第七部 「河口」 周辺 

(大師橋周辺の地図を表示)

   その1 大師橋と左岸の防潮堤地区

(小さな写真にはそれぞれ数枚ずつ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
マークはクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

 
大師橋は産業道路が河口近くの六郷川を渡る橋で、初代の大師橋は昭和11年に起工され昭和14年に開通した。
左岸側では、橋の下が古い時代の長照寺の跡地になっていて、たくさんの人骨が出て、地蔵尊を作って供養したり、工事中に支那事変が起こったため、鉄の使用制限にかかり、鉄の欄干の予定がコンクリートに設計変更になるなどのことがあったという。 (「大田区の歩み」より)

   (参考:旧大師橋 右岸上手より)

旧大師橋は一見したところ吊り橋のように見えるトラスを持った、下路形式のゲルバー式トラス橋で、工費131万円の1/3は国庫補助、1.2/3は東京都、0.8/3は神奈川県の負担で施工された。
全長522メートル、幅16メートル、多摩川に架かる橋梁中最も長いもので、完成当時はこのタイプの橋としては東洋一ともいわれた。
(旧大師橋に類型の現役橋としては、信濃川の長生橋、木津川の泉大橋、北上川の珊瑚橋、犀川の丹波島橋などがあるが、外観は変形トラスという印象が強く旧大師橋とはあまり似ていない。旧大師橋はトラスの上縁が吊橋を彷彿させるように大きく滑らかにカーブし、外見の優雅な美しさは群を抜いていた。なお現在見る旧大師橋の写真には例外なく片方にテレビ塔のようなものが付いているが、私の記憶に誤りが無ければ、昭和中期頃までの大師橋には頂上にこのテレビ塔のような見苦しいものは無かった。これを付けたことで大師橋の景観が著しく損なわれたことは否めない。)


新大師橋全景(川上側から)
 

平成3年度から始められた大師橋改架工事の事業主体は川崎市で、東京都との共同事業として行われた。総工費370億円。
新大師橋の全長は旧大師橋よりやや長い550メートル、幅員は旧橋の2倍近い31.5メートルで、両側に各4メートルの歩道を完備した6車線道路である。橋梁形式は、斜張橋と鋼箱桁橋を繋いだもので、上り線と下り線で斜張橋の位置を対称にすることによって、完成時に旧大師橋のイメージに似た外観となることを目的とした。
工事は、先に旧橋に隣接して川下側に架けられた下り側3車線分が完成し、平成9年9月に上り2車線下り1車線の形で暫定的に供用された。この片橋暫定供用の期間は9年間に及んだ。その間に旧橋の撤去作業が行われ、その場所に上り側3車線分の架橋工事が行われた。平成18年に上り橋が完成し11月11日に開通式が執り行われた。

    (参考:旧大師橋撤去中)

上り線橋梁の工事が始まっていた2002年頃、当地に「旧大師橋撤去工事について」と題した掲示板が設置されていた。上に載せた参考図は、その掲示板中に載っていた写真の1枚を転載したものである。正面奥は右岸、左側は既に開通し暫定供用が行われていた下り橋で、その右側に並ぶ3本足の橋脚が撤去される前の旧大師橋の橋脚。周囲に重機を載せる桟台が幾つも設置されている時期の様子が写っている。

普通の吊橋は、塔の上にメインケーブルを渡して両端をアンカレイジで固定し、このメインケーブルからハンガーロープを垂らして橋桁を吊る。普通の吊橋ではケーブルを張るために塔は少なくとも2本は必要だが、斜張橋は主塔から直接ワイヤーロープを橋桁に張って吊り支えるので、この新大師橋のように塔は1本でも可能な方式である。

新大師橋は上り線と下り線を対称に配置した「シンメトリー」を特徴とするが、細かく見れば以下に挙げたような微妙な「アシメトリー」を含んでいる。
右岸側は低く堤防すれすれに下がってくるので橋台がある。一方左岸側では防潮堤を高架で越えた位置に橋脚があり、大師橋はここまでで、地上に降りるスロープ部分は「大師橋取付陸橋」と称する別の橋になっていて、大師橋は左岸側には橋台がない。
新大師橋の斜張橋部分は、大雑把な長さ300メートルあるが、主塔の位置は中央ではなく、岸側:澪筋側=1:2になる位置にある。このため斜材(ワイヤー)の勾配は中央側が緩やかになり、旧大師橋のトラスのイメージに似た雰囲気が醸し出されている。
上り線橋梁の鋼箱桁橋は2径間で、斜張橋との接合部になる橋脚と取付陸橋との接合部になる橋脚との間にある橋脚は1基。一方下り線橋梁の鋼箱桁橋のスパンは4径間になっていて、斜張橋との接合部になる橋脚と右岸橋台との間には3基の橋脚がある。

