第七部 「河口」 周辺 

(海老取川周辺の地図を表示)

   その2 海老取川

(小さな写真にはそれぞれ数枚ずつ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
マークはクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

多摩川河口の扇状地(デルタ)はガス橋近辺から始まる。北側の境界線は武蔵野台地南縁(千鳥町・池上本門寺・大森山王を結ぶ線)にあり、西側では鶴見川と重なり、下末吉台地東縁でおさえられた南東面に広がっている。海岸線は、品川から大森署までは旧東海道、その南は産業道路(大師橋から南は首都高速横羽線と重なる)に沿うラインの辺りで、大森南・東糀谷など海側の区域は早い時期に干拓され陸化が図られたところである。

現在地図上で「海老取川」とされているものの、南前堀入口から海側にあたる、幅が拡大した水路部分は、もともとは海だった所である。要嶋の北側が飛行場用地として埋立てられ、その敷地が後年更に拡大されることによって、海岸沿いに海が仕切られて運河状になり、「海老取川」の河口延長水路になった。現在では、多摩川本流のケースに倣い広意に解釈して、海老取運河を含む高速道可動橋(現在は使用されていない)の位置までの全てを「海老取川」と称するようである。
近代までの海老取川は(現在モノレールの整備場駅がある先、高速横羽線が横断する位置までの)長さが1.2kmほどのもので、川幅は一部に淀みがあって50m程度広い所もあるが、大体の場所で流路幅は20m〜30m程度である。一方首都高速橋のある場所から先長さ700mほどの運河部分(河口延長水路)では、水路幅は150mほどに膨らみ、呑川河口から先の出口部分でやゝ狭く100m程度になっている。
このページでは、弁天橋から羽田可動橋まで、「海老取川」の全区間を紹介し、さらに付録として、「海老取川」河口を取巻く周辺の景色を少し掲載してある。

近世に大森から羽田までの海側干拓が行われるまで、海老取川は多摩川河口に幾筋もあった砂洲上の澪(みお)のような存在であったと想像される。江戸時代中期には干拓新田の護岸強化工事が行われる一方、海老取川右岸の砂洲も請負干拓され、やがて分村して鈴木新田と呼ばれるまでになった。(多摩川本流と海老取川の澪筋で仕切られた遠浅の海浜は、近世には扇ヶ浦と称され、扇の要の位置にあたる洲は要嶋と呼ばれていた。)
近世、当地域の中心地は羽田猟師町にあり、海老取川は猟師町と大森方面を繋ぐ水運要路となっていたため、干拓の進行にあっても埋められることはなく、澪だったところは残されて派川になった。(因みに神奈川方面に出る場合には八幡澪が利用された。)
江戸時代中期の「新編武蔵風土記稿」には既に海老取川についての記載があり、大田南畝も「調布日記」の中の、(弁天社に行くところで)、「蝦(えび)取橋といふを渡りて」と書いている。
明治時代には鈴木新田に羽田鈴木町、羽田穴守町ができ、昭和初期には海老取川右岸に沿う鈴木新田の北側も埋立てられ羽田江戸見町が生まれ飛行場になった。

左の [No.53A] は対岸(右岸)の殿町地先から、本川越しに海老取川への分流口を見たもの。川下側からなので防潮堤しか見えないが、曰く因縁ある朱塗りの大鳥居の裾辺りに、横向きで白く渡されて見えるのが改架された新弁天橋である。

2007年の台風9号は、太平洋を北上して日本列島に接近し、9月7日未明、伊豆半島の東海岸沿いを伝って小田原市西部に上陸した。この台風で東海から関東甲信地方に強風雨が広がり、7日までの奥多摩町の総降水量は700ミリ近くに達した。
(2007年の台風9号についての詳細は、「第四部 多摩川緑地」の 「その4 多摩川緑地(下)」 の中に載せてある。)

