第ニ部 ガス橋周辺 

  その1 丸子地区からガス橋へ

このページでは、丸子地区から下流側のガス橋に向かう。

右岸の堤防は新幹線(品鶴線)下が上丸子山王町で、以下、下沼部、中丸子、上平間の地先を通過する。この辺りは昔多摩川の流路が激しく変遷した地帯で、近代に堤防が完備され宅地化が進むようになるまでは、洪水の度に水を被る湿地のような水田耕地だったとされる。(右岸の「向河原」近辺については [参考25] の(1)を参照)

春先のこの時期、丸子橋の川下側の堤防法面は一面ハマダイコンの花で覆われる。ハマダイコンは自然にも河川敷などに繁茂することは多いが、これだけ一面に群落が広がっているのは、人為的に取計ってそのように仕向けているものと思う。
河川敷は延々とグランドが続くだけで、堤防側もこうした眺めに尽きるので、勢い足は河川敷を横切って川縁の方へ向うことになる。
品鶴線や新幹線の下はナーロウパスになっているが、通り抜けられない訳ではない。崖伝いのような細い道を我慢していけば、やゝ広い高水敷上の散策路に換わる。
この区域の左岸河川敷は、右岸にある「NECルネッサンスシティ」の正面やゝ上手までが「田園調布」で、その下手はしばらく「鵜の木」が続き、ガス橋近辺から「下丸子」の地先になる。(亀甲山裾とJR蒲田を結ぶ東急多摩川線は次第に川から離れていくが、該当駅は「多摩川」(丸子橋上手)を出ると、新幹線と交叉する位置が「沼部」、次に「鵜の木」があって、ガス橋手前位置が「下丸子」になる。)

[No.220] はNECのルネッサンスシティがほぼ正面に見える位置で低水路に下りて撮った。川上側を向いていて正面に丸子の橋梁群が遠望される。ここは干潮時には中洲が露出し、中洲の左岸側を流れる水路の水深は極めて浅い。中洲には野鳥が多く集まり、バードウォッチングの隠れたポイントになっている。低水路に護岸は無く、高水敷が数メートルの崖を成している。(「NECのルネッサンスシティ」については下の方で詳述する。)

[No.21A] は [No.220] より少し川下で、高水敷から川下側を見ている。この辺りでは既に中洲は消滅している。
川下側を向いた遠望で見えている右岸側の3棟は、新川崎三井ビル と サウザンドタワー。新川崎三井ビルはJR品鶴線(横須賀線)の新川崎駅と、JR南武線の鹿島田駅の中間(駅から150メートル程南)に、1989年に出来たオフィスビルで、上記したNEC玉川事業所からは2.6kmほど南にあたり、線路と直角に並ぶイーストタワーとウエストタワーの2棟から成るため、通称ツインタワーと呼ばれている。
新川崎三井ビルは角が取れた特異な形状のツインタワーで確認し易く、多摩川大橋とガス橋に対して、ほゞ正三角形を成す地点にあるため、川沿いを進む場合の 位置の目安として貴重である。

左岸の河川敷は運動場だが右岸側は今でもゴルフ練習場になっている。右岸の中丸子の河原は、江戸時代には牛蒡(ごぼう)や里芋が栽培され、明治後期には桑畑が広がり、大正時代は桃の全盛期で、その後は野菜作りが盛んに行われたというような、大変な生産地だった。(「川崎の町名」より)
右岸のガス橋がある一帯は「上平間」で、平間という地名は鎌倉時代の「吾妻鏡」に「平間郷」として出てくるほど古い。ここには江戸市中に通ずる間道(鎌倉街道、池上平間道などと呼ばれる)が通っていて、作場渡しを兼ねた「平間の渡し」があった。その辺りは、「萩原瀬」と呼ばれる浅瀬で、渇水期には仮橋が架けられたが、正保年中改定図(17世紀中頃)に、平間の渡しについて「舟渡百間」と記載されている(100間はおよそ182メートル)。 また14世紀後半の「太平記」には、1つ下流の矢口の渡しについて、「面四町に余りて、浪嶮しく底深し」と書かれている。
今の六郷川の低水路は、大正8年から行われた直轄改修工事で浚渫され護岸が施されたもので、水路の幅は100〜150メートル程度と推定されるが、近世までの六郷川の川幅は場所によってはもっと広く200メートル程度あったらしい。