斜張橋の主塔にはH型(横浜ベイブリッジ)、逆Y型(鶴見つばさ橋)、I型(府中四谷橋)などいろいろあるが、この大師橋の主塔は(淀川の豊里大橋のような完全なA形ではないが)どちらかといえばA型に近い。ワイヤの並びは放射形に近いファン形である。
大きな斜張橋では、(府中四谷橋のような)中心1本だけの柱状というのは少なく、橋桁を挟み込むように並立した2本の柱が上下で一体化したような構造を採るものが多い。従って、通常柱の厚味の分は橋桁の外側に出っ張る構造になる。
大師橋と同じように上り線、下り線がそれぞれ独立した橋として建設された六郷橋は、全て鋼箱桁橋で作られたため、2本の橋は密接して作られ、一見したところ一体の6車線道路橋のように見える。新大師橋では斜張橋を採用したので、主塔の柱が通り抜けるために、隣の橋との間には隙間が必要になる。実際上り線と下り線の2本の橋は6メートル余りの間隔を明けて作られ、欄干から欄干までの全幅は約38メートルある。

    (橋の隙間から覗く主塔の先端部)

橋上の歩道から見る限りでは、2本の橋が空いていることが実感できるほどではないが、中央分離帯に当たる部分には地覆が設けられ、道路の両脇に設置されることが多い街灯が、ここでは中央分離帯にあり、それぞれ外向きに設置されているのが特徴的だ。

橋の出入口に当たる場所で、欄干の続きとしてその端に設けられる太い柱は「親柱(おやばしら)」と呼ばれる。通常は橋の名前が刻まれているが、河川名や竣工年月などが記される場合もあるようだ。
橋が全面改架された場合、解体撤去された旧橋の記念として、その「親柱」が近くの公園などに移設され保存されるケースが見られる。旧大師橋の親柱は2本が右岸(川崎側)の川上側で堤防に下りた位置に保存されている。

    (川崎側に保存される旧大師橋の親柱)

新大師橋の上り線橋梁に設置された親柱は、右岸側は3枚の大理石で出来ていて、平仮名で「だいしばし」と書かれている。
[No.71Y] は親柱を含む上り線の全景で、次の [No.71I] は親柱を正面から見たもの。(私の自転車が写ってしまっているのに気が付かなかったのは不覚だった。)
左岸側の親柱は取付陸橋との繋目にあり、こちらは漢字で「大師橋」と書かれている。

    (東京側の取付陸橋との境に設置された親柱:川上側)

    (東京側の取付陸橋との境に設置された親柱:川下側)

 

下の [No.71Z] は2007年1月、上り線の斜張橋主塔の欄干で、左岸(東京)側を向いて撮った。
[No.71W] は開通直後で、正面に見えている斜張橋の主塔は9年前に完成していた下り線のものである。
新大師橋の歩道は幅4メートル、高欄や舗装の近代的な雰囲気は新しい丸子橋に匹敵する美しさ。
街灯が中央分離帯に設置され、両側を向いて立ち並ぶ景観は、この橋ならではの新鮮な印象を与える。

下の [No.71G] は1年前の2005年12月、先に開通していた下り線の歩道から右岸方向を向いて撮ったもの。
この時期は上り線は未だ未完成だが、右岸側では斜張橋の主塔がベールを脱ぎ、ワイヤーも既に張られている。
左岸側でも鋼箱桁橋の建設が進み一体化した姿を現しつつあるが、上り線の街灯は未だ建てられていない。
次の [No.71A1] は2007年6月で、全面開通から既に半年以上が経過している。上の [No.71Z] の対角に相当する
撮影角度だが、双方を見比べてみるとよく似ている。今更ながら、この橋は対称なのだと熟(つくづく)感じる。