当地では朝方は未だ小雨が残る天候で、河川敷も一面泥流が下る状況だったが、午後は徐々に水位が下がり洪水は解消されていった。
[No.72B] [No.72C] [No.72D] は午後3時40分頃で、既に水位はかなり下がっていた時刻だが、弁天橋下には未だかなりの流れがあった。海老取川は、平時には潮の干満に従って水位が上下するだけの運河のような地形だが、川の水位が上がる洪水時には、この川も激しく濁流が下り、これが支流ではなく派川であることがはっきり確認される。
ただこの時点での水位程度にまで下がってしまうと、見た目でははっきり流れていることが分かるものの、写真はなかなか明瞭なものは得られない。([No.72D] は新弁天橋の上から撮った。左岸に近い部分の本流から、堰堤のように川底に積まれた「五十間鼻」に遮られながらも、迂回流のような形で海老取川に入ってくる流れを捉えている。)


海老取川の河口(延長水路)は森ヶ崎海岸に開口している。海老取川は川から海に至る「派川」に間違いないのだが、弁天橋の近辺だけを見た人の中には、海老取川を多摩川の支流と錯覚してしまう人が少なくない。(国土交通省京浜河川事務所のHPが海老取川の多摩川口を「合流点」と記しているのは情けないことだ。正しくは「分流点」と書くべきである。)
多摩川が分流して海老取川となる弁天橋口は海に近く、一般に汽水域では水位は潮の干満に従い、大潮の上げ潮時にはここが合流点のように見えることがあるかもしれないが、平時には川がどちらに流れているかは普通判別できない。ただ洪水時には紛れなく「分流」が確認できるので、支流という呼称は明らかに不正確な表現だ。弁天橋のところで、海老取川が多摩川を遡るような方向に分流している川筋の形が、見慣れない人には、何となくこちら(多摩川)に流れてくるように錯覚させるのであろう。

弁天橋は老朽化が著しく貨物車輌を制限するなどしていたが、2000年に入ってから改架が図られ、小型の橋ながら相当な年数を掛けて工事が行われ、見ていた我々には開通した時には、やっと完成したかという感じだった。

海老取川の多摩川からの流入部に、左岸の防潮堤の下から空港方向に突き出して流路を遮るように造られた「五十間鼻」と称する低い石造りの突堤がある。「五十間鼻」は満潮時には向い側の砂洲共々水没してしまう高さなので [No.723] では隠れていて見えない。
この手の石組み(水制工)は通称「カメノコ」と呼ばれ、これより上手側の左岸には、かなりの場所で造られていた。(古川地区に最近まで残っていたものは、2005年の高水敷造成時に埋められた。大師橋緑地の上手端に一箇所痕跡が残されている。)

 参考のために上の写真を撮っている位置から、数メートル上手側に回った位置で撮った干潮時の「五十間鼻」写真を下に載せた。

   (参考:カメノコ) 

「史誌34号」の「座談会−羽田(1)」によれば、これは昔の人が大水の時に対岸側の鈴木町が抉(えぐ)り取られないように造った堰堤(えんてい)で、当地には同じような”カメノコ”が、大師橋の上手側から飛び飛びに5つほどあったそうである。
海老取川のように本流から分かれて流下するものは派川と呼ばれる。ここでは入口も出口も海のように見えるが、台風などで川が増水した場合には、多摩川口から昭和島の方向に濁流が勢いよく流下し、洪水ともなれば本流から海老取川に吸込まれていく流れは、反転するような形で要嶋(現在大鳥居がある場所)に激しく衝突し地盤を洗掘する。カメノコは(有名な弁慶籠と似たような仕組みで)、左岸に沿う洪水の流速を少しでも下げておきたいとする昔の人の工夫である。

海老取川の入口に架かる弁天橋は、2002年当時は架け替え工事の真っ最中にあり、[No.721] で手前に見えるブルーの欄干は、2002年後半に渡された人道用の仮設橋である。 [No.722] は [No.732] に少し見えている出洲の上で、この洲は [No.73A] を撮っているところまで、下流側に数百メートル続いているが満潮時は水没する。
この辺の岸寄り一帯に洲が出来るのは、ここが本流から反転して海老取川に吸込まれていく分流と、真直ぐ下る本流の境目になっていて、この辺では流れが渦を巻いたりデッドになったりするためである。

