第六部 六郷橋から大師橋 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その1 六郷橋湿地 (その3:冬版:10〜4月:
                 ヨシ・ウラギク・セイタカシギ・ユリカモメ・カモ類・オオバン)

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)

 

  (六郷橋緑地先湿地の形成過程については [参考30] を参照

ヨシ原は一面ヨシ一色なので、この中に入って唯一方向感を維持できる存在は、高圧線の渡河用鉄塔だけである。(この送電線は左岸側では、川裏で受けると地下に入り、もと仲六郷に変電所があった辺りで地上に出て、矢口、池上の方面に向かう。) ヨシ原に聳えるこの送電鉄塔は、多分京急が創業時に久根崎の地に発電所を築いたことに関係する。
河港水門の背後(現旭町)は近代までは久根崎と呼ばれ、街道沿いの新宿と並び川崎宿の北部を構成していた。直轄改修工事によって新提が作られるまで、右岸の水除提は「六郷の渡し」を過ぎると「大師道」に沿って、(現409号線の方向に)南下していくようになっていたので、久根崎もその北辺は堤外地の環境にあったと思われる。
六郷橋の南詰から川下側の右岸、河港水門まで(日本コロンビアの辺り)は港町、その川下側は(「味の素」創業者の名前から)鈴木町と呼ばれるが、これらの河畔の地は明治末期までは左岸側の六郷村(八幡塚村など)の飛地になっていた。
鈴木商店(後の「味の素」)が葉山から移転してきたのは、久根崎の川下側になる「向洲」と呼ばれた辺りである。上流の丸子方面の右岸に、南武線の「向河原」という駅名があるのは、その一帯が左岸の下沼部村の飛地だった名残だが、当地の「向洲」という呼び名も同じような意味合いだったと想像される。(「味の素」はその後川下側に敷地を大きく拡張し現在に至っている。)

六郷橋下から鉄塔まで保全用の管理通路が出来ているが、左岸の河川敷縁に作られている散策路と鉄塔保全通路を結ぶ道が2本ある。
[No.661] は葭原の付根に近い六郷橋寄りの道。写真は水路に向く方向で撮っているので、正面には川崎側の建物が見えている。ヨシの背丈は高いが、足元は比較的しっかりしていて、この道は満潮時に水を被るほど低くはない。
[No.662] はヨシ原に切れ込む水路(下記)より手前の保全用通路上で、目標の鉄塔までは未だ500メートルほどある。[No.663] はあと150メートル程度の位置まで来ていて、この辺では足元は相当泥濘(ぬかる)んでいる。[No.664] は最後の数十メートルという辺りで、ヨシは潜り抜けるというくらい、ジャングルのように生い茂っている。
[No.665] は保全通路から河川敷の散策路に至る2本目の道が分岐する三叉路の辺り。切れ込み水路よりは少し手前になる位置で、容易に岸辺に出られる場所がある。正面右岸は味の素で、遠くに大師橋が見えている。[No.666] は同じ位置で川上側を向いている。六郷橋はこのくらい近くに見える。
この辺のヨシ原に目立った切れ目はないが、六郷橋からこの位置までは石造りの護岸があって、ここから川下側は仕切りの無い洲の状態になっている。六郷橋緑地のグランド裏手では、河川敷と湿地との境界線に不自然な折れ曲がりが認められるが、その線を(六郷橋に平行に)延長すると大体この旧護岸終点位置に至るようになっている。

   (参考:切込水路横断部:詳細は「六郷橋湿地(その1)夏版」を参照)



 
ヨシ原でヨシ以外に見られる植物の中に「ウラギク」がある。「ウラギク」は北海道から九州まで広い範囲で見られるものの、干潟の埋め立てによって生育地が減少し、「植物版レッドリスト」で「絶滅危惧U類(VU)」に記載される保護対象種になっている。

右の小画像くらいだと何となく野菊という雰囲気もあるが、当地ではこのような感じであるものは少なく、実際には以下に載せているように、ヨシ群落の表側にあって、ヨシズに花が咲いたような格好で存在しているケースが多い。日当たりの良い場所を好むとみえ、ヨシ叢の中の方まで連なっているものは見ない。
写真は大抵の場合、生えている地表の土が見えるような場所で撮っているが、それでも少なくとも大潮の満潮時には根元が水に浸る程度の低地にはなっていて、伸びた根が湿気に届かないような乾いた高水敷で見られることはない。

(以下花の写真は10月20日〜25日頃で、花期は幾分盛りを過ぎている。)

現代では「ウラ」で連想される第一感は「裏」になるので、ウラギクは裏菊のイメージになってしまい印象が良くない。
実際の「ウラギク」は「浦菊」と書き、その名は海辺で多く見られることに由来する。別名を「ハマシオン」(浜紫苑)というが、乾きの早い砂地に生えることはなく、塩分湿気の多い泥地(塩沼地)に生えるそうである。
(「浦」は広意には海岸、入り江のような場所を指し、和歌に歌われて古より有名な静岡県の「田子の浦」が代表格。江戸時代には漁村(あるいは漁場)の代名詞としても使われた。江戸時代、六郷川の河口沿岸部は羽田村から分村独立し羽田猟師町と呼ばれていた。羽田浦は幕府御用の特権を与えられていた「御菜八ヵ浦」の一つに数えられていた。)

浦菊のことを「多摩川の自然を守る会」の人から教えてもらった当時、高水敷で見られるキク科の花といえば、セイヨウタンポポ、ノゲシ、ハルシオン、ヒメジョオン位しか知らず、「野菊」についての知識は全く無かった。そのため中心が黄色く回りに白っぽい舌状花のあるものを皆一緒くたにし、「ウラギク」として載せた。
「写真が違います」と指摘されてビックリし、「カントウヨメナ」「ユウガギク」など、似たような花で「ウラギク」とは違う種類のあることをその時初めて知った。(「カントウヨメナ」は(その2) [No.62W] 以下、尚 [No.62X] に写っている大きな葉は混在している別の草。)
よく見直してみると「岸辺の散策路」周辺に咲いているのは、殆どが「ウラギク」ではないことが分かった。何度か観察し直しているうちに、「ウラギク」と「ヨメナ類」にはかなり違いがあることが分かってきたので、専門的ではないが、私のような初心者のために、以下に気が付いたことを列挙しておいた。

この辺りで見られるものの姿は、ウラギクが立姿で縦に伸びる形をしているのに対し、ヨメナ類は背が低く横に広がる姿をしているものが多い。ウラギクにも成長途上で小さい株は当然存在するが、一般に背丈は50センチ以上に伸びたものを多く見る。一方のヨメナ類は、散策路の道端などで見られることが多いせいか、群生している場合にも、背丈が低く地表面に広がったような姿をしている。
花を中心に見ていると茎の太さには気が付きにくいが、ウラギクの茎はヘェーというほど太い。根元近くは地表を突き破るように直立して立ち、先の方にいくに従い円錐状に細くなって数本の花枝が分岐するようになっている。
花全体の大きさは似通っていて、外側の舌上花の色も薄いピンクもしくは薄紫掛かった白色で似ているが、ウラギクの花は中心部の筒状花が黄色から赤色に変わっていく特長があり、爛熟期には赤色が加わることで艶やかな印象を受ける花になる。