[No.71Fa] は下り線橋梁の斜張橋の主塔の位置で、歩道から欄干越しに左岸の水門を見ている。この水門は昭和52年に出来たもので、最近までは単に「羽田水門」と呼ばれていた。昭和末期にここ(羽田2丁目)より600メートルほど下った海老取川の分流口に近い方(羽田6丁目)に似たような水門が出来たことから、河口に近い方を「羽田第一水門」と呼び、この水門を「羽田第二水門」と呼ぶようになったようだが、この呼称は一般に認知されているとは言えない。
次の [No.71H] は「取付陸橋」との繋目にある昇降階段の上から見下ろしている。赤く見えるラインは「旧レンガ提」と呼ばれる遺物の一部である。このレンガ提は、まだこの地域に羽田猟師町が存続していた頃の名残で、直轄改修工事が行われた大正末期か昭和初期の頃に河岸(かし)の強化を図ったものと想像される。(直轄改修工事時代の構築物には、六郷水門や河港水門など、赤レンガを特徴とするものが見られる。)
「旧レンガ提」は現在、上流側の本羽田公園の角から、下流側の玉川弁天社のところまで1キロメートル程度が、道路脇に塀のような形になって残されている。当時の川表になる側にはその後宅地造成が行われ、今では民家が建ち並んでいて、道路沿いではレンガ提の裏側を確認できないが、「羽田第一水門」の船溜りを囲うように残されたこの部分では、川表側の根元の部分(かつての水衝部)が剥き出しになって見えるので、底部の表面が曲面状に仕上げられていたことが分かる。
[No.71D] は「取り付け陸橋」の脇の昇降階段の踊場から、「羽田第二水門」とその裏にある船溜りを見たもので、バックに見える横のラインは首都高速の橋梁である。
[No.71C1] は2007年6月初めの撮影で、「取り付け陸橋」の脇の昇降階段を上がりきった位置から見ている。[No.71C2] は7年後にほゞ同じ位置だが、やゝ右岸方向に進んで、下り線歩道(斜張橋主塔位置にある見晴らし場)から「羽田第二水門」方向を見ている。[No.71F] や [No.71C1] を撮った当時と風景が変わった点は、この数年前に汽水域全体でクルーザーなどの不法係留に対する撤去の強制代執行が行われ、同時期にここに遊漁船や屋形船などを係留する桟橋が作られたことである。水門もペンキが塗り直されて、以前に門柱にあった落書きが消えている。

    (川表の底部が曲面状に仕上げられた旧レンガ提)

旧大師橋は30年間多摩川の最下流に架かる橋だったが、昭和43年、川下側に首都高速横羽線の橋梁が出来た。
首都高橋梁は左岸の羽田側では、大師橋の200mほど川下側で防潮堤を跨ぐが、右岸の川崎側では大師橋と重なり、双方は立体構造をとるようになっている。新大師橋を東京側から川崎側に渡ると、一旦上り勾配を採った後、ゆっくりしたスロープで下り、川崎側では右岸堤防スレスレの高さで首都高の下に潜り込んでいく。

右に載せた [No.713] [No.71A] などの写真は一見したところ奇妙に見える、”橋桁から隙いた橋脚”が写っている。実際浮いている橋脚は建設に着手された上り線の橋脚(P3)であり、手前に見える橋桁は既に完成している下り線であって双方は同じ橋ではない。
旧大師橋には橋脚が15あったそうだが、新大師橋の上り線橋梁には橋脚が4つしかない。2000年過ぎから行われた上り線橋梁の工事は、鋼箱桁橋と斜張橋を繋ぐ部分になる橋脚(P3)が真っ先に完成し、その後右岸(川崎側)の橋台(A2)、斜張橋の主塔が立つ橋脚(P4)の順に構築され、2003年頃には東京側の残る二つの橋脚(P1,P2)が工事中となっていた。
この写真に限らず、(下に載せた [No.720] など)この時期の写真には、先に完成した下り線橋梁に加え、上り線のうちで真っ先に造られたP3橋脚が写るので、このような奇妙な光景の写真が残っているのである。
 

[No.715][No.71M][No.71H][No.71A2] の4枚は大師橋上から川下側(左岸向)に見た首都高速横羽線橋梁
(この橋梁は2014年初頭に高速道路の耐震性改善の優先項目に挙げられ、早期に改架されることが決まった。)