昭和39年(1964)の東京オリンピックを契機として、国民一般が家族連れで日常気軽に体力づくりに親しめるように、大都市周辺の河川敷地を利用できるようにしようという気運が高まり、昭和41年(1966)と昭和49年(1974)の2度にわたって河川敷の開放計画が策定され、整備が実施された。
多摩川河川敷内のゴルフ場は戦時中農耕地となっていたが、戦後再び次々と開設され、その全面積は約118.5ha(1961年の全高水敷利用面積の31.5%)にものぼっていたため、開放の主要なターゲットはこのゴルフ場になった。1965年瀬戸山建設大臣が、河川敷を開放させるに対して、「現段階では1銭の補償の必要もない」と述べ、衆院決算委員会でも「国有河川敷地に営利企業の膨大な財産権が長期又は無期限に定着し、〜、一般の国民感情としては理解に苦しむ」などと記した「河川敷に関する決議」が、自民・社会・民社の共同提案で決議されるなど、政府・国会に河川敷開放に向けた強い意思表明が見られた。

具体的には緑地整備事業の進捗との兼ね合いがあり、1966年の第一次開放では、ゴルフ場は9ホールに半減させることを目標とした。続く1974年の第二次開放では、ゴルフ場は「練習場として計画を変更するものを除き、全面開放の措置を講ずる」との方針が示され、これによりゴルフ場は1個所あたり5.5ha以下に規模が縮少され、結果的にそのすべてが練習場ということになった。こうした経緯を経て、開放前に31.5%を占めていたゴルフ場は、1981年にはわずか4.1%にまで減少させられた。 (六郷橋上手の明渡し問題に関しては [第6部その2] でその顛末に触れている。)

2013年4月に久々に多摩川大橋からガス橋を通って丸子橋まで、左岸の川沿いを散策した。この辺りは広義には汽水域だが、満潮時に特段に川の水位が上がるというほどのことはない。ただ洪水時には水量が格段に増えるため、平時とは比較にならないほどの勾配を生じ、濁流が捌かれることになり、その分で一気に水位は高まる。この辺りで六郷地区などに比べて高水敷が低水路より何メートルも高くなっているのはそのためである。
この辺りでは高水敷の端はもう崖状で雑草が覆っていて、水面を覗けるような場所もそうどこにでもあるという訳ではない。[No.21T] は水面を覗けるような場所で高低感覚を見て、[No.21U] は半ば崖を下った法面から堤防側の特徴あるこの地のビルを撮ったものである。

この近くに「東京都島しょ農林水産総合センター」が毎年、アユの遡上数の調査などを行っている拠点場所がある。勿論全数を測定することは不可能だから、何らかの統計手法を用いて推測を行っているのだろうが、その基礎データをこの辺りで取っているものと思われる。
アユは1年で生涯を終えるが、その半分近くは海で過ごす。晩秋に中下流に下って産卵、孵化した仔魚(約6mm)は直ちに海に流下し、冬季を挟む期間は海の浅瀬(若干のものは河口の汽水域)で過ごし、翌年春から初夏にかけて(8cm程度に)成長した若アユとして群れ遡上しくる。
近年アユの遡上数は桁違いに増えていて、平成24年には1000万尾を超えたとされる。多摩川の方では浄水場が完備されるに従って水質が改善され、またアユの産卵場所の環境改善を行うなどしているようなので、それなりの理由はかなり明確だ。
東京都島しょ農林水産総合センターによるアユの遡上についての調査報告の類は、かなり前からしばしば聞く機会があるようになったが、残念ながら冬場にアユの稚魚がどこでどのように過ごしているのかという、幼魚期の生態解明はあまり進んでいないようで、空港周囲や城南島等の埋め立て地周辺の浅瀬に居たとか、お台場の海浜公園の浅場で見られたとか言う程度の話になっていて、この一帯に多摩川のアユの仔稚魚(しちぎょ)を養いきれる(ナーサリーグラウンドと呼ばれる)キャパシティーがどの程度あるのか、何が遡上率の決め手になっているのかという方面の究明は殆ど進んでいない。