以前は海老取川を越える車道は弁天橋しかなかった。近年川下側に環八道の穴守橋が開通したことから、老朽化が激しく重量制限で大型車が通行できない状態にあった弁天橋の改架が行われた。
弁天橋は見た目小さな橋だが、改架には結構な年月を要した。空港側の弁天橋のたもとは、かつて稲荷社の一部だった朱塗りの大鳥居が移転されていて、空港沿岸に向けた景色が絵になりやすい所だが、改架工事が行われているあいだは、重機や仮設小屋などあって、とても写真を撮る気にはならなかったものである。

[No.723] は弁天橋の袂から川下側を見たところ。[No,724] は天空橋、見出しの小画像は川下側右岸から左岸方向に天空橋を見ている。天空橋は人と二輪車の専用橋。外観は異様な感じを受けるが中はさっぱりしている。
京浜電気鉄道(京急)は戦前海老取川を鉄橋で越え、穴守町まで延伸されていた。終戦とともに接収され、その後穴守町は空港用地となったため廃線。平成5年(1993)念願の空港乗入れを果たし、地下に羽田駅が出来た。駅と対岸の羽田5丁目との通行の便を図るため、もと鉄橋があった位置に人道橋を架けたのがこの天空橋である。名前の由来は知らないが、外観は鉄橋時代の面影を留める意味でこのようになったと聞く。

[No.725] [No.726] [No.72G] は稲荷橋。(見出しの小画像は右岸側の親柱)
この辺り左岸は防潮堤だが、右岸には高水護岸が施されている。稲荷橋の橋脚は不思議な形をしている。古いことには間違いないが、単に昔の造りということ以上に宗教的な雰囲気を感じさせる。朱塗りが象徴しているように、戦前までこの稲荷橋は稲荷社を参詣する人が通行した。
戦後稲荷社は穴守町から追出されて羽田5丁目に移り、川下側には完備した環八道路の穴守橋ができている。この稲荷橋は今では引退し通行には供されていない。
古い資料によると、戦前まで鈴木新田(旧空港用地)に入るには、海老取川の南口を渡る弁天橋と、中央部の稲荷橋の二つがあった。
本流側の弁天橋通りは六郷と羽田をつなぐ府道で、終戦当時は、弁天橋を渡ると羽田灯台の官舎に並んで羽田弁天(玉川弁天)があり、東貫川の堤防際に明電舎があった。中央の稲荷橋通りは産業道路(指定十六号線)の大鳥居から稲荷橋に通ずる2級国道13号線で、稲荷橋を渡ると北側に小学校や戦時工場の社宅などがあり、東側の奥は稲荷社の回りに鉱泉宿が立並んでいた、などのことが知られる。

稲荷橋通りは神社があった穴守が終点ではなく、東貫橋で東貫川を越え、旧御台場跡の埋立地に続いていた。戦時下の字御台場には日本特殊鋼羽田工場があり、海側の旧競馬場の跡地は高射砲陣地になっていた。 (羽田御台場について [参考15]
戦前まで鈴木新田の北東側一帯にはカモ猟場が幾つもあり、北東面には水泳場や競馬場などもあった。海岸は海水浴場になっていて、鈴木新田全体が歓楽街や行楽地として賑わっていた。(京浜電鉄が蒲田から乗入れていた。停車場は海老取川の直前に「稲荷橋」があり、鉄橋で川を越えた終点は「穴守」といった。)

昭和4年逓信省航空局は、民間飛行場の用地として、鈴木新田に隣接した北側に埋立地を選定し、昭和6年(1931)に面積16万坪で、300M×15Mの滑走路1本を有する飛行場が完成、東京飛行場が立川陸軍飛行場から羽田に移転してきた。
その後羽田飛行場は昭和14年に鈴木新田の北東面にあった京浜電鉄運動場を買収するなどして南側に拡張され、滑走路は800M×80Mのもの2本が整備されるようになった。この飛行場の開設が当地のその後の運命を決定付けることに繋がっていった。
(羽田空港の拡張史については、「黎明期からオキテンまで」 [参考16]