ウラギクの葉は笹の葉に似た披針形(ひしんけい:一番太い部分が付根側にある細長い葉形)で、厚さは(多肉植物ほどではないが)分厚い感じを受け、葉の表面には光沢がある。一方カントウヨメナ(関東地方以北のヨメナはこれらしい)の葉は卵形で、前方から両側対称に2〜4箇所程度の切れ目が入る。
ウラギクは紛れが無いが、ヨメナは低く地表に広がっていて、他の草と混在している場合が多いので、写真だけで葉を見分けるのはリスクがある。カントウヨメナの典型的な葉には切れ目があるが、それでもヨモギのように深く切れ込むものではなく、花に近い位置の小さな葉には切れ目が認められないことも多い。このように葉の輪郭に段が無く平滑に見える場合には、中央部が膨らんだ長楕円形に近い形をしている。
ウラギクはヨシやガマと混在して見られるように、湿地ないしそれに近い場所に生え、ヨメナ類はもう少し湿気の少ない乾いた場所で見られる。


キク科植物のウラギクは2度咲く。お色直しの過程は大雑把に以下のようになっている。

   (参考1)    (参考2)    (参考3)    (参考4)    (参考5)

(参考1)は花の終わり。花びらは萎れ中央の筒状花から冠毛が伸びはじめる。(参考2)では冠毛が伸び筒状花は隠れてしまうが、周囲の舌状花は萎れながらも名残を留めている。(参考3)では舌状花の名残は紐状になり、伸びた冠毛の方は白化してゆく。(参考4)は綿毛の蕾が開くところ(花は下向き)だが、2度目の「開花」ではガクにあたる「総苞」も開くので、綿毛は付根の部分から球状に展開し、脱落しきっていなかった舌状花の痕跡(紐状)は、綿帽子の中に巻き込まれるようになる。(参考5)は無事球形の綿帽子を開いたところだが、初期のものは綿毛が綺麗に放射状に伸びず、捻(ひね)れたような感じになっているものが多い。(日が経つと次第に整うが、タンポポのような端整な姿にはならない。)


以下に掲載した綿帽子の写真では、最初の [No.66Q] で綿帽子の蕾の比較が分かりやすい。種子が飛んでしまった跡には、茎の先端の「花床」と枯れた「総苞」が残されるが、その様子は次の [No.66R] に写っている。

キク科の花は頭状花序(頭花)と呼ばれ、もっとも進化した花の付き方とされる。花軸の頂上が平らになり(花床)、そこに小花が密集して付いて全体として一つの花のような形をとる。(普通の花では「がく」と呼ばれ、花の付根の外周にあって、花を束ね保護している部分は、頭花の場合「総苞」と呼ばれる。)
タンポポやノゲシのような「タンポポ亜科」では、頭花を構成する小花は、すべて花びら状の舌状花で出来ているが、キク科のもう一方の「キク亜科」には、アザミのように頭花が全て筒状花で出来ているものと、ヒメジョオンのように外周に一列の舌状花があり、中心部が筒状花で出来ている2重構造のものがある。
どちらも、花が終わると(個々の小花のがくに相当する)冠毛が伸びて綿毛となり、(子房が熟して種子が出来ると)すぼんでいた綿毛が一気に開いて綿帽子のような姿になる。

キク科の植物が「2度咲く」のは、花が頭花という小花の集合体で出来ている独特の構造に基づき、キク科に特有の現象である。 キク科シオン属のウラギクもご多分に漏れず、花が終わると冠毛が伸び綿帽子を開花させる。大きさはタンポポと変わらない位だが、タンポポの綿帽子とは2つの点で違っている。
まず綿毛の形が違う。タンポポの場合、種子の一つを取り出してみると、先端で放射状に開く綿毛の結集点と種子本体の間には長い柄があって、一つ一つの種子はオチョコになった雨傘のような形をしている。綿帽子はこれらが多数集まって端正な球状を形成しているわけだが、よく見れば中心から放射状に広がる柄の部分と、その先で落下傘のように開いて表面を成している羽の部分の2重構造になっている。
 (参照:セイヨウタンポポ、ノゲシ クリック) 一方ウラギクの場合は、個々の種子は本体の一端から直接綿毛を放射状に出していて、タンポポに見られるような柄の部分は無い。種子の一つ一つはバトミントンのシャトルコックのような形で、これらが密集した綿帽子も放射状に伸びる綿毛だけで出来ている。(ノゲシの場合も綿毛はウラギクに似た形状で、綿帽子はタンポポのように透明でなくボヮーとした感じになる。)

ウラギクの綿帽子がタンポポと異なるもう一点は、綿帽子の中に何やら不透明な紐状物が散在することである。この不透明なものも綿毛に平行に放射状に存在するが、その個数は5〜15個程度と個々様々で、ほとんど見当たらない例も皆無ではない。
何度か写真を撮っているうちに、この不透明な部分は、花の時期に筒状花の周囲にあった舌状花に由来するものらしい、と思えるようになってきた。
花が終わると、筒状花の冠毛が成長し、密集したすぼんだ綿毛の蕾を作るが、この時期に周囲にあった舌状花は萎(しお)れて撚れた枯葉のようになって残っている。綿毛の蕾が開花する時期には付根の「総苞」も開くので、周囲にあった舌状花の残骸は綿帽子の中に取り込まれてしまう。その結果、初期の綿帽子は一様でなく不透明物を含んだ姿になるのではないかと想像される。
この舌状花由来のものは、綿毛が飛び散ってしまう前に消失するが、付根からもげて綿帽子に引っ掛かっていることもある。[No.66V] は綿帽子の「開花」が始まってから3週間ほど経った終盤時期にあたるが、この頃には紐状の残滓は既に殆ど見られなくなっている。

後半の6枚 [No.66W]〜[No.66Z2] を撮っている場所は、厳密に言うとヨシ原ではない。
六郷橋下の高水敷から川下に続く左岸のヨシ原は、昭和40年代頃から発達したものと想像しているが、その以前は鉄塔周辺は小島として低水路に浮いている状態だった。
(鉄塔を建てるためにわざわざ島を作ったのではなく、鉄塔が建てられた当時、左岸の高水敷がその辺りまで続いていたということだろう。終戦前後の頃、何らかの理由によりこの辺りの高水敷は削り取られることになるが、その折鉄塔周囲だけが残されて島状になったのである。)
その後、洪水が繰返される度に小島と左岸の間には土砂が沈積し、島側からのヨシ群落の発達と相俟って、中間の水路は遂には埋まってしまった。この間に本流側では鉄塔小島から六郷水門にかけて(旧流路の澪筋に沿う縁の位置に)中洲が形成され、やがて左岸側に現在見られるような潟湖(せきこ)状の塩沼地(干潟)が生まれたものと考えられる。
(多分現在でも当地で土砂の堆積は進行している。従ってこのまま推移すれば、南六郷地先の干潟はいつの日にか再び陸化してしまう可能性が強い。)