右の3枚はガス橋に近付きつつガス橋を撮ったものである。
下の3枚は右岸の下沼部・中丸子方面を遠望している。向かいの高層ビルは([参考25] 六郷川の目標となる建造物 で紹介している )NECの「玉川ルネッサンスシティ」と称する建物。見出しの小画像は2002年秋のもので、高層ビルが未だ1棟しか出来ていない。この1棟目はサウスタワーと呼ばれ、高さは110メートル余りで2000年には完成していた。ギャラリーの [No.213a] は2004年春、北側に隣接する2棟目のノースタワーが出来つつあるところを撮った。次の [No.21C] は2004年秋、完成した2棟目は1棟目を50メートル近く凌ぎ、地上155メートルほどの高さと言われる。
この建物には興味があったので、2004年2月と11月に現地まで見に行っている。現地は南武線を越えて品鶴線にぶつかる手前にある。当該ビルの南側で丁度品鶴線と新幹線が分岐する手前にボロボロの高架人道橋があって、その破れ目から電車も共によく見えたので、自転車でガス橋を渡って中丸子方面に向かい、その高架橋に通ってその上から写真を撮った。 その後2010年にはサウスタワーの南側に、高さ50メートル余りの「NEC玉川 ソリューションセンター」が出来ている。あのボロボロだった高架橋がその後どうなったかは知らない。

NECの「玉川ルネッサンスシティ」の背後は武蔵小杉に当たるが、この間にこの界隈は一大開発地区となり、高層ビルが林立することになった。品鶴線が2010年に武蔵小杉駅を新設して南部線との連絡通路を設置し、元々東急東横線と南武線と交叉する鉄道の要衝であったところだが、東急はみなとみらい線と相互乗入することを手始めに、目黒線を延伸させて武蔵小杉を起点としたばかりでなく、東横線が東京メトロ副都心線と相互乗入することで、西武池袋線、東武東上線などとの直通運転が見込まれ、一方品鶴線には横須賀線を初め湘南新宿ラインや成田エキスプレスなど様々な鉄道がこの地点を通るため、まさに武蔵小杉は交通の一大要衝に様変わりした。(更に川崎の縦貫鉄道として、小田急の百合ヶ丘から武蔵小杉に向けて地下鉄線の敷設工事が進んでいる。)
武蔵小杉周辺は工場跡地などが多く存在し、そのことが格好の再開発条件を与えることになり、多くの超高層マンションが出来ることになった。[No.21D] はそれから9年後の2013年の7月に撮ったもので、「NEC玉川 ソリューションセンター」らしいものは写って見えるが、多くの高層ビルが「玉川ルネッサンスシティ」の陰になってしまっている。参考のため裏側からになる丸子橋緑地公園の方から見たものを下に載せた。

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)
 
(丸子橋緑地から見た武蔵小杉のビル群)


左上の [No.214] は右岸から対岸の桜並木を見たところである。桜は丸子橋とガス橋の中間辺りからガス橋の橋詰まで、堤防の内側(川裏の側帯)に植えられ頂部だけが見えている。右端からブルーシートの貼られた工事箇所が始まっている。ここがスーパー堤防の工事が行われている箇所で、ここにあったサクラが堤防上に植え替えられた様子を末尾に [No.218] と [No.21B] として載せている。
[Mo.219] は少し川下側から同じ辺りを撮った [No.319] と同じ日の撮影で、午前中に川下を向いている分、こちらはやゝ逆光の雰囲気になっている。