[No.730] [No.727a] は、環八道路が大鳥居から真っ直ぐ空港に乗入れてきた際、海老取川を越える第2の車道橋として作られた穴守橋。(稲荷橋の上から撮っている。)
穴守橋は、手前の宗教的で古式蒼然とした稲荷橋とは対照的に、近代的な雰囲気にデザインされた。親柱は飛行機を模した飾りをモチーフにしていて、欄干には歴史的なモデルの飛行機を切抜いたレリーフが数多く配置されている。
広い空間にマッチするような重厚さがあり、それでいて清新な印象も感じさせる。小さいながらも全体に美的装飾性に配慮した立派な橋だ。空港の入口に作られた新しい橋がこのような感じに作られたことは喜ばしい。
   (欄干レリーフ)   (欄干レリーフ)   (親柱と照明)

[No.728a] は右岸側の橋上から。真下の道路は環八道路から首都高速[空港西ランプ]に向う分岐線、昭和島方面から来たモノレールは「整備場」を経た後、ここで一旦地下に潜り、天空橋駅で京急電鉄線と接合する。左岸の元羽田東急ホテルがあった近辺で地上に出るが、滑走路の横断時には環八共々で又地下に入る。
京急電鉄線はビッグバードまで延伸する工事期間中、天空橋駅(旧駅名:羽田)が終点だったので、お客の利便性上モノレールと連絡しておくことは重要な意味があった。(双方の軌道は今度作られる国際線ターミナル駅まで並行することになる。)

[No.72M] は穴守橋から左岸側を下った先。荏原製作所の裏手でフェンスに突き当たり、そこからは川沿いを進むことは出来なくなる。更に海老取川の河口方面を目指す場合には工場を大きく迂回するようになる。

都心の方から来た首都高速1号線は、森が崎から一旦空港敷地に渡るが、空港西出口を作った後すぐ又羽田側に戻ってくる。[No.72J] はその戻り橋を、穴守橋の上からズームを掛けて見たところで、中央遠くに東京タワーが見えている。
[No.72K] はモノレール・整備場駅下の海老取川右岸で同じ橋を撮っている。この後首都高は「南前堀」から「六間堀」の上を通って多摩川横断地点に向う。
「南前堀」は海老取川から西側に向けて掘られていた運河状水路の一つ。「六間堀」は、「南前堀」を海老取川口から500mほど行った地点で、大鳥居方面に直進する本流から分岐し、左折して六郷川の方向に600m近く掘られていた「南前堀」の支流。
先の方はどちらも水路としてはもう現存しないが、弁天橋通りが首都高速と交叉する場所に今でも「六間堀」というバス停がある。弁天橋通りは六郷川の北側400m余りのところを通っているが、以前六間堀がその近くまで掘られていた名残である。
[No.72L] はモノレールの「整備場」駅の下で、上流側(穴守橋方向)を見ている。この辺りがもとは海老取川の河口だったところで、この先(川下側)川幅が急拡大するように見えるが、空港側が新に埋立てられたためで、左岸側はほゞ以前の海岸線である。


ここから先は河口延長水路。

海老取川の河口(左岸)から、京急大鳥居の方向に向かう南前堀があり、その途中から南に分岐し多摩川の方向に向かう「六間堀」が、弁天橋通りに突当る場所まで掘られていた。六間堀は遠浅で港の無い羽田浦が、暴風雨や高潮などの際に漁船を退避させるために造った運河だったと思われる。内湾漁業が終焉し羽田や大森から漁船が消え、この堀は無用の長物になった。海老取川に開口する部分では堀は水路の痕跡を留め、船溜りとなっているが、堀の主要部は南前堀、北前堀とも埋められた跡が細長い緑地になっている。六間堀の方は環八までは緑地にされたが、その先ではもう跡形も無い。
(首都高1号線の高架路は、空港西から多摩川までは南前堀〜六間堀の上を伝って建設された。[参考16] に載せている絵図「羽田空港拡張史」を作る際、古い地図や航空写真の向きと縮尺を合せるのに苦心したが、海老取川入口の弁天橋沿岸を基点とし、六間堀と首都高1号線が重なるように合せる方法で大体上手くいった。)