茎からガクまでが猛烈に赤いこの後半のウラギクは、ヨシ原外縁の沼地が左岸の旧護岸に達したその接点にある。
この場所の旧護岸(らしきもの)はいつの時代のものかは知らないが、今では大潮の満潮時には水没してしまう高さになっている。(海面が上昇したとは考えにくいので、護岸の方が幾らか沈下したのではないか。)
ヨシは少し離れた後方にあり、ウラギクの周囲には他の線状葉や細々と残るガマが混在している。もと親水部だったこの一帯は草茫々だが、近年はホームレスに占拠され一般の人を遠ざける雰囲気になっている。
ホームレスは生活廃水を垂れ流すだけではなく、ゴミを収集してきたり、耕作を行っているケースも珍しくない。(肥料に何を使用しているかは想像に難くない。)
終盤の3枚は赤が映えるような夕日の照明で撮っている。(最後の [No.66Z2] は同じ日に逆光で全体を撮った。整備された殺風景な護岸が増える一方、ホームレスの裏庭のようになった所でウラギクを見ることに複雑な思いを抱きつつ・・・。)


ここから下は2006年の撮影。
2005年は10月中旬からウラギクを撮り始め、花は爛熟期から綿帽子までの経過観察はよく出来たものの、若い時期の姿を見ていなかった。
2006年はウラギクの全容を掴みたいと思い、早い時期からウオッチしていた。
[No.66A] は8月初めで、ウラギクが地上に姿を見せ始めた頃。次の [No.66A] はその1週間後である。この時期のウラギクはその独特な細長い葉の形がよく分かる。
次の [No.66E] [No.66F] はそれから1ヶ月半経った9月下旬で、この頃の葉は青々として美しく、よくみると既に花芽を持っていることが分かる。(株数が増えていくわけではなく、ここは前の写真とは違う場所である。)
(2007年7月、A,Bの地点は新芽は見られるもののヨシの圧迫は更に厳しくなった。E,Fは護岸側に残る貴重な生育地だったが、2007年に残念ながら遂に全滅した。ヨシとホームレスの2重の圧迫に抗し切れなかったのが実情である。)

[No.66J] は参考写真でカントウヨメナの葉を撮ったもの。
実際のウラギクを知らない人が、図鑑で花の姿だけを覚えて探しに出ると、引っ掛かるのがウラギクと花季の重なるこのカントウヨメナだ。
この写真は上で出たてのウラギクを撮っているのと同じ8月上旬に、近くの高水敷で撮った。ヨモギほど深い切れ込みではないが、葉は縁にギザギザがあり、ウラギクの葉とは似ても似つかない。昨年一時期、このカントウヨメナをウラギクと見誤った憶えがあるので、今年リベンジする意味で、敢えて花の無い時期にカントウヨメナの葉を撮っておいた。
カントウヨメナの花は2005年に六郷橋緑地で撮ったものを2枚載せている。 ([No.62W]) これらの写真でも分かるように、10月の花の時期になると、葉は貫禄がついて形は不明瞭になり、他種と重なったりもして葉だけで見分けるのは難しくなるのである。

ウラギクの花は、十五夜とか中秋の名月などと呼ばれる、10月初旬の大潮の頃にほゞ咲き揃い、それから1週間乃至10日間程度の期間が見頃である。
2006年は10月7日が十五夜にあたっていたが、生憎台風16号に影響された低気圧が発達して、関東から東北方面は大荒れとなり、三陸沖で船の転覆が相次ぐ状況だった。東京湾ではその後異常潮位となり、多摩川の感潮域でも指定水位を超える増水で、岸辺の草花は泥水を被って悉く緑を失った。六郷のウラギクも惨憺たる有様となったがその後は逆に2週間雨が無く、結局緑を失ったまま花季を終えることになってしまった。
右の「六郷のウラギク」(その5)〜(その10) までの6枚は、いずれも10月7日以後の1週間の間に撮ったもので、残念ながら葉や茎は泥に塗れて汚いが、花自身は2005年の時より若い時期が撮れたことで満足した。

上流の方ではカワラノギクの保護育成が試みられ、復活の過程にあることが新聞に載ったりしているが、汽水域(塩湿地)のウラギクの方は衰退の一途を辿っているように見える。
六郷一帯でも、かつて保護育成が試みられた時期のあったことを聞いているが、現状では水辺で見られるものは無く、緑地に寄った方に一部残されているものも総じて勢いがない。
(今でも遠くから水辺のウラギクを撮りにきたという人に出会うことがある。かつて澪筋側の岸辺に咲き誇っていたウラギクの写真を何かで見たのだろうか。)
専門的なことは分からないが、第1感として近辺のヨシの増殖が強く感じられ、ウラギクはその圧迫に抗しきれないように見える。似た自然環境に適応する種でも、汚れた環境に対する耐性に差があると、相対的に汚染に強い方がより増殖し、弱いものは環境には耐えられても、強い種に呑み込まれてしまうことで結果的に滅びる。

六郷橋より川下側の水際は、生態系保全区域に指定されているため、集積されるゴミもホームレスの入植地もすべて「手付かずの自然」として保全される。その結果生態系保全区域とは名ばかりで、殆どの区域でヨシが茫々と蔓延っているだけの荒地になっている。
緑地側のウラギクはヨシの圧迫だけでなく、半ばホームレスの「管理下」にあるため、残された僅かな株が立ち行かず、失われるケースも少なくない。2005年に撮った上段の「葦原の浦菊」で綿帽子の最後に載せている旧護岸縁の [No.66Z2] はもう1本しか無い。
2006年の「六郷のウラギク」で蕾時を撮った [No.66E] は密集した良い所だが、ホームレスが敷地の拡張に乗り出し囲い込まれてしまったため、今ではもう見られない。
右の [No.66Z1] は鉄塔保全用管理通路脇。[No.66Z3] はホームレス同士の境界にあって生き伸びている所。数本あり、丈は1.5メートルほどになっていて、泥水に浸からない部分で緑を残した唯一の場所だが、隣家が拡張しており風前の灯といってよい。


 
秋になるとカルガモは次第に数を減じ、冬鳥の第一陣としてコガモがやってくる。
この頃にはカルガモは六郷水門の川下側の干潟などに未だ少し残っているが、その後オナガガモが大挙して飛来するようになり、10月のうちには完全にカルガモと入れ替わる。
通常カルガモは留鳥だが、当地ではカルガモとオナガガモが同居する期間は殆ど無く、ごく僅かの例外的な存在を除いて、カルガモは冬場当地を去り何処かへ移動していく。

冬のカモはオスがエクリプス状態で飛来するので、来た直後には全部がメスのように見える。オナガガモがじきに雌雄の区別が明瞭になるのと比較すると、先に来たコガモが綺麗になるのはかなり遅い。
コガモのオスは頭部が赤茶色で、目から後首に掛けては緑色になる。目の下に白線が入り、首の後ろ側の付根部分には黒い部分がある。背腹は灰色で、体側中央に白線と黒線の2重の水平ラインが入る。
コガモはオナガガモに比べれば遥かに警戒心が強く、冬場は岸辺に近付くことは少ないが、春先になるとかなり人に馴れ、あまり逃げなくなるので写真も撮りやすくなる。

   (コガモ雄 1)   (コガモ雄 2)   (コガモ雄 3)

