第六部 六郷橋から大師橋 

(六郷橋から大師橋周までの地図を表示)

   その4 大師橋緑地の富士とオギ


(左右の写真には拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

 
六郷橋緑地は六郷水門で終りとなる。六郷水門の川下側100m余りのところに六郷ポンプ所の排水路がある。六郷橋緑地から先の高水敷はこの二つの水路で遮断され、堤防以外には行き来が出来ないため、あまり活用する余地がない。水際はヨシが繁茂し、特に六郷水門寄りはヨシで覆い尽された小島が繋がって見え、ヨシの群落が川中に向けて張出した格好になっている。(ここでは夏季に、長期間刈取が入らないと、ヨシが堤防法尻まで高水敷の全域を覆いつくしてしまう。)
六郷ポンプ所を過ぎた所から大師橋までの高水敷は大師橋緑地と呼ばれる。大師橋緑地は上手側の六郷ポンプ所からの一画は南六郷1丁目だが、その下手の洲がある場所は本羽田1丁目、その下手は大師橋まで本羽田2丁目、本羽田3丁目と続く。
六郷橋から六郷水門までの川道はやや北に寄った東向きだが、六郷水門を過ぎてからは真東に下るようになるので、この区間では川下に進むほど六郷橋方面がよく見えるようになる。(当地の写真では、川上を向いて撮れば六郷橋やテクノピアビル群、背後に富士山が写り、川下を向いて撮れば大師橋が写ることになる。)

2006年迄ヨシ群落は本羽田2丁目から3丁目までだった。多摩川の汽水域が未だ細い蛇行水路だった時代には、本羽田1丁目が左岸側のピークで折り返し点になっていた。蛇行水路の内側になる本羽田2丁目から3丁目までの辺りは、右岸側の川崎大師東門前方向まで低い陸地として伸びていた。氾濫原のなるこのような土地の多くは果樹栽培用地などに供されている例が多いが、この地は地盤がかなり低かったらしく、栽培用には適さずヨシ群落などだった。
昭和時代になってから水路が大幅に広げられ直線化が図られた際に、その陸部は大半が掘削されて水域に編入された。その際根元の掘削されなかった部分が現代まで残るヨシ原になっている。従ってこのヨシ群落は、おそらく近世には既にあったと思われる古いものである。

右に載せたヨシ群落は、本羽田2丁目から3丁目までの辺りに残る古い群落で、水際の様子を撮ったもの。
最初の [No.64L1] は、この界隈を撮った手持ちの写真のうち最も古いもので、本羽田3丁目に入った辺りで2002年の6月に撮ったもの。ヨシが薙いでいるのは強風下だったため。この頃は大師橋は未だ下り橋しか出来ていなかった。(先の方に見えている白い筋は釣り竿)
次の [No.64L2] は4年後の2006年8月に同じ辺りで撮ったもの。大師橋は上り橋も出来上がっている。先の方に、この時期にこのような穂が見えるということは、既に幾らかの部分はヨシからアイアシに転換していることが分かる。[No.64L3] は同じ日に撮ったもので、群落を川下方向に抜けて大師橋の上手左岸の干潟に出る小道の最後の部分。右手側のヨシ群落は厚みは無く、すぐ裏手側が本流になっている。次の [No.64L4] は10年後の2016年8月の撮影で、位置は前の [No.64L3] と同じ所だが、こちらは逆に川下方向を向いて撮っている。興味は小道の両脇にシオクグが見られることで、このシオクグは2015年には既に確認されている。最後の [No.64L5] は [No.64L4] を撮った同じ日で、川上側に戻って [No.64L2] を撮った辺りで川下向きに撮っている。この界隈のヨシの雰囲気はこの10年余り殆ど変わっていない。