(船は六郷水門に拠点を持つ40人乗り遊漁船 第七 or 第八ミナミ丸 

航空法により、地表または水面から60m以上の高さの建造物(物件)には、国土交通省令で定めるところによる、航空障害灯を設置しなければならない。航空障害灯は施行規則127条の基準により以下の3通りとされる。
 高さ60m以上:低光度航空障害灯=赤色不動光
 高さ90m以上:中光度航空障害灯=赤色光明滅
 高さ150m以上:高光度航空障害灯=白色閃光(昼夜を問わない)
但し以上の規定は煙突、鉄塔、ガスタンクなどの物件に適用し、一般のビルについては要件が各1ランクずつ軽減される。(平成13年に国土交通省より、高層ビルに設置する航空障害灯の設置基準を緩和する省令が公布されたようだが、内容は確認していない。)
六郷川の界隈で、[赤色不動光]は、ガス橋のキヤノン本社ビル、玉川清掃工場の煙突、多摩川大橋下手のトミンタワー、河原町堤防上のグランエステ川崎ツィンタワー、川崎区役所本庁舎等、[赤色明滅]は、上丸子のNEC玉川ルネッサンスシティ、鹿島田の新川崎三井ビル、小向のRF送信電波塔、テクノピアのソリッドスクェア、JR川崎駅先のNTTドコモビル、JR川崎駅手前のタワーリバーク、川崎市第3市庁舎等に見られる。
[白色閃光]はこの大師橋斜張橋主塔だけである。この塔は高さ57.5メートルだが、空港の至近距離にあるということで高光度航空障害灯が設置されているのではないか。[No.71A6] は塔頂部の施設。各閃光は2秒間隔だが、2塔あるので、遠くからでは1秒おきに光を見ることになる。[No.71A3} [No.71B1] は同じ場所からだが、季節の差や干満の違いによる雰囲気の対比を載せてみた。

大師橋下は改架工事中長く通行止めになっていたので、下り線が竣工し防潮堤沿いに行き来出来るようになった時は、本当に久々で初めてここが開通したようにさえ新鮮に感じた。通る度にそう思い、ただ通り過ぎるだけでは勿体ないように思えたものである。
何となくここで立ち止まる習慣のようなことから、2008年1月にここで2枚の写真をゲットした。[No.71B2] は写真としては最も嫌われる「窓」の構図。普通「窓」の構図で撮ると1枚の写真に明暗の強いコントラストが出来てしまいカメラは適正露出を算出し得ない。その結果暗い窓枠は黒潰れし、明るい外の景色は白とびしてほとんど絵にならない。だがここでは敢えて「大師橋の下から除いた」ことを強調するために「窓」の構図を採った。
六郷橋から海老取川入口までの間、川は概ね西から東に流れているが、厳密にはゆったりとカーブしていて、左岸の堤防上から富士を見るのは微妙である。川下側では富士は川から離れていくし、川上側では岸辺まで降りていかないと富士は視野に入らない。ここは単に窓というだけでなく、堤防上から富士が見える絶好の位置にもなっているのである。
[No.71B2] で正面の入り江(湾入部)は、かつての蛇行水路時代に澪筋がこちら方向に深く入り込んでいた名残を留める淀み部分。防潮堤を作る際に、食い込んでいた岸のラインかなり前進させた。澪筋が均されたたね、残された入り江は塩沼地化した。干潟にはカニやトビハゼなどが生息する。
富士の下は丹沢連山、大山から左に川崎中心部のビル郡が並ぶ。テクノピア(ソリッドスクェア)、ラゾーナ、ミューザ、タワーリバーク、ドコモなど

空中に湿気が多く、散乱で光量が散逸した赤い日没風景は、写真の題材になる。(それでも赤いのは太陽の周囲までで、太陽自身は黄色く、輝度を留めている場合が多い)
[No.71B3] は夕日だが、すこぶる好天日で、直ではとても撮れるような逆光ではない。橋の陰で直射を遮っても、水面反射でスミアを生じてしまいそうだが、なんとか夕日の赤みを感じる写真になった。