[No.695] は春先の撮影で、オスは白っぽい胸に斑紋が目立つようになり、下尾筒の黒に縁取られた三角形の黄色も濃く鮮やかになる。
上に載せた参考写真の(コガモ雄 2)で、体側水平ラインの黒い部分の下側に緑色が見えているが、(コガモ雄 3)で分かるように次列風切の先端は、胴側がブルーグリーンで初列風切側は黒になっているのでこのように見える。
メスの方は渡るカモのご多分に漏れず、全体が地味な色柄ではあるが、この時期はコントラストが増し、翼鏡(次列風切羽の一部の模様)のブルーグリーンが際立つなど、それなりに見栄えがするようにはなる。
他の冬鳥に先駆けて秋真っ先にやってくるコガモだが、北へ帰るのは逆に一番遅い。
2006年は最盛期には200羽程度居て、ユリカモメが姿を見せなくなった4月下旬には未だ100羽近く残っていた。
(4月にはオナガガモが先に居なくなり、カルガモが戻ってきて、秋と同じようにコガモとの同居状態になる。ただカルガモは間も無く営巣に入るので、実際にどの程度居るのかこの時期にはカルガモの実態は掴みにくい。)

   (コガモ雌 1)   (コガモ雌 2)   (コガモ雌 3)

  (鳥類の翼の名称や機能については [参考31] を参照

 
オナガガモは当地を代表する冬のカモ。その名の通り(特に)オスの尾が長い。カモ類は種類を問わず一般的に尾が短い体型をしているので、尾が長いということはそれだけで他と区別しうる十分な特徴になる。
右とその下の小画像はともにオナガガモのオス。[No.667] は全部オス。餌を漁っているのだろうが、いつもこんな格好をしているというわけではない。河川敷に上がって草を食べている [No.668] の方は全部メス。雌雄が群で分かれているのは稀。春先には、群れているように見える場合でも、個々には大体番(つがい)で行動している。

鳥インフルエンザウイルスなど、新型ウイルスの遺伝子はすべてカモの腸内ウイルスに由来するという研究報告がある。シベリアから日本に渡ってくるカモの糞を調べるため、途中で立ち寄る蒙古地方に専門家が調査に出向いたりしている。鳥インフルエンザの人への脅威が現実的なものとなってきて、カモを見る目が以前とは少し変わったかもしれない。
ウイルスはバクテリアとは異なり、自身では増殖手段を持たず、宿主の器官を利用する。本来の宿主である野鳥には、長い共存過程のうちに、ウイルスと生体が平衡するような免疫機構ができているが、家禽に伝播した場合には発症する可能性がある。低毒性のウイルスが家禽の体内に潜伏しているうちに変異して強毒性となり、高病原性ウイルスが発生するというメカニズムが推測されている。

家禽類(ニワトリ、アヒル、七面鳥など)が感染した場合、死に至る強毒性を示す高病原性鳥インフルエンザウイルスで、最近特に恐れられているのはH5N1型と呼ばれる株である。このウイルスは2004年以来鳥から人に感染する事例が発生し、ベトナム、タイ、カンボジア、中国などで既に数十人が死亡している。
家禽ではウイルスは呼吸器と腸の両方で増殖するが、家禽から人への感染は呼吸器からと推測されている。現在までの所では、特異な接触状況下で人への感染が起きているが、ウイルスは環境に順応して変異しやすく、新型ウイルスが人に常在するようになると、人から人へ感染するタイプに変異することは時間の問題と考えられている。
特定のウイルスに有効なワクチンは、そのウイルスの外形に合わせて作られる。人から人へ感染するタイプの脅威のウイルスが発生すれば、その実体を早期に突き止めワクチンをどれだけ迅速に開発出来るかが、被害をどの程度で食止められるかの重要なポイントになるとも言われる。
(2005年に茨城県で家禽が殺処分された件は、低毒性のH5N2型の感染が確認されたことによる。2006年2月、イタリア、ギリシャ、ドイツなどで、白鳥などの死んだ野鳥から、H5N1型ウイルスが検出された。欧州ではその後、野鳥から家禽への伝染、猫への感染などが確認されている。シベリア経由で新型ウイルスがアジアから欧州へ飛び火したとされる。)


 
セイタカシギは夏場から散見されているが、秋には一気にその数を増し数十羽で群れるようになる。当地では何日も続けて見られることが珍しくないほど普通の存在になっているが、夜はいつもねぐらに帰っていくようである。

 「心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮」  西行法師

鎌倉時代にシギと呼んでいたのが実際にはどんな鳥だったか、西行法師がどの程度まで鳥の種類を意識していたかなど知る由もないが、現在では一口にシギと言っても、日本で知られているシギの種類はかなり多い。
下の参考図は普通に見られるイソシギ。ここではシギ類は中洲に多く、護岸で見られるのは珍しい。過眼線や翼の斑が明瞭でなく、多分これは幼鳥。大きさはスズメとムクドリの中間くらいで、オナガガモと並ぶとこんなに小さい。
ただ鳥の場合、幼鳥とはいっても、飛べるようになる時期には、体長は親と同じくらいになっているものである。キアシシギなど夏場に見られるシギも、(アオアシシギは少し大きいが) 大抵チドリ程度に小さい。セイタカシギはそれらに比べればかなり大きい。

   (イソシギ 1)    (イソシギ 2)

当地のセイタカシギは、渡りの途中に立ち寄るのではない。東京湾の方からやってきて、日没後の暮れ泥(なず)む頃にまた塒(ねぐら)に帰っていく。往来時は当然高空を飛行するが、湿地では超低空で水面すれすれを飛ぶ。
「しぎたつ」について、一般的には「シギ発つ」、つまり「渡り」のために飛び去っていく情景とされるが、シギが居る沢という意味で「シギ立つ」とする解釈もあるようだ。その意味なら、脚が竹馬のように長いこの「セイタカシギ」こそ相応しい。
右上の小画像は2006年4月初旬撮影の「シギ座る」姿。自慢の脚を畳んでしまって、チョッと見にはセイタカシギらしく見えない。
セイタカシギが長い脚を折って座るのは大変そうに思えるが、セイタカシギは意外にこの格好で寛ぐことを好み、この姿勢を見るのはそう珍しいことではない。(この姿を撮らせるということは、そこまで接近しても相手にまだ余裕があるからで、立ったり座ったりを苦にしていない証左である。)
下の(セイタカシギ 1)は2005年12月初旬に、セイタカシギが初めて座る姿を見て撮った。この時は正直かなりビックリした。同じシギが「立って見せた」のが次の (セイタカシギ 2) である。(周りにいるのはオナガガモのメス)

   (セイタカシギ 1)    (セイタカシギ 2)

セイタカシギは、餌をあさって歩き回ったりしている時には個々にバラケるが、一般的には群で行動し、[No.671] のように浅瀬にジッと佇んでいる姿もよく見かける。遠くからでは皆同じように見えるが、ズーム [No.672] や [No.676] で見ると、翼が茶褐色のものや黒いもの、頭の白いものや黒いものなど色々なタイプがいることが分かる。(成鳥では背中の黒いのがオス、茶褐色のものがメスと聞いたことがある。ただ一般に幼鳥は淡い色をしているので、黒くないのは皆メスということではなく若鳥も混じっている。
シギはカモやカモメのように水面に浮くことはないので、脚が完全に隠れ腹が水面に着いているような場合でも、(適当ではないが)「シギ立つ」で間違いではない。