 
六郷ポンプ所からしばらく下ると、下手の沿岸部に左岸としては最後のヨシ原が広がるようになる。高水敷は散策路で隔てられた水路の側がヨシの繁茂地となる。大師橋緑地は左岸側では最後の高水敷になり、この界隈では平時でも水面と陸地(高水敷)の段差は数十センチ程度しかない。
本羽田2丁目から3丁目までに残るヨシ群落の上手側に広がる本羽田1丁目のヨシ群落は、下の方イセウキヤガラの欄で詳しく紹介しているように、近年(2007年〜)になって出来た新しいもので、おそらく川上側の六郷のヨシ群落が川下側に広がり、六郷水門前に達し島状にヨシが見られるようになった頃、その辺りから種子が飛んできて定着したことが起原になっていると思われる。
汽水域の左岸一帯についての植生を考察する場合、最小限の前提知識として、大師橋緑地の沿岸部では、本羽田1丁目の洲に発達している新しいヨシ群落と、本羽田2丁目から3丁目までに残る古いヨシ群落とは全く別物であることは知っておかなければならない。


 

大師橋緑地の見所は下側に(界隈で随一の)オギ群落があることだが、そのほか当地は知る人ぞ知る富士見所でもある。
左の [No.64K] は 2006.3.20 の春富士。これを撮っている場所は大師橋緑地に入ってすぐの辺りで、この辺で乾き方向を見た場合には富士はこのような位置になる。

この時期には空気中の水蒸気濃度が上がり東京から富士が綺麗に見えることは少ないのだが、この日は3月としては観測史上最高となる30メートルを超える強風が吹いた翌日とあって、珍しく富士がくっきりと綺麗に見えたのでこれを載せたが、実際に富士がよく見えるポイントはもっと川下側にあり、絶好点から見える富士の様子は下の方に特集して載せている。
次の [No.64F4]も [No.64K] と同じ場所から撮ったものなのでここに続けて載せた。こちらは冬で、下の方に載せた冬の富士特集(その5)〜(その7)を撮った日に、この位置でも撮っていたのでここに載せている。比べて見れば前の写真に春の温かみが感じられる。
(この撮影位置は下の方で紹介している水辺の富士見ポイントではなく、六郷水門寄りになる大師橋緑地の西端から川上を見たもので、前景に写っているのは雑色ポンプ所がある界隈の六郷橋緑地である。)

2004年元旦に初めて河口まで御来光を拝みに行った。幸い初日の出は見ることが出来たが、快晴ではなく、空は南から西にかけて分厚い雲が浮いていた。期待していた富士は全く見ることが出来なかったが、そのかわり帰途にここで予想外の写真を撮ることが出来た。それが右の [No.64A]〜[No.64C] の3枚である。
ここは六郷ポンプ所の排水路がある直ぐ川下の河川敷で、川縁は未だ大師橋緑地のヨシ原が始まらない川上側になる。河川敷から低水路への段差は僅かで、護岸を跨ぐと干潮時には干上がる洲が発達している。夏場にはこの洲の中央部全体がイセウキヤガラに蔽われるが、冬場は地上部は枯れて消滅し裸の洲そのものである。
ここでは稀にマガモを見ることがあり、汽水域の貴重な景観を見れる場所になっている。冬場はユリカモメの溜まり場にもなっていて、川崎方面のビル群もよく見え、以前から私の好みのスポットの一箇所である。
ここで人が野鳥に餌付けをしているのは見たことがないが、直ぐ川上側の南六郷地先ではよく餌付けしている光景を見る。ハトやカラスに伍してカモやユリカモメも餌取に参戦していて、この界隈の(シギやサギは別とした)大型の冬鳥はかなり人馴れしている。

弁天橋の袂で初日の出を見た帰途ここに立ち寄った。時折朝日が雲の切れ間からのぞく、好天とも曇天とも違う日差しのおかげで、普段には撮れないチョッと幽玄な雰囲気で川崎をバックに都鳥を撮ることが出来た。私にとってはこれも正月の一風景になった。