[No.72N] [No.72P] [No.72Q] はほゞ同じ場所、右岸の首都高1号線橋梁を過ぎた位置で、川幅が広くなった対岸側を撮っている。ここから可動橋がある場所までの水路は、多摩川本流のケースに似て、この先は海老取川の「河口延長水路」ということになる。
首都高橋梁(下は南前堀)の角は羽田中学で、その隣に東糀谷ポンプ所がある。屋上は「あおぞら公園」と呼ばれる公園の作りになっていて、ポンプ所の下手側は北前堀の名残を留める水路になっている。(この辺から呑川河口までの水路幅は300メートル程度ある)

河口延長水路を更に海側に進むと呑川の河口が見えてくる。[No.72N] [No.72P] は右岸側から水路越しに呑川の河口を見たところ。[No.72Q] は実際に左岸側で(河口に最も近い)旭橋から呑川の上流方向を見たものである。
下に近代以降の当地周辺の地図を4枚載せてある。呑川の最下流部は、昭和の初期までは今の位置とは違う場所を流れていたことが分かる。近代までの呑川最下流部は、京急蒲田を過ぎたところで南側に湾曲した後、(現在東蒲中学がある地点からは、途中で蛇行しながらも)真東から約30度北側に振れた方向に流れていた。
この水路は氾濫することが多かったといわれ、昭和10年頃に(東蒲中学から)真東に進む呑川運河が開削された。「藤兵衛堀」が利用されたと言われている。明治期の地図を見ると、呑川運河が作られた海側1KMほどの区間には(後に北前堀になった水路に平行した北側に)既に古い水路のあったことが分かる。その水路の端は現在「末広橋」がある辺りまで達しているが、「末広橋」の100メートル余り海側に「藤兵衛橋」の名前が残っている。
昭和前期には新旧の水路が併用され、蒲田以降が二股状態になって流れていた時期があるようだが、その後地上の水路は新呑川に限定され、旧呑川は水門部のみを残して暗渠化された。(埋められた地上跡は緑道になっている。)
対岸の「江戸見町」が埋立てられたのが正確に何時かは分からないが、飛行場の工事は昭和4年に着工し6年に竣工している。呑川運河が開削されたのは昭和10年前後と思われるので、新呑川を掘って羽田飛行場の埋立を行ったということではないようだ。

海老取川の河口延長水路が海に開口する位置に、首都高速1号線の「羽田可動橋」がある。本線はトンネルで森ヶ崎海岸と空港敷地を繋ぐようになっているが、この可動橋は渋滞を緩和する目的で補充的に(上り1車線分)通行量の増加を図ることを可能にしている。ただ実際には湾岸道路が出来て交通量は緩和され、この可動橋は既に10年近く使用されていないらしい。撤去されることもなく水路を開放した状態でスタンバイしている。
[No.72R] は左岸の呑川河口角(緑道公園の南端)から撮った全体図で、[No.72S] は左岸側の拡大、[No.72T] は同じものを右岸から見たものである。(端面「おしらせ」には「水面上の高さ4.5メートルをこえる船舶は下記の日時以外は通行できません。休日午前8時から午後5時まで、〜」などのことが書かれている。)
この橋は左岸側からよく見えるが、それでも初めて見る人には、何がどうなっているのかさっぱり分からない。勝鬨橋のように橋桁が跳ね上がって航路を明けるのではなく、2片の橋桁が水面と平行な平面上で旋回して航路を明ける仕組みになっている。

 グーグル航空写真  (首都高1号羽田可動橋:カーソルを矢印マークに載せる)

上掲写真で橋桁2本が水路と平行になるまで旋回して、中央に航路を明けている様子が分かる。橋桁はそれぞれ中心部に旋回軸となる橋柱があり、岸側の一端を駆動して30〜40度位旋回するようになっていると思われる。この状態から左回りに旋回すれば2本の橋桁が連結して道路が開通する。(本線とモノレールは地下、右下に出入り口が見えている)