私的には、「鴫たつ」は単に「飛び去る」様を詠んだものだろうと思っている。セイタカシギはシギとしては大型だし、岸近くに居ることが多く、一斉に飛び立つ様は「シギたつ」と表現するに相応しい。 上の [No.673] は正にシギたつところ。
セイタカシギは翼が長く優れた飛翔能力を持つので、羽ばたきはカモのように大仰でなく颯爽としている。夕暮れに群で水面上を鋭角的に高速旋回する様は実に印象的だ。

   (セイタカシギ 3)

右上2枚の小画像と参考写真(1,2,3)及びギャラリーの [No.671]〜[No.676] までは全て夕刻の写真。その次の [No.677] [No.705] の2枚は異色で、朝の7時過ぎの撮影。西行に叱られそうな写真だが、この光景はシギが日課として当地にやって来たところ。当っている光は、定番の西日ではなく朝日である。
2006年の明け以降セイタカシギの数は次第に減って、一時期は(中洲には来ていたかも知れないが)岸の方ではまったく姿を見ない日が続いたりした。[No.685] は2月中旬の撮影。この写真は夕方で群がカーブしていく途中をとらえた。この頃以後、当地のセイタカシギはめっきり減って、飛来するものの数は一桁になった。

最後の [No.700]〜[No.702] は桜満開の4月初旬。この日は日中は瞬間風速が30メートルを超えるような強風が吹き荒れる一日となったが、朝のうちは穏やかな快晴で、堤の桜を撮ってから岸辺に向かった。この時期はコガモとユリカモメが残っているが、オナガガモやヒドリガモはもう姿を見ず、何となく閑散とした雰囲気になってきている。
頭の黒くなったユリカモメを撮って帰途につくと、2番池の護岸に久々セイタカシギが6羽いた。翼が黒いのや褐色のものなど色は様々。脚のピンク色が薄いものが多かった。脚輪を付けているのが1羽、東京湾で生まれたものだろう。

2007年夏は猛暑だった。秋は晴天が続き雨の日は殆ど無かった。堤防側帯の桜並木の紅葉は12月初めで、季節の進行はほゞ例年通りと感じられたが、寒さの到来は意外に早く、12月には寒波襲来などと言われないまま、もう真冬の寒さ(日中気温が一桁)という日が始まっていた。
冬鳥は例年と変わらない印象。多いほうではユリカモメ、オナガ、コガモなどは例年並。ヒドリガモは2006年は六郷橋より上手方面で多く見かけるようになったが、2007年はまた当地でもオナガと共に河川敷に上がり込んでいる姿が見られるようになった。数の少ない方ではオオバンは例年並、キンクロハジロ、ホシハジロなどは当地ではもともと少ないが、2007.12はまだホンの数羽にとどまる。セイタカシギは11月から22羽でまとまって見られる日が多かった。
本流から中洲で遮られ、干潮時には干潟が出現する塩沼地に、シートパイルが剥き出しになった護岸が数百メートルあり、大仰に根固めブロックまで並べてあるのは見苦しい景色だが、テトラポッドはセイタカシギにとってはお気に入りの場所。
セイタカシギは干潮時には干潟や浅瀬を忙しく歩き回って、餌を探している光景が見られるが、満潮時にはこのようにじっと佇んで、何時間も殆ど動かず時を過ごしているケースも珍しくない。この時間が彼らにとってどういう意味を持っているのか不思議な気もする。


 
当地の冬鳥の代表格は、数の上ではユリカモメ。羽田沖には何月頃から来ているのか知らないが、六郷の塩湿地に姿を見せるのは時期的には結構遅い。コガモが来て、カルガモとオナガガモが入替わった後(11月初旬頃)にやってくる。
2005〜2006年のシーズンは数はそれほど多くはなかった。(数百のレベル) ただ前のシーズンから既に減ってきていたので、今年(特に年明け以降)めっきり数が減ったセイタカシギのようには、今年は少ないなァという印象ではなかった。

  (鳥類の翼の名称や機能については [参考31] を参照

ユリカモメは雌雄同色で、遠くからでは皆同じように見えるが、成鳥とは毛色の異なる若鳥が混在しているので、詳しく観察すれば実際には結構多彩な集まりであることが分かる。
[No.686] は11月初めで、まだやってきて間もない頃。ユリカモメの成鳥は翼の上面が微かに青味掛かった灰色で初列風切の先端部(静止状態では尾羽の上にくる)は黒い。脚は深紅で嘴も深紅だが先端部は黒っぽい。冬羽の頭部は白く、目の後方に黒灰色の斑紋がある。
([No.712] は2007年12月末、六郷水門水路沿い手摺。こちらは若い。時刻は夕方。)
(右の小画像や下の参考1で、雨覆が逆立っているのは風のせい。ユリカモメの成鳥はJR六郷橋のページにも載せている。(幾らか赤っぽいのは夕陽のため)[No.51A]

   (ユリカモメ 1)

右の2枚は若鳥を撮った。 [No.687] は12月末撮影。この個体は嘴や脚の赤が未だ淡くオレンジ色をしている。翼は綺麗に生え換わっているので第2回冬羽というところだろうか。
次の [No.688a] は3月中旬の撮影。嘴の色は [No.687] より更に淡いが、翼の上面が青灰一色でなく、褐色の斑模様が混じっている特長がある。これが第1回冬羽(当歳)の特徴と思われる。数的にはこの手の個体はかなり多い。
下に載せた (参考 2) は、飛んでいるところを上から撮ったもので、これを見ると、羽の褐色部分は「次列風切」の先と「中雨覆」らしいと分かる。

鳥類でヒナが幼鳥になり、やがて飛べるようになる段階では、体長は既に親と変わらない大きさになっているのが普通で、体の大きさで若鳥を区別することは出来ない。
若鳥は成鳥に比べると、一般に色が鮮やかでなく、淡い或いはくすんだ色をして、コントラストが明瞭でない、全体に冴えない感じの毛色をしている種類が多い。
ユリカモメの場合、脚と嘴以外はほゞ無彩色なので区別しずらいと思い勝ちだが、成鳥で黒いのは「初列風切」(主翼の先側)の先端部分だけなのに対し、若鳥では「次列風切」の先も黒っぽい。更に顕著な違いとして、若鳥のうちは「尾羽」の先も帯状に黒くなっている。この特徴は分かり易いので、飛んでいるときに下から見ても容易に区別ができる。

   (ユリカモメ 2)    (ユリカモメ 3)