[No.641] は大師橋緑地の川上寄りで、ヨシ原が始まる辺りの位置で撮っている。川原からは川越しに六郷橋方面が一望される。この日は日本列島の南方海上に台風6号があって、その影響で雲は早く変わりやすい天気になっていた。
[No.642] は夜間に台風6号が房総半島を縦断し東北側に抜けた次の日。この日富士はよく見えていたが、この写真では右から2番目の建物の陰になってしまっている。(左の裾野部分だけ僅かに見えている。)
台風一過は空気が澄んで空も美しいが、川の方は泥水となり多くのゴミなども流してくるので、川を被写体にしたものは綺麗な写真にはならない。[No.642] を見る限りでは、川が増水している気配は見えるが、全体としては意外なほど穏やかな雰囲気に撮れている。実際には増水した濁流が相当な速さで流下していて、川下側ではゴーゴーという滝のような大きな音がしていた。音のする辺りで川原に出てみたところ、ヨシ原先の左岸に寄った部分で濁流があわを立て、渦を巻いて流れていたが音の発生源は確認出来なかった。
この写真を上の [No.64A] と見比べると、テクノピア(ソリッドスクェア)の左タワーリバークまでの間が変っている。今ここにはミューザやアーベインビオの高層ビルが見える。(ドコモビルの左の高層ビルは、興和東口ビル(IBM)、市庁舎、区庁舎の順。)

昭和の中期以後、六郷橋から下流側の低水路は順次拡幅が図られたが、以前この一帯の低水路は激しく蛇行していた。当時の流路は現右岸の河港水門の川下地点から現左岸方面に向かい、六郷ポンプ所の下手、現在大師橋緑地が始まる川上側の端辺り(本羽田1丁目地先)が蛇行の頂点になっていて、そこで反転した流路は又右岸の方向、旧大師の渡しがあった方向(川崎大師の東門前:現コマツ裏)に向かうようになっていた。(ここから右岸に向かう旧護岸の残骸を参考写真として下に載せた。)
         (旧護岸残骸:川下向き)

水路が拡幅され現在の本流方面に新たな澪筋が通された後、旧流路の頂点だったこの辺りの岸辺は土砂が堆積して塩湿地となった。ただ当地は本流に曝された剥き出しの環境にあるため、堆積地の地質は比較的粗く、泥干潟というより砂洲に近い感じになっている。
[No.64I] は六郷ポンプ所を過ぎた位置で、堤防上から川下側に大師橋緑地を遠望したところである。この写真の時期は2005年6月、改架中の大師橋の上り橋がようやく姿を見せた頃で、橋の側面は白い板が貼り付けられた工事中の独特な雰囲気となっている。

[No.64A1] は同じ大師橋緑地入口地点から逆に川上側を見ている。六郷ポンプ所の排水路先に見えるヨシ叢は六郷水門水路の川下側出口にあたる位置。同じ水路の川上側出口のヨシ叢は未だ厳密には島状だが、川下側のヨシ叢は堆積が早く、2015年頃には既に高水敷と地続きとなっていて、高水敷から歩いて先まで行けるようになっているが、HLの占拠するところとなっている。
上に載せた [No.64I] は満潮時の写真で水没していて分かり難いが、右手前の抉れた部分は塩沼地になっていて、干潮時には水が退いて砂洲が出現する。右の [No.64A2] は干潮時に砂洲に出て川下側を望んだところである。次の [No.64A3] は、干潟の川下側の端に残る蛇行水路時代のものと思われる旧護岸から、上下道が完成した大師橋を見たものである。
この干潟には冬場はマガモが飛来し、夏場は川下寄りの岸側にイセウキヤガラの群落が広がる。イセウキヤガラはサンカクイに似たカヤツリグサ科の抽水植物で、この湿地にはイセウキヤガラだけのまとまった群落がある。
イセウキヤガラは多摩川の河口周辺では比較的見られるものの、羽田空港再拡張の際の環境アセスでも特にその名前があげられていたように、全国レベルでは減少が懸念される種になっていて、県によっては絶滅危惧U類に記載している。