昭和4年(1929)東京瓦斯株式会社が、鶴見製造所と目黒供給所のタンクを結ぶ高圧管を敷設し、ガス管はこの地で多摩川を渡ることになった。さしあたっては点検用の仮橋が架けられ、ついでこれを本式の架管専用橋にする工事が始められた際、沿川町村の要望があって、2本のガス管の間に幅1.2メートルの木橋が付けられ、昭和6年に「瓦斯人道橋」(ワーレントラス橋)が完成した。今「ガス橋」と呼ばれる道路橋の前身である。(注:昭和6年の時点で既にワーレントラス橋であったかどうかには疑問がある。下の方の説明文も参考にしてほしい。)

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)
 
(昭和11年〜35年の改造された「瓦斯人道橋」)


当初のものは自転車やリヤカーがやっと通れる程度であったが、橋脚部を生かして上部構造を一新することになり、昭和35年新たにガス管上に幅11.5メートル(長さ387m)の鋼床版(しょうばん)を持つ道路橋が完成し、自動車も通行できるような橋となった。
両側にガス管を抱いた特徴ある外観で、橋桁の形式は鋼床版箱桁及びゲルバー鋼鈑桁橋という。
[No.215] ガス橋に近づいたこの辺りは河川敷が狭まりもうゴルフ場はない。(橋の向うの煙突は都の清掃工場) [No.216] は渇水期の穏やかな日にガス橋上(右岸側)から丸子方面を遠望したもの。4本の橋が重なり、背後に亀甲山が見えている。 [No.217] は泥水化の時期、ガス橋の150メートル上手の川辺から。川の表情はこんなにも違う。

左岸ガス橋のたもとはキヤノン本社だが、その上手側に隣接する三菱自動車は既に移転し、その広大な工場跡地に大規模なマンション建設が行われている。

ガス橋は当初は東京ガスが鶴見製造所で製造した大量のガスを目黒のガスタンクに送り、東京府下にガスを供給するために作られたガス輸送管の専用橋で昭和4年に開通していたが、近隣工場の通勤者や住民の強い要望によって、僅かに人も通れるような人道共用橋に変更され、1931年(昭和6年)9月に「瓦斯人道橋」として開通、1936年(昭和11年)にはガス管が太いものに交換された。戦後は周辺の橋が増大する交通量に対応しきれなくなり、この橋も1960年(昭和35年)に車輌の通行が出来るような現在のガス橋に開架された。然し片側1車線で歩道も幅が狭く、幹線道路ではないとしても、近隣の橋に比べると遥かに貧弱であり、老朽化も著しいように感じられる。
改架される前の「瓦斯人道橋」について確たる写真は無く、手元には出所不明の写真が2枚ある。1枚は上に載せたが、もう一方の昭和28年のものとする下に載せた写真は内容が全く違う。こちらの写真はガス管の横に当初からあったメンテナンス用の通路を幅1メートルに拡幅して人が通れるようにしたとする説明に合致するような内容になっている。(あくまで推測だが、こちらの写真が昭和6年に開通した当時の状況であり、上の写真は昭和11年にガス管を増設した際に橋全体も強化され、中央部に人道部分を設置したワーレントラス橋に改架された時のものではないか。従って下の写真について昭和28年の頃という付記は誤り考えられる。)

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)
 
(昭和初期の頃の当初の「瓦斯人道橋」)