右の小画像は、ユリカモメが止まって見えるが、実際にほとんど止まっている。トレーニングジムのランニングマシンのように、強い風に向かって飛行バランスを取っているところで、強風の日にユリカモメではよくこういうシーンを見る。
ユリカモメは雑食性で白いカラスと呼ばれる。中洲にいても、河川敷に餌(パンの耳が多い)やりの人がくれば、いち早く見つけ、一斉に飛来してくるしたたかさを備えている。
通りすがりに見ている程度では、自然の餌を採っているところに殆ど出会わさないが、4月上旬頃好天の日によく見ていると、数十羽中数羽程度のものが、浅瀬で頻繁に水中に嘴を突っ込んで何かを採っていた。小魚が獲れているようには見えなかったが、動くものを獲っているような素早い動きはしていた。
以前から稀に潜る格好をしているのは見ている。摂餌行動だろうか? 下の (参考 4) はユリカモメの水上スタイル。地上ではズングリした姿に見えるが、水上では首を伸ばし、尾羽をピンと張上げて、体をくの字に折り曲げた格好をしている。(参考 5) はその姿勢から飛込む寸前をキャッチしたもの。
(ユリカモメの水上姿勢は如何にも水を嫌がっているように見え、カモ類ほど濡れに強くない体質を想像させる。休息中は陸上を好み水上にいる姿はあまり見ない。)

   (ユリカモメ 4)    (ユリカモメ 5)

ユリカモメのバリエーション紹介に欠かせないのは夏羽姿。成鳥だけに見られる変化として、夏季には頭部が(嘴側から覆面を被ったような形に)黒っぽい色に生え換わる。当地でも、春にカムチャッカ方面に帰っていく直前時期に、成鳥の一部でその姿を見ることが出来る。ただその期間は短く、換羽が進んでいる個体数も少ない。
[NO.691a] は4月初旬の好天日で、色換わりはまだ完全ではないが、この時期陽射しが強い日は撮影には貴重だ。注目すべき点は、夏羽に換わりつゝある個体では、同時に嘴や脚の鮮やかな赤色が失われ、暗赤色に変わっていくことである。
下の (参考 6) はこれに先立つ3月下旬で、顔が胡麻塩みたいになっている。(参考 7) は4月初旬。右の小画像は4月中旬で、頭部がほゞベタに黒く見えるようになったものを探して撮った。(参考 8) は4月下旬。終盤になるこの時期には、当地から去っていくものが増える一方、 "渡りの途中" で立寄る群もあり、毎日違う群を見ているようで夏羽個体の混在率は日々異なる。
成鳥の夏羽では、頭部が黒っぽい色に生え換わり、眼の周囲の眼瞼部は白いまま残される。その写真は何処にでも載っているが、知る人ぞ知る秘密の特徴として、眼瞼縁(眼瞼の内側で眼球の輪郭にあたる環状線)が赤く変化するということがある。
[No.703][No.704] は4月下旬に差掛かる頃。この日はあいにく花曇りで陽射しは弱かったが、顔を至近距離で撮影する千載一遇のチャンスに恵まれ、白毛部分の縁(眼瞼縁)が赤くなっている様子を(雰囲気程度ながら)一応キャッチできた。このようなアップで見ると、頭部の毛が風切先端のような黒色ではなく、濃いこげ茶系であることも分かる。

   (ユリカモメ 6)    (ユリカモメ 7)    (ユリカモメ 8)


 
2006.1.21 東京に久し振りにまとまった雪が降った。翌22日は日曜日で、昼過ぎまで曇っていたが、3時頃に束の間の青空がのぞいた。(この時の河川敷の様子は「六郷橋緑地」のページにも3枚載せている。)  [No.681][No.682] は同じ時の撮影。雪が上がってから丸1日経っているため、雪面が踏み荒され、中洲の雪も満潮時に流されてしまったのは仕方がない。降雪中はまともな写真にはならないので、当地で一応雪景色といえるだけの積雪風景は貴重である。

夏場に子育てが見られたガマの群落では、バンのペアがそのまま同じ場所に留まっている。冬になるとガマやフトイの地上部はすべて倒れ、もはや隠れ家にはならなくなってしまう。倒れた群落は一面ゴミだらけと言っても過言ではないほど汚いが、それでもバンは大抵その界隈にいる。川筋に沿う一回の探査で、実際に確認できたのは最大で4ペアまでだが、縄張りの関係から推測すると、雑色ポンプ所前から六郷水門までの一帯には、4ペアプラスアルファ居ると思っている。
雑色ポンプ所前の一番池では、奥のヨシ原沿いとフトイに並ぶガマの中で見かけるこれが1ペア。二番池周辺では、フトイの中やヨシ原側の前縁にあるガマに出入するペアを見る。ガマ群落の中から声が聞こえるが未確認。三番池は大きなガマ群落の端に出てくるペアがいて、2005年には初夏に子育てをしていた。

このペアは、冬場には人が居ないと、よく河川敷に上がって餌取りをしている。人が来ると、余裕があれば水に入るが、慌てると水路の方向に水平飛行で退避する。バンて飛べるんだ、とこのとき初めて分かる。
冬のバンは丸々と太っているが、なぜか夏とは違ってよく飛ぶ。あくまで水面ぎりぎりだが、揚力を持続させて想像以上に「様」になり、50メートルくらいは余裕という感じを見せる。
下の参考図1は、大きなガマ群落の東端近辺。夕方バンが籠マット護岸の水際で、草陰になっている所に居たため、双方が気付かず近距離でほゞ同時に相手を発見することになった。水辺であったにも拘わらず彼は本能的に飛んだ。右旋回すればガマは直ぐだが、そういう器用なことは出来ないとみえ、一直線に遠くのヨシ原近くまで飛んでいった。こちらも撮影態勢にはなっていなかったが、彼が一直線に飛んだため、30〜40メートル先でファインダーに捕えられた。後姿で頭は下げているため翼の陰になって写っていない。([No.670] でオオバンの飛行姿を横から撮っているので参考にしてほしい。)

    (冬のバン 1)     (冬のバン 2)    (冬のバン 3)

4ペア目はテーブル護岸脇の小さなガマ群落で、2005年夏に無謀な子育てを行ったペア。(詳細はカルガモ・バン特集ページに掲載) ここもゴミに埋まって可哀想だが、ペアは冬になっても変わらずここに陣取って居る。参考の2,3と上の小画像、ギャラリー [No.670] はいずれもこのペアを撮った。[No.670] は近くに相方が居るが、発泡スチロールのようなゴミが写り込んでしまうため、2羽で撮ることは出来なかった。
この後は六郷水門前のヨシ小島。ただここには少なくとも3羽は居ることが分かっていて、互いに争うような様子が見られないことから若鳥である可能性が高い。2005年12月頃になって初めて気が付いたので、2005年に生まれたどちらかの子供たちが、親に追われてここに移ってきたのではないかと考えられる。
右の小画像と下の参考図は2006年の3月中旬で朝方の3番池。参考1が通常速度でガマの向うから出てきた。とその後からもう1羽(参考2)、こちらは頭を下げ、潜航艇のような格好で猛然と追いかけている。バンがこんなに速く泳ぐところは初めて見た。(航跡波形の違いを比較してほしい) やがて後のものが追いつき、一戦交えたあと2羽は50メートルほど飛んだ。右にカーブし、直線でない飛行もこのとき初めて見た。暖かくなって、繁殖を視野にオスがメスを追っているのか、境界を巡る縄張り争いが起きているのか何かと賑わしい。右の小画像はこの時の撮影で、着水に近い時点のもの。

   (春先のバン 1)    (春先のバン 2)    (水門前のバン)