右の4枚は2006年8月、本羽田1丁目地先に発達した洲を覆うイセウキヤガラの群落を撮ったもの。
[No.64Ea] はこの洲の上手側に出て、川下向きに撮っている。遠くに大師橋が微かに見えている。
[No.64Ea] は逆に川上方向を望んで撮ったもの。背後に見えている大きな建物は南六郷2丁目にある公団住宅。この公団の前の堤防沿いに見える水門は川上側(奥の方)が六郷水門で、手前側は六郷ポンプ所の排水門である。左奥は六郷水門前に島状に発達したヨシ群落。
[No.64M] は洲上の本流側からイセウキヤガラを近撮したところ。次の [No.64N] は花のアップで8月11日の撮影である。

 (地上部は秋には枯れてしまう。下は10月下旬:イセウキヤガラの群落跡)

2006年の夏、ここから六郷水門を挟んだ川上側数百メートルの距離にある塩湿地の中洲に、イセウキヤガラの大発生があった。上に参考写真を載せたように、一般に10月には地上の緑は失われるが、中洲のイセウキヤガラは10月中旬にも未だ新芽を出しているものがあった。(中洲のイセウキヤガラは2007年にはヨシに負けほゞ消滅した。)


イセウキヤガラの群落が広がっている岸に、古い時代の石組みの護岸が残されているが、その護岸縁の地面に、ナデシコ科ウシオツメクサ属ウシオハナツメクサがマット状に生えている。下の [No.64B1] は右がイセウキヤガラで、護岸の左側がウシオハナツメクサである。この場所で例年見られるが、この時期は既に花は終わりに近く、全体に冴えない色になってしまっている。

ウシオハナツメクサは関東から九州方面までのの海岸や塩性湿地で見られ、一般に欧州原産の外来種といわれているが、帰化した時期や経路など詳細についてはよく分かっていないようだ。塩湿地の植物には、ウラギクのように多肉質の葉で、浸透圧を維持するために塩分を含んでいる特徴をもつものがあるが、ウシオハナツメクサもそうした塩湿地に対する適応性をもった種類だ。
茎は這うように横に伸び、全体は地表面にマット状に広がる。葉はマツバボタンのような線形の多肉質であり、茎や萼片には腺毛が多い。花は5弁花で径4〜5mmと小さく、中心部は白いが、花びらは淡紅紫色を帯び可憐な印象がある。
同属にウシオツメクサ、ウスベニツメクサがあり、区別が難しく混同されやすい類似種である。ウシオハナツメクサは萼の基部に黒っぽい色の斑点があることが特徴とされる。
2006年には花期に全く間に合わず、2007年の6月に撮ったものを3枚載せているが、この年も撮影時期は遅れている。この時期の写真では黒の斑点が分かりずらい面もあるので、参考のため2006年に上手の南六郷地先の中洲で見られた瑞々しい時期のウシオハナツメクサの姿を載せておいた。([No.64B4])
[No.64B5][No.64B6] は2010年4月に撮ったもの。2007年から洲の方にヨシが広がるようになり、2009年には石護岸を越えた高水敷の側にもヨシが来るようになった。以後この一帯は秋の除草と相まって、丈の高い多くの草種の競合する植生に変貌してしいった。おそらく2010年のこの写真がこの地で見られた最後のウシオハナツメクサだと思う。