[No.711] (右の小画像も同じ)と [No.712] の2枚は2002年夏、左岸の防潮堤下で撮っている。この2枚は新大師橋が未だ下り線しかない時期のものである。
[No.71Q] は [No.712] と同じ位置で2006年初頭に撮影した。大師橋が全線開通となる10ヶ月前の時期になるが、既に上り線の斜張橋がワイヤーを張った姿を現し、上り線の橋桁が設置されたことでP3橋脚上に見えていた”不自然な隙”も解消されている。
[No.71Q] では新大師橋の変化以外にも、防潮堤下の地面に盛り土や地ならしが行われた形跡などが見て取れる。

[No.71A4] は、干潮時に大師橋の橋脚の方向に歩いていって、振り返る格好で川下側を見たもので、通常大師橋上から見下ろすように見ている羽田水門、川表に下りるスロープが作られるに伴って整備された階段式の防波堤(右の小画像)などが見えている。

大師橋周辺の左岸には、(おそらく昭和41年頃)防潮堤が整備された。防潮堤は一般の堤防のような土を固めた塑性体ではなく、全面コンクリート製の弾性体で、50センチ厚の法面は上下の平面と一体化し、下の平面部には法尻と先端の2ヶ所に深い基礎を打ってある。単に表面が浸食されにくいだけではなく、法面の一部が受けた応力は全体で支えるという構造上の特徴がある。防潮堤の独立性を堅持するように、大師橋は左岸では堤防に橋台を設置することなく、防潮堤を大きく跨いで両側の橋脚が橋を支える構造になった。
防潮堤天端面の管理通路は、従前どおりの通行が確保されることになったが、改架工事中はネットで仕切られ、長く通行できない時期が続いていた。2006年11月、上り線の開通によって大師橋の改架工事は竣工し、右岸側のように関連工事を持たない左岸側では、工事体制は完全に撤収されることになった。
大師橋下は、川下側に羽田水門水路が切られているため、堤防下を川に沿って通行することは出来ない。従って工事中は、一旦堤防から下りて都道(旧提通り)の方に迂回するしか方法がなかった。工事完了によって、久々に防潮堤上の通行が再開され、川下への行き来は便利になった。
[No.71A5] は羽田水門の船溜裏(レンガ提道)から見たもので、防潮堤上の管理通路が大師橋下を潜り抜けて行けるようになった様子を記念して撮った。

 


 
大師橋がある産業道路の線から海側の地域は、近世には磯付農村や干拓新田であったが、左岸の大師橋上手から海老取川口までの沿川には、次第に漁業を生業とする人家の集中が見られるようになり、5代綱吉の頃までに羽田猟師町が羽田村から分村独立した。
(猟師は現在では鳥獣を獲る狩人のことを指すが、以前には広義に漁猟を生業とする者の意味で使われ、猟師は漁師の尊称として用いられたという説明がある。品川猟師町なども同じ字を書き、江戸時代には地名の猟師町には猟の字が使われている。)

羽田猟師町は多摩川左岸沿いに展開し、川岸を船着場(漁船の係留場)兼荷揚場となる河岸(かし)の作りとし、近海漁業の基地となった。羽田猟師町は江戸城に新鮮な魚貝類を献上する「御菜八ヶ浦」の一つに数えられていたが、単なる漁村ではなく流通の要位置にあって商業的にも特異な発展をなしていた。
羽田猟師町は中心に「羽田の渡し」を持ち、品川・大森方面と神奈川方面を繋ぐ交通の要衝になっていた。「羽田の渡し」は「六郷の渡し」のような官許の渡しではなく、大師河原村に稲荷新田を開墾した名主六郎左衛門の名前に因んで「六郎左衛門の渡し」と呼ばれていたように、大師河原村の一部が運営する村持ちの渡しだったが、作場渡しとしてばかりでなく、古くから旅人の往来にも供していたようである。