以下の「羽田・糀谷周辺図」は、多摩川から呑川までの周辺区域について、近代以降の変遷を確認する資料として掲載した。多摩川の河口域、海老取川、鈴木新田、呑川などについて、その変化の様子を見比べることができる。
(各クリックで別ウィンドウに表示)

(近代の「羽田・糀谷」周辺図:明治前期) (明治後期) (大正期) (昭和初期) (現代:Google)

[明治前期]
 多摩川河口域の水路はどこが本流か判らないような分岐になっている。海老取川はほゞ右岸の八幡澪に相対する対岸で分岐し、流路幅は狭いものの、その河口から大森海岸沖に向けた海中に、羽田洲を切り裂くような太い澪筋が描かれている。この当時海老取川にこのような流れの認識があったことには注目しておきたい。

[明治後期]
 近代の多摩川汽水域の代表的な地図といえる。河口ではメイン水路が確定し、呑川の位置も明瞭に描かれている。呑川から多摩川までの間には海岸に何本も水路が刻まれていたことが分かる。
京急電鉄線が蒲田から引かれ、海老取川を超えて東貫川(羽田お台場との境)の近くまで達している。終点は「穴守」で駅前から北側に参道があり、穴守稲荷社の西側は鴨猟場になっていた。

[大正期]
明治後期と大差はないが、鈴木新田の北東の角(穴守稲荷の背後)が新に埋立拡張されている。一帯は「穴守遊園地」と呼ばれ、水泳場、競馬場、釣堀などがあり、新たに埋立てられた部分の北側面は海水浴場になっていた。海老取川の川幅は狭い所で30メートル、広い所で80メートルほどである。

[昭和前期]
大師橋が竣工したのは昭和14年で、この地図はその頃のものと思われる。多摩川では直轄改修工事による新堤ができているが、低水路には殆ど手が加えられておらず蛇行水路のまま残されている。河口の右岸側では、現在の殿町3丁目部分(末広島や三本葦の部分)が未だ造成されていない。
昭和初期に鈴木新田の北側が埋立てられ飛行場ができていたが、この時期には南進して穴守遊園地の運動場を併合し、滑走路が2本に拡充されている。昭和初期から海老取川の河口先は運河状態になった。
東蒲田から真東に呑川運河が開削され、呑川の最下流部は二股の流れになった。新呑川の河口北岸(現在大森一中と森ヶ崎水処理センターがある場所)は魚介養殖場になっていたようである。

[現代:Google]
羽田東急ホテルの跡地が更地化され、新大師橋が竣工しているように見えるのでかなり新しい。多摩川の低水路では、右岸中瀬から大師河原水門にかけて、ねずみ島から海方向、殿町3丁目地先一帯などに大きな堆積地の進行が窺われる。


以下「海老取川」河口を取巻く周辺の標準的な景色から、「旧呑川」「昭和島」「京浜島」の近辺について各3枚ずつ掲載した。(それぞれの位置関係は冒頭にリンクしてある「海老取川周辺図」を参照。)

「海老取川」の左岸を穴守橋の方から下ってくると、直に行く手を阻まれ川沿いを進むことは出来なくなる。そこで荏原製作所を迂回するように西に回って進み、南前堀、北前堀、呑川を過ぎて、(旧)呑川のところで海側に進むと、海岸で海老取川の河口延長水路より幾分幅の狭い水路岸に出る。自転車で初めてこうして来た時は、正直ここも海老取川の続きだと思った。
この辺りに結構多く設置されているサイクリングロードマップ(大井・羽田コース)の看板をよく見ると、実際には呑川を渡った辺りで海老取川は既に終わっていて、ここは別の埋立地「昭和島」との間の運河だと分かった。
昭和島は(品川側にあって陸続きの)平和島と羽田空港の中間に作られていて、高速道路やモノレールの足場になっている。大森東や大森南の海岸とは運河で仕切られ、唯一「大森東避難橋」が歩行者や自転車の行き来を可能にしている。「大森東避難橋」の上り口は、(旧)呑川の河口にある呑川水門の隣にある。
(旧)呑川で今も水路が残るのは水門の近辺だけ。東蒲中から河口までの水路は戦後埋められ、その跡は緑道公園になっている。東蒲中から水門までの、途中で蛇行した旧呑川水路は、現在の道路地図上でもはっきり確認することが出来る。
[No.72X1] は呑川水門の羽田側からみた「大森東避難橋」の全容。[No.72X2] (左小画像)は水門から船溜りとして僅かに残る水路を見たもの。[No.72X3] は「大森東避難橋」の上から見下ろした呑川水門。