ガス橋の北詰にはキヤノンの本社がある。この本社ビルが出来たのは2002年のことである。
ウィキペディアには、キヤノンの社名の由来は以下のように記されている。
キヤノンの前身は、1933年に創立された精機光学研究所。観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、同年発売予定の精密小型カメラを「KWANON」(カンノン)、そのレンズを「KASYAPA」(カサパ)と命名した。KASYAPAは、釈迦の弟子のひとりである迦葉に由来している。なお「性能が良すぎて、光だけでなく音まで観える」という意味も兼ねている。
1935年、世界で通用するカメラのブランド名として、Canon(キヤノン)が採用された。「聖典」「規範」「標準」という意味を持ち正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいことと、KWANONに発音が似ていることが、この名称を採用した理由とされている。なお日本語における正式な表記は「キヤノン」であり、読みとは異なり、小字を用いた「キャノン」のようには書かない。
カメラ、ビデオをはじめとする映像機器、プリンタ、複写機をはじめとする事務機器、デジタルマルチメディア機器や半導体露光装置(ステッパー)などを製造する。東証の分類では精密機器メーカーではなく電気機器メーカーに位置づけられている。
(キャノンは2016年に窮地に陥っていた東芝から、東芝メディカルを買収した。同社は東芝の医療機器事業の母体で、コンピューター断層撮影装置(CT)や超音波診断装置などの画像診断装置を手掛けていた。)

 


近年沿川で大規模な再開発が行われる場合、その区間がスーパー堤防(高規格堤防)になるケースが多くなってきた。ここでも大掛かりなスーパー堤防が工事中で、工事区間にあった堤防下の桜は全て掘り起され、そのうち50本ほどが新堤の上に移植された。
[No.218] は移植直後の様子。乾燥防止か虫除けかは知らないが、殆ど全ての幹は包帯でぐるぐる巻きされている。[No.21B] はそれから2年後のもの。こちらは川裏から見たところで、背後にスーパー堤防が出来つつある。キヤノン本社も敷地を拡大し当地への大規模な集積を図っており、この一帯の工事は数年越しで延々と続いている。移植された桜はなおワイヤーで支えられた状態だが、2004年は見事に開花していた。
スーパー堤防というのは、堤防の内側(川裏)に堤防の高さと面一まで土を盛り、普通の堤防より格段に幅を広くした堤防のことで、拡幅した部分には、建物を建てたり植栽を植えたりし、居住区と堤防が一体化する形になるものである。

今のスーパー化は決壊のおそれが高い部分から順に行われているという訳ではなく、地権者の同意が得られるなどの条件が満たされた場所から行われている。近代の堤防は連続提だが、防潮堤のような特殊なものを除けば、一般の堤防は剛体ではなく塑性体である。限定された部分を強化することが堤防全体を決壊し難くすることにはつながらない。(むしろ一部を強化することで、その周辺が相対的には弱くなる意味が生まれるかもしれない。)
全提のスーパー化は到底今世紀中に実現することはないだろう。国土交通省はスーパー化による防災効果を強調するが、堤防は一ヶ所で決壊してしまえば、その影響は広範囲に及ぶもので、”強化されたところの人は安全” というような考え方をする性質のものではない。(自然の脅威は人智を超えたところで起こる。溢水に対する事情に変わりはないし、大地震で地割れや陥没などが生じる事態となればスーパー堤防といえども鉄壁ではない。)
公共事業に無尽蔵に資金を投入出来たバブル時代には、常軌を超える発想がいくつも生まれた。スーパー堤防もそうした申し子の一つだが、今後新規に着工する箇所はもう生まれないのではないだろうか。


昭和49年9月に台風16号の影響で多摩川の水源地に集中豪雨があり、小河内ダムが未曾有の放水量となった時に、左岸の狛江市猪方で堤防が決壊した。家屋が流出したこの水害は、自衛隊が本川を横切る堰堤の爆破を試みるなど、その一部始終が逐一テレビ報道されたため、水害規模のわりには全国的によく知られ有名になった。
この水害は国の賠償を巡って裁判になり、裁判は災害発生から18年間たたかわれたが、結局、「管理者が災害の発生を予見することは可能であったのに、災害の発生を回避するための対策を講じなかった」と断罪され、国に損害の賠償を命じる判決が確定した。
この「事件」は災害が起きて当局の管理上の怠慢が露呈したケースであり、この水害が起きたことでスーパー堤防の必要性が世間一般に喚起されたということは全くない。
 (狛江水害事件のあらましは [参考17]



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