この地域には羽田の渡しとは別に、穴守稲荷や玉川弁天のあった鈴木新田から中瀬(川崎大師の東門前裏)に直行する乗合船「大師の早船」も運行され、双方を回りたい参詣客に便宜が図られていた。
東海道の「六郷の渡し」は川崎宿の重要な財源だったが、海岸沿いを行く裏街道にある「羽田の渡し」の存在や、川舟がもぐりの駄賃稼ぎをする「脇渡船」が客を奪い、川崎宿を困窮させていたと言われる。
江戸時代には原則として川への架橋は禁止され、街道交通は渡船に依っていたので、渡し場には旅人相手の茶屋・旅籠などが作られた。羽田猟師町は多摩川水運と海路を結ぶ要衝の地でもあったので、流通拠点として問屋・筏宿なども営業した。
羽田猟師町は渡し場によって旅人の往来が活発だっただけではなく、多摩川水運を利用した材木船、砂利船の船元となり、また御用浦役としての城米輸送を根拠に、多摩川沿岸農村の江戸廻米輸送を独占するなど、特権的な権益を巧みに利用して多彩な繁栄を成し遂げていたのである。
下に参考写真を載せた「羽田の渡し」のあった場所を示す石碑は左岸の首都高速の下の位置に作られている。

    (「羽田の渡し」のあった場所を示す石碑)

近代になって多摩川の水運は道路や鉄道に取って代られることになったが、皮肉なことに漁業の方も、近代的な輸送手段である、大規模コンテナ船や航空輸送の発展の犠牲となって終焉を余儀なくさせられてしまうのである。

[No.719] [No.720] は2003年の正月、[No.71B] は2004年元旦、初日の出を撮った後の撮影。[No.71H] は2005年の正月で、上り線の斜張橋が建設中。主塔は足場で囲まれワイヤーの本数も未だ足りない。[No.71N] [No.71P] は2006年の正月。
例年この場所で正月の写真があるのは、この辺りから大師橋は西向きになり、見ての通り、晴天なら冬場の午前中にとても綺麗な写真が撮れるからである。
現在防潮堤の川表は、河川管理区域に夥しい数の桟橋が作られ、東地区は遊漁船、西地区はクルーザーヨットの繋留場となっている。特異な景観ではあるが、かつての猟師町の面影を偲ぶよすがは無いようである。

漁業が活況だった時代の羽田猟師町は、海老取川に寄った東地区には、釣漁(スズキ・サワラ・クロダイ・カレイ・ハゼ・アナゴなど)を主とする縄船や、アサリを採る貝捲き船が多く、西地区には網を使った打瀬船(カニ・シャコ・アカガイ・カレイ・ボラ・シバエビなど)が多かった。戦前までは大半が発動機を持たない、帆を張った手繰り船によっていたなどのことが、「史誌34号」座談会・羽田(1)に載っている。
羽田沖は大森村や糀谷村の海苔養殖場になっていて、江戸時代には漁や漁師に対するけじめ区別が厳しかったため、羽田では海苔に参画することは出来なかった。明治新政府になって海面が開放されると、漁協が作られるようになり、羽田も念願の海苔漁業の免許を得た。羽田は明治後期になって、唯一残っていた多摩川の河口方面を漁場とした海苔養殖に進出した。大森・羽田の浅草海苔は高級品で、「海苔一帖分で一坪の土地が買えた」(「我が海、我が町」伊東嘉一郎著)といわれるほど価値があったという。
右岸の大師河原村も江戸時代は「磯付百姓村」で、網を使った漁は禁止されており、もぐりの「海面稼ぎ」を羽田猟師町(本浦)に取締られる立場だったが、やはり明治の開放を受けて後期に漁協が出来、ウナギ漁、マキアミ、貝漁などとともに海苔養殖に進出している。

大森・羽田の漁協が運河の開削や沿岸の埋立てにせっつかれ、長い闘いの末、最終的に内湾漁業の漁業権を全面放棄せざるを得なくなったのは、東京オリンピックを間近に控え、羽田空港のアクセス網整備が急がれた昭和37年のことである。
漁業者は廃業を余儀なくされ、以後東京湾の東京沿岸からは漁船の姿が消えた。ごく一部の人たちは転業して釣り人相手の遊漁船を営んでいるが、空港沿岸などこの一帯は建前上既に漁場ではなく、遊漁船には漁業資源などに関する発言権は一切無い。

東京湾高潮対策特別事業が実施に移され、防潮堤の建設が始まったのは、内湾漁業が終焉させられた数年後あたりと思われる。
羽田猟師町の拠点となっていた大師橋下手の左岸だが、漁業や水運業の終焉にともないかつての沿岸基地は埋立てられ、羽田3丁目と6丁目に属する宅地となり、前面はコンクリート製の防潮堤が聳え町から川は見えない。
防潮堤の天端面は幅6メートルで、釣り客の車が並んでいるが、建前上は国土交通省の防潮堤管理用通路である。弁天橋の方向から川岸を回ってくると、水神社のある所で(管理通路に入らず)右手に下りていく道がある。旧レンガ提はこの道沿っているので、このラインが旧猟師町の沿岸だったのだと思う。