 
右に3段22枚続けて載せた写真は、上のウシオハナツメクサの上に4枚載せている2006年のイセウキヤガラ群落と同じ場所で撮ったもので、イセキヤガラ群落と護岸周辺の2007年以後の変貌の経過を追ったもの。
2006年の直後、ヨシが突然群落の中央地点に飛び込んできて定着した。(生態系の保全という観点から、2007年に会を通してこの一塊のヨシを除去すべきだと具申したが取上げられなかった。) 放置されたこのヨシはその後猛烈に拡張し、2007年以降イセウキヤガラは次々に侵略され、次第に外辺に追いやられているが、2016年は未だ上手側に生き延びている。一方護岸に達したヨシは護岸周辺の高水敷に進出して塩性湿地植物群も蹂躙したので、これまで長閑だったこの洲の雰囲気は一変することになった。この3段22枚の写真は、この洲の全体が荒廃していった10年間の経緯を紹介したもの。

最初の [No.647c] は偶然に撮った写真に写っていたヨシ。この塊は前年には気が付いていないが、この大きさから判断するとこの前の年(2006)には既に実生の苗が生まれていたものと推測される。次の [No.64J1] は [No.647c] を撮った年の冬にこの洲を堤防上から撮ったもの。中央部の一塊の茶色い部分は [No.647c] で撮ったヨシに間違いないが、その上手側にパラパラ見える茶色いものはこれでは不明。ところがこの前の月に偶々ここでオオバンを撮った写真( [No.64J2] )があって、その背後に拡大されたものが写っていた。これを見ると塊り以外の部分もヨシで、ヨシはもっと多く定着していたことが分かった。その後の [No.64J3] から [No.64J6] までの4枚は、最初の [No.647c] を撮った2年後になる2009年の秋に拡張したヨシを撮ったもの。この間にヨシは既に相当な群落に拡大している。[No.64J3] は堤防の上からヨシの全体を見たところで、次の [No.64J4] は高水敷に下りてヨシの群落を撮ったもの。次の [No.64J5] は川下寄りの一部でヨシが護岸に達している様子を撮ったもの。(この写真の奥の方の高水敷側に写っている大型種はオギ) 最後の [No.64J6] はヨシ群落の川上側のフロント部。(イセウキヤガラの地上部は冬場半年は姿を消す。)

右の最初の [No.64G1] は2010年の春、洲の下手側に下りて川上向きに撮っている。この時点では未だヨシの下手側にも僅かにイセウキヤガラご残っていた。次の [No.64G2] は同年の初夏の頃、逆に上手側から川下向きに撮っている。次の [No.64G3] は夏になった時点で、又下手側から全景を捉えたもの。次の [No.64G4] はヨシが護岸に達した部分の様子で、この年には既に高水敷の側にもかなりヨシが混じってきていることが見て取れる。次の [No.64G5] は同時期に、水位が上がった時間帯に上手側から見たもの。
[No.64G6] は翌年になる2011年の秋で、堤防の上から川下向きに全景を見たもの。[No.64G7] は同じ時期に護岸側で、洲に出れるように石畳みが作られていた場所から川下向きに見たところ。右手が本流側で、手前は僅かに残るイセウキヤガラで、その後ろはヨシ群落。石護岸の奥の方一部は既にヨシで覆われ藪になっていて、護岸上を歩いて突き抜けるのは困難な状況である。左手側の高水敷は石護岸に向けて傾斜に下っているが、手前側の護岸近辺は必ずしもヨシで覆われた状態ではない。ここは河川敷と繋がっているので、例年ここまで除草が行われる。適度な攪乱が起きるような環境に似ていて、シオクグが優勢だった頃は安定していたが、ヨシが入ったことで、以前のようなシオクグに蔽われた環境は一変し、比較的乾燥した地盤に適合するような種も含め、成長の早い種々雑多な大型種が入り混じって競合するような植生に変わった。

(イセウキヤガラの花や根などの詳細については、「注釈集」の中の <参考26> 「汽水域で春から夏にかけて見られる草木の花」 の中、◎カヤツリグサ科−3(コウキヤガラ・イセウキヤガラ)の頁の最下段の方に、2016年にコウキヤガラとの比較で当地を観察した時に撮ったものを載せている。)

