口がある。(但しA滑走路同様、滑走路自体は全ての機が使用する。例えば北風でA着陸、C離陸の体制が採られている場合には、離陸するJAL機はA滑走路側のエプロンで乗客を搭乗させ貨物を積み込んだ後、誘導路を通ってC滑走路側に回ってきて離陸することになる。)
C滑走路の背景となっている海は、東京湾第一航路と呼ばれ、大井埠頭を出入りするコンテナ船など、船舶の往来が多い海域である。
[No.73C1] はJAL機が城南島方向に離陸する瞬間だが、手前のエプロンではANA機が貨物室に荷物を積み込む様子を捉えている。次の [No.73C2] は離陸態勢を整えたジャンボジェットが、滑走路南端の発進場所まで、誘導路を進んでいく様子。[No.73C3] はこの機の離陸の瞬間である。(ボーイング747-400Dは主翼端のウィングレットが無い。)

偶々子供たちに人気のポケモンジェットがいた。写りはイマイチだったので、(尾翼のピカチュウが良く撮れていた)1枚のみをギャラリーに掲載し、他は小画像で参考掲示とした。[No.73C4] はエプロンから「始動」した後、滑走路の発進地点に向かう途中で、誘導路上の姿を撮ったもの。(「お花ジャンボ」 Boeing 747-481D)

  (エプロン)  (尾翼)  (始動)  (離陸)

マークはクリックでなく、カーソルをその上に載せている間だけ参考写真が開く。)



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