[No.72Y1] は「大森東避難橋」の上から北側を見たところで、正面に見える左岸側の砂浜のようなものは、「大森ふるさとの浜辺公園」と呼ばれる人工の浜辺で、ここでは海苔の養殖なども行っているそうである。
昭和島は小さい島だが、近辺の埋立地を結ぶ拠点のような感じの場所で、平和島から「南海橋」を通って昭和島に来た首都高速1号羽田線(及び東京モノレール)は、昭和島を経て森ヶ崎海岸に渡り、更に羽田空港西岸へと進む。一方1号線とほゞ平行する湾岸線は、大井埠頭から京浜島を経て(トンネルで)羽田空港の中心部に進むが、大井埠頭の南端に分岐したラインがあり、昭和島で羽田線と行き来できるようになっている。
[No.72Y2] [No.72Y3] は昭和島の北東の角で撮っている。ここは京浜運河が十字路になった一角で、3方は平和島・大井埠頭(東海)・京浜島に面している。
[No.72Y2] は大森海岸を振返る方向で湾岸線と羽田線を繋ぐ高速道を見ている。橋の左下に見えるのはモノレールで、昭和島から平和島(流通センター)方向に向かう。中央遠方は平和島と大井埠頭を繋ぐ「大和大橋」(環七通り)。尚、JR貨物鉄道も大井埠頭から昭和島を経て空港西岸に向かうが、こちらは野鳥公園で地下に潜り、以後川崎貨物駅までは地下鉄となるので、この辺りで目視されることはない。
[No.72Y3] (左小画像)はほゞ同じ位置で右を向いて、大井埠頭と京浜島の間を見ている。「京浜大橋」は大井埠頭から空港(環八)まで湾岸線に並行する湾岸道路。正面大井埠頭南端地区は、中央に大田市場があり、背後は東京港野鳥公園になっている。

京浜島は羽田空港の北側にあり、東京港大井埠頭と羽田空港の間に位置する。高速湾岸線と湾岸道路の足場となっており、大森海岸方向とは昭和島を経由してのみ繋がる。昭和島と京浜島を繋ぐ「京和橋」は橋自身が湾曲した車道歩道兼用橋。
[No.72Z1] は昭和島から「京和橋」を渡った場所で振返って撮ったもの。橋は中央が高く、冬場の晴天日には富士山が良く見える。ここから見た富士は羽田から見るより格好がいいと思うが、残念ながら手前のプレハブなどが邪魔をするので、写真を撮るのに魅力的な推奨ポイントとまでは言えない。
  京和橋上から見た富士  (カーソルを矢印マークに載せる)

京浜島緑道公園 [No.72Z2] は、昭和島から「京和橋」を渡って直ぐ右手に折れ、湾岸道路に沿って南下した場所で、この島の最南端にあたる。南西方向に富士を見ている。運河の対岸は空港敷地である。
[No.72Z2] を撮った位置から空港に向合う北東面は細く緑道公園になっていて、終点に近い位置に「京浜島つばさ公園」がある。 [No.72Z3] はつばさ公園、左小画像はその途中 (昭和島から「京和橋」を渡って真っ直ぐ海岸に向かえばつばさ公園に出る。)
「京浜島つばさ公園」は小さな公園で特に何がある訳ではないが、B滑走路に平行しC滑走路のコース真下にも近いので、京浜島の北東方向にある「城南島海浜公園」と並び、飛行機ファンにはよく知られた場所になっている。



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