右の [No.64K1] 〜 [No.64K4] は2014年で、最初にヨシが認められた [No.647c] を撮ってから8年目になる。最初の [No.64K1] は5月4日に堤防上から撮ったものだが、イセウキヤガラが少ないように見える。そこで護岸に下りてよく見たのが次の [No.64K2] で、イセウキヤガラは激減してしまったのではなく、苔は生えていて、イセウキヤガラは新芽が出始めたばかりという時期だった。
実際次の [No.64K3] はこの年の6月15日に川下向きで撮ったものだが、イセウキヤガラは結構多く生えそろっている。ただ洲の中央部は空白でイセウキヤガラの群落は護岸下に沿って上手方向に延びていることが分かる。おそらく中央部は満潮時の水深が深過ぎて適性を欠き、堆積によって比較的に高い護岸下に沿って逃げたのだろう。次の [No.64K4] は上手方向に伸びた部分を、こちらは川上向きで撮ったもの。ここは上手方向に進んでいて既に古い石護岸の場所を離れいる。石畳みがある古い石護岸の一帯は本羽田1丁目の地先だが、この上手側の六郷ポンプ所方向は西隣の南六郷1丁目地先になる。(2003年前後に雑色ポンプ所暗渠工事に合わせ、雑色ポンプ所前から下手側になる南六郷一帯の護岸が改修された。)
次の [No.64K5] は翌2015年夏にヨシ群落の川上側のフロント部を撮ったもの。その後の [No.64K6] 〜 [No.64K8] は更に次の年の2016年で [No.647c] を撮ってから10年目の様子ということになる。[No.64K6] は7月下旬にイセウキヤガラの花を観察するために堤防下の泥濘を通り洲に渡った時に、ヨシ群落を川上側から見て撮ったもの。干潮時にはこれだけの裸地が出現する。その次の [No.64K7] は8月初旬に再度観察に行った際に、よりヨシに近接して撮ったもの。ヨシ群落の本流際はイセウキヤガラになっていることが分かる。最期の [No.64K8] は8月下旬で護岸上から見たところ。もうこの頃には護岸沿いの高水敷は種々雑多な丈の高い草藪で、岸辺に出るためには藪を掻き分けて行かざるを得ない状態になっている。この写真は、この辺りでと見込みを付けて護岸に出たところで撮ったものだが、おそらくこの写真で見えている護岸上の草はホウキギクだろう。

上に載せた本羽田1丁目地先の変貌過程の最後に、補足として2009年と2010年にこの場所で捉えたウラギクを紹介する。
最初の [No.64H1] は上の変貌過程の1段目の6枚目 [No.64J5] を撮った(2009年10月12日)に見付けて撮ったウラギク。この地でウラギクが見られるとは思っていなかったので、何気なく見ていてこれを見付けた時は驚いた。
この日はこれ1枚を撮って帰ってしまったが、帰ってから写真を整理していて、もう少し丁寧に調べてくるべきだったと後悔した。そこで3日後の10月15日に出直し、再訪して撮ったのが次の [No.64H2] である。花の趣が先日のものと少し違うように見えなくもないが、周辺にウラギクはこの一株しかなく、12日に撮った [No.64H1] と同じウラギクである。
(これを見ると若いヨシが写っている。この年既に護岸の陸側にヨシが達していたことが分かる。)この日はこのズームを撮ったあと、少し上手側に退いて、このウラギクの周囲の状況を撮っておいた。それが3枚目に載せた [No.64H3] で、中央からやゝ左下の石護岸の近くにある白い塊がウラギクである。(この写真は変貌過程の方に護岸の様子として載せた [No.64J5] の3日後の同じ場所ということになる。)
この地は例年ウラギクが開花する10月中旬に除草が行われる。このウラギクはどこからか飛んできた種子が発芽したもので、偶々開花まで除草が行われなかったため、幸運にも発見することが出来た。然しこれも子孫を残すことなく、綿帽子を作る前に刈られてしまう運命にある。

右の [No.64H4] 〜 [No.64H8] の5枚は、翌年にウラギクの人工撒布試み、その経過を撮ったもの。
2009年にここで一株のウラギクを見付けたことで、翌年にここでウラギクの実験をしてみることにした。この頃左岸のこの一帯でウラギクは絶滅していたが、系統を保存するために東六郷のヨシ原の中でウラギクの畑のようなことをやっていた。天然環境下で他種との共存の可否などの挙動に興味があったので、2010年の早い時期に、ここの護岸沿いの低地で、護岸がヨシに蔽われてしまった地点から上手に向って100メートルほどの間にウラギクの種子を点々と撒布した。
その後定期的に当地を訪れ、芽生えがないかを調べて回った。その折最後のウシオハナツメクサを撮ったりしたが、春にはウラギクを見付けることは出来ず、ほゞ諦めていたところ、6月12日になって遂に [No.64H4] の大きさの株を発見した。護岸がヨシに覆われてしまった場所のすぐ上手に、偶々丈の高い草種が定着していない一画があって、そこに数十株のウラギクを認めた。[No.64H5] は同じ日に一株をズームして撮ったもの。[No.64H6] は7月6日、[No.64H7] は8月6日に撮ったもの。この場所自身は未だ開けているが、東側は丈の高い藪やヨシ群落に蔽われていて、多分日照の関係でウラギクもヨシ原で育成中のものよりやゝ丈が伸びていると感じられる。[No.64H8] は10月2日。蕾はもうかなり膨らんでいて、開花に至るのは間違いないと思った。然しこれが最後の姿で、次に行った時には除草によって根こそぎ伐られた痕を見ることになった。開花直後と思われる時点の除草で、僅かに地面に散った花の残骸が認められた。
前年も開花後に一帯は刈られていて、ウラギクは綿帽子まで至らなかった。ヨシが来て荒れてしまった後の環境では到底無理だが、その前のシオクグなどに覆われた環境であれば、ウラギクは共存できると実証出来たことは収穫だった。たとえ一株でも定着して種子の撒布にまで至れば、翌年には拡散して一気に増え、程無く群落形成に至るだろう。


 
大師橋緑地の葭原は六郷橋下ほど大きくはないが、それでも慣れないと全体像は掴めない。水際に出る道は"道無き道"を含めればおそらく10本程度はある。葦を抜けた水際は低水路と殆ど段差はなく、満潮時の岸辺は踏破出来ない所もある。
何度か撮影に通ううち、2003年春先に絶好のポイントを見付けた。ここから六郷橋方面を向くと、恰も合成写真のように、富士が丁度建物の真ん中に来て遮るものが無くなる。
以下の富士の写真4枚はいずれもこのポイントから撮った。 最初の撮影は2003年3月初めで、天気は最高だったが、[No.644a] に見るように、富士山がベタに真っ白に写ってしまうところに不満があった。(下に載せた参考1も同じ日の撮影)
次の [No.643b] 以下3枚は2005年正月に撮った。この年のこの時期はまだ雪が少なかったとみえ、富士山は2003年に撮った春先の富士ほど真白にはなっていない。この日の富士は非常にクリアで、[No.646b] [No.64F] もこの時撮ったものだが、その後これだけの富士は撮れていない。下の参考2は2006年正月の同じアングルだが、ギャラリーに掲載するほどの写真にはならなかった。

[No.64F] は光学7倍ズームからトリミング。連続する鉄橋のトラスは京急で、その手前に鋼箱桁の六郷橋が重なっている。建物は左が川崎のテクノピアビル群、右は六郷鉄橋群周辺のマンションで、いずれもここからは精々2〜3km程度の距離になる。だがこうして見ると、不思議なことに六郷の風景が直ぐ背後に丹沢山地を背負っているように見える。実際の丹沢山地は富士山までのほゞ中間