冬場には、どこからともなくオオバンが現れる。オオバンはバンと同じクイナ科で体形はバンにやゝ似ているが、2回りほど大きくずんぐりしてカモに近い大きさがある。額板から嘴にかけて白いことがバンとの顕著な違いである。2005〜06年の冬は、六郷水門前を中心に20羽以上の群で姿を見せる日が続いた。[No.679]
2007.12月も、当地では疎らだったが、六郷水門下手の干潟に15羽の群を見た。
バンの趾(あしゆび)には水掻き状のものは全く無いが、オオバンの趾はバンほどには長くはなく、その代わり「弁足」と呼ばれ、各指の周りに、後に蹴るときに開く葉状の膜が付いているという。ただ首を前後に振って一生懸命泳いでいるという格好はバンに似ているし、平生泳ぐスピードもカモ類ほど速いようには見えない。(右の小画像は2005,12月末)
[No.667] は夕暮れ時の六郷水門前。このときはまとまって河川敷に上がり摂餌していた。私が近付いたことを察知した5,6羽は既に低水路に去っているが、堤防法尻の方まで行っていた数羽は、間に合わないとみて飛んだ。
飛んだところを辛うじてゲットしたのが次の [No.668] だが、足の方が何やらすっきりしない。こうしてみると、指周りに付いている膜は気休め程度のものではなく、結構まともなものであることが想像される。

足に注目して撮った写真を下に参考図として載せた。同一個体で、どちらもお爺さんが後手をして歩いているような妙な格好だ。2枚目の水際を歩いている方を見ると、弁足の様子がこの程度のものかと分かる。(2006.2月初旬)

    (オオバン 1)    (オオバン 2)    (オオバン 3)

オオバンはバンと違って結構頻繁に(時間は短いが)潜って摂餌する。潜れるという事実もオオバンがバンより強い水掻きを持っていることを想像させる。[No.694] は2006.3月中旬の夕方で上げ潮が始まった時刻。オオバンは妙に興奮状態で慌しく動き回っていた。潮に乗って小魚が水路に上がってきたのではないかと思う。
バンは完全な留鳥で、縄張り意識が強く、非繁殖期にも群れることはないが、冬場当地に現れるオオバンの方は群で行動していることが多い。オナガガモのように人馴れすることはないが、近くに人が居ない隙をねらってよく河川敷に上がり草をむしっている。人が来れば必ず退去し、行ってしまえば又上るということを繰す。([No.696])
下の参考写真は3月中旬。河川敷から退去するときのもの。太っているわりに翼は小さいので飛行は苦しい。上の参考3は飛んで着水した直後の瞬発力で、こういう時の泳ぐスピードは意外に速く、波紋を見てもバンよりは速いことが分かる。

    (オオバン 4)    (オオバン 5)    (オオバン 6)


六郷水門から本流に繋がる水路は、水門奥の船溜りに40人乗りの遊漁船が出入するため水深は深く、周囲に葦の叢れた洲状の小島があり (参照 [No.62H])、辺りはチョッとした池のような雰囲気になっている。この界隈の冬場は、上に載せたオオバンのほか結構多彩な鳥たちが暮らしている。
ヨシの群落には留鳥のバンが1ペアいて、周辺でしきりに餌を啄ばんでいる。水門水路から本流への出口脇には、夏場にカワウが羽を広げている姿が見られるが、冬場も稀にこの洲に居ることがある。頭が白くなるのは婚姻色らしい。(下に参考写真を載せた)
冬場に数が多いのは他所と同様にオナガガモでコガモも多いが、この一画だけは冬場も珍しくカルガモが少し見られる。これらの常連のカモたちに混じって、数は少ないが、例年キンクロハジロやホシハジロがやってくる。
右の小画像は 2007年3月のキンクロハジロである。このカモは腹と嘴が白っぽく他は黒一色で、目の金色に特徴がある。この場所は枯れたヨシが夕日に映えて一面が金色なので、目の色はあたかも周囲の色を映しているかのようだが、実際に金色をしている。後頭部に冠毛のあることが、遠目ながら微かにそれと分かる。メスはここでは少ないが、茶系の冴えない色をしている。
いつも慌しく潜水を繰返していて、一度もぐると30秒くらいは上ってこない。潜った時の波紋が乱れないほど深く入り、次にどこに出てくるかは予想がつかない。

右の小画像はホシハジロ。下のヒドリガモと同じ3月中旬に六郷水門近くで撮った。
頭から首までは光沢のある赤茶色、胸と尾は黒く、中央の背腹は薄い灰色。目は赤い。ホシハジロはキンクロハジロと同様に潜るタイプのカモで、陸に上がっているところは見たことがなかったが、4月初旬に珍しく護岸にいるところを撮ったので差し替えた。
この日は2羽いたがともにオス。メスはオスに似た柄で彩度やコントラストが低い冴えない風合いらしいが、当地でメスを見たことはない。
次の [No.707] は上に遠景を載せた [No.706] と同じ日(2007年1月)夕方の撮影。

(2006年2月中旬に、多摩川河口の船上見学会に参加して、行きすがら鶴見川の河口付近を見る機会があった。鶴見川のJR東海道線鉄橋(佃野護岸)より海側は、両岸に防潮堤が整備され高水敷は無いようだった。唯一、鶴見大橋(首都高速横羽線)を潜る少し手前の上手右岸に貝浜と呼ばれる岸があり、一帯は夥しい数の貝殻で覆われていた。
この近辺にはキンクロハジロの大群がいて、ところどころでホシハジロの群も見られた。この日の鶴見川は見慣れた六郷川とは逆にオナガガモやコガモはあまり見当たらず、キンクロハジロ一色という印象だった。
鶴見川はBODが高いなど、水質はむしろ悪い方で有名な川だが、近年は幾らか改善がみられ、タマちゃんも多摩川を去ったあと、一時鶴見川に寄っている。貝類などの底棲小動物が多いことで、食性面からキンクロハジロなどが寄るのではないだろうか。)

 (下の参考写真は2006,2007年、2〜3月の水門前。キンクロ3はメス)

   (ホシハジロ1)    (ホシハジロ2)    (ホシハジロ3)

   (キンクロハジロ1)    (キンクロハジロ2)    (キンクロハジロ3)

   (カワウ:婚姻色)


 
2006年3月は、連日寒暖の差が激しい季節の変り目という気候が続いた。[No.683] を撮った3月中旬には、オナガガモは既に半分以上が姿を消し、それを待っていたかのようにカルガモの数が少しずつ増えてきていた。この頃はコガモは殆どのものが番になっているが、未だ渡っていくものは無く、この時期はやけにその存在が目立った。ユリカモメもそれほどは減ったようには見えなかった。
ヒドリガモは陸に上がるカモの一種で当地では比較的数は少ない。オスは顔から首が赤茶色で胸は薄赤茶色。頭部中央に縦に入る黄色帯が遠目にも映える綺麗なカモだ。尾は黒く背は灰色で腹は白色。(ヒドリガモのオスの発色はオナガガモのように早くはなく、コガモににて冬場12月頃にならないと明瞭にはならない。)
[No.683] は3月中旬の朝方、オナガガモに混じって河川敷に上がり込んでいるところを撮った。撮っているときにはオナガガモに混じってヒドリガモのメスも2羽いるなと思っていたが、写真を見るとメスの腹があまり白く写らなかったりして結構紛らわしくなった。
当地の場合河川敷でヒドリガモと混在する可能性があるのはオナガガモだけ。オナガのメスはオスほどには尾は長くないので、尾による区別は難しい。