    (防潮堤裏通りに塀のような形で残る旧レンガ提)

上の参考写真は防潮堤の裏通りに残るレンガ提。石段が残されているのは珍しい。道路は舗装されているが、路面の高さは当時のままということだろうか。右の 「旧流路図」 に書き込んであるように、レンガ提は首都高速の下辺りで現在の川岸近辺に出てくる。

[No.717] は防潮堤上の管理通路が海老取川に近付く辺りで、空港方面を遠望している。右端は羽田東急ホテル(既に解体撤去され現存しない)、斜めの線はモノレール、中央にスカイアーチ、左に管制塔が見えている。
[No.71B] はここの川裏にある玉川弁財天社を撮った。穴守稲荷社と同様に戦前は鈴木新田(海老取川対岸、海側の島状干拓地)にあったが、終戦時進駐軍の空軍基地建設のため強制退去させられ、水神社ともどもで川辺になるここに遷座したという。

(羽田猟師町と御菜八ヵ浦 について [参考13]
(鈴木新田や羽田弁天・穴守稲荷について詳しいことは [参考14]
(防潮堤や赤レンガ提について詳しいことは [参考19]

 
ねずみ島は現在の低水路ではほゞ中央部にあるが、旧流路ではこの辺りが右岸の川岸にあたるらしい。近年、干潮時にはここから川下に向けて砂嘴のような細い中洲が出現するようになり、中洲から右岸の側は全体に浅瀬化が進行している。
右岸の堤防下はかなりの幅で塩沼地となっているが、どのような経緯を辿ってきたのかは明確でない。昭和期の河川改修により、右岸は中瀬から東にほゞ一直線に新堤防が築かれ、殿町の沿岸側一帯の耕地は掘削されて水路の一大拡幅が図られた。その際堤防際の掘削が甘かった可能性もあるが、現在ヨシ群落が発達している塩沼地は、一旦掘削された後に再び土砂の堆積が進んで出来たと考えるのが自然ではないだろうか。

2006年2月京浜河川事務所が行った「多摩川河口域 船上見学会」に参加した。
往路の「鶴見班」は鶴見川の佃野護岸を出ると、貝浜近辺で膨大な数のキンクロハジロを見ながら、鶴見つばさ橋(首都高速湾岸線)を潜って鶴見川河口から東京湾に出る。扇島、東扇島を左手に見て進み、浮島の角を回って多摩川河口に入り、河口延長水路は空港寄りを遡上、大師橋を潜って左岸寄りを進み、六郷水門手前で右岸寄りに転じ、中洲のヨシ原を眺めつつ六郷橋を抜けた戸手の船着場までが全行程だった。

船は想像していたより小さくデッキは不安定で、残念ながら走行中は船室からの眺めのみとなったが、船が大師橋に近付く頃の一時だけ、後部甲板上に出してもらえ写真撮影をすることが出来た。
[No.714a] の「ねずみ島」の写真と、このページの冒頭に掲げた川上側からの大師橋全景写真 [No.71U] はこの時船上から撮ったものである。

    (水上から見た「羽田水門」)

[No.71S] [No.71T] は船上見学会で [No.71U] を撮った日の1ヶ月近く前で、右岸の川下側から大師橋の全景を撮ったものである。ただし、川下側からでは首都高速が手前に重なるので、大師橋の全景とはいっても川上側かる見るほど正確ではない。
大師橋は上り線と下り線の2本の橋が重なって見えている。それぞれ片側に斜張橋を配し、しかも主塔の位置をわざわざ岸側に寄せることによって、全体として旧大師橋イメージを再現することに意を注いだ。
新大師橋は旧大師橋のゲルバー型トラスに比べればかなりスマートな印象で、それに釣合うように橋脚の数もずっと減ってすっきりしている筈だが、実際には首都高速と重なるため、川上側から見た場合でも、橋脚の数が倍くらい多く見えてしまうのが残念である。

 



   [目次に戻る]