  (ヒドリガモ 1)   (ヒドリガモ 2)   (ヒドリガモ 3)

オナガのメスは全身の模様が色柄ともほぼ一様という感じなのに対し、ヒドリのメスは背が幾らか黒っぽくて柄がやや大きめ(チョッと見ではキジバトを連想させる)、脇腹はやゝ赤味があって下腹は白さが際立つなど、良く見れば双方は区別出来ないほど似ているわけではない。
2006年にヒドリガモを初めて撮ってからその美しさに惹かれ、3月下旬に掛けてはヒドリガモを集中的に追った。[No.683a][No.684a] を撮ったのは3月下旬。[No.683] を撮ってから10日間ほどの間に、オナガガモは1ペアを残して全て居なくなり、河川敷の様子はガラっと変わった。この頃のヒドリガモは3ペアで、水上ではオオバンやコガモと一緒に居ることもあったが、独自のグループで行動していることが多かった。
冬がもう終わろうとするこの時期、オオバンは未だ20羽近く残って居て、河川敷にもよく上がってきていたが、人が近付けば敏感に反応し必ず水上に退避する。一方ヒドリガモはオオバンと一緒に歩いて河川敷に上がることもあったが、水辺から飛んで上がっってくることもあり、飛べる自信があるせいかオオバンほどは神経質に逃げることはなく、写真を撮ることは比較的に容易だった。
([No.714] [No.715] は2シーズン後の2007年12月下旬、日没直前の時間帯で、籠マット護岸上に群れるオオバンとヒドリガモを撮った。)

すっかり気に入ったヒドリガモだが、一応撮り終えると、今度は飛んでいる姿を撮っておきたいという欲がでてきた。3月末ではもういつ居なくなってもおかしくはない。晴天でないと綺麗には撮れないので、チャンスはそう何度も無いだろうと思っていた。
本格的な望遠ではないので、近付いて撮るしかない。以前花火を撮る時に、感度を上げてノイズだらけになり大失敗したことがあって、感度を上げることには不信があったが、ボケた写真では意味がないので(シャッタースピードを上げるために) ISO400 にした。多少ノイズは出たが心配したほどではなかった。下の参考写真(4,5はメス)のほか、[参考31] 「カモ類の翼の名称・機能について」のページにもヒドリガモを使った。

  (ヒドリガモ 4)   (ヒドリガモ 5)   (ヒドリガモ 6)

渡るカモ族には、エクリプスまで含めると一種で3通りの色柄があり、観察の実績を積まないと正確に区別するのはなかなか難しい。特に渡るカモのメスは地味で皆よく似ているので素人泣かせだ。

何日かヒドリガモを追って撮っているうちに、チョッと違う雰囲気のメスが1羽混じるようになった。(右の小画像はヒドリガモのオスを狙ったものだったが、たまたま後にこの疑惑のメスが写っていた。)
これが混じるようになって、全体の数が変だなという感じは受けていたが、まさか違うカモが混じっているとは露ほども思わなかった。ところがある朝、当地の野鳥に詳しい人から、1羽は「オカヨシガモ」ではないかと教えられ、以来このメスを注意して見るようになった。
ヒドリガモはオスもメスも嘴は灰色をしている。ところがこのメス1羽は嘴が黄色い。
下で紹介しているように、この近辺には川下側にマガモがいる。そこでマガモのメスをよく観察してみると、嘴は元の方はオレンジ気味に見えるが中央の上面は灰色っぽい。
またマガモのメスは、脚がオスに似てかなり赤味を帯びている。一方ヒドリガモに混じっているこのメスの脚は嘴とほゞ似た淡い黄色をしているなど、大きさがマガモより小さいという以外にもマガモとは幾つか相違点があることが分かった。
「オカヨシガモ」について、私自身は近くにオスを確認していないし、1羽きりでは雑種の可能性も否定しきれない。というわけで「オカヨシガモ」として参考写真を載せているが確信はない。

  (オカヨシ 雌1)   (オカヨシ 雌2)   (オカヨシ 雌3)


 
六郷ポンプ所の排水門(六郷水門の下手)から川下側の左岸一帯の高水敷は、水路側はオギやヨシの群落になっているが、堤防側はグランドが整備され、河川敷は大師橋緑地と呼ばれる。緑地の川上側(緑地の西端)の岸には、昭和の中期まで存続した低水護岸の一部が残っていて、旧水路がここから鋭角的に右岸に向かっていた名残として、澪筋方向に瓦礫の残骸も点々と認められる。
この旧護岸には「カメノコ」のような水制工が直角に突き出した部分があり、ポンプ所の樋管水路からカメノコまでの入江状の水辺に出洲が発達している。この洲でもユリカモメなどは見るが、ここで特徴的なのはマガモが来ることである。(この干潟は正確に言えば六郷橋緑地先の湿地にはあたらないが、このページでは界隈で見られる冬カモを特集しているので、ついでに載せておくことにした。)
2006年3月朝、春富士を撮りに行った帰りに立ち寄ってみると、たまたま干潟にマガモが6羽いて、既に3組の番(つがい)が出来上がっているようだった。オスは首の青さが特徴、メスは平凡だがオスと同じ位の大きさがあり、オナガやヒドリのメスよりは少し大きい。

六郷水門周辺には野生化したアオクビアヒルが2羽住着いていて、色柄的にはマガモに非常に似ている。そのアヒルはこの辺にも出没するので一見したところでは紛らわしい。ただ当地のアヒルは相当大きいので(胴長)、よく見れば見間違うということはない。
(アヒルのことは「六郷橋緑地と六郷水門」のページでエクリプスの様子などを含め紹介している。エクリプスで首の青は剥げるが嘴の黄色は残る。)

   (マガモ 雌)    (マガモ 番1)    (マガモ 番2)

 
最後に水鳥ではない渡り鳥(冬鳥)のツグミを載せた。(右の小画像は2006年4月初旬に、雑色ポンプ所前の河川敷で撮影した。)
スズメ科の大きいものとしては留鳥のムクドリがいる。この界隈でもで近年その数を増し、今や「小さいカラス」ともいうべき存在になった。干潟にも平気で下りるので、遠目にはシギ・チドリと紛らわしく、素人には憎っくき敵役的な存在である。
普段邪魔なムクドリばかりが目に付くもので、この手のものは見ない習慣になっていた。そんな訳で、ツグミについては2006年春先になるまでその存在を知らなかった。何月頃にきてどの程度の数がいたのかなどのことは分からない。
ツグミはムクドリと大きさはほゞ同じだが、主翼の雨覆は茶褐色をしている。樹上に居る場合などシルエットしか分からない時には、ムクドリと比べ細身に見える違いを頼りにする。(下に比較参考のため、2006年春に撮影したムクドリを載せた。ツグミの方は2007年1月下旬に撮ったもの。)

   (ムクドリ 1)   (ムクドリ 2)     (ツグミ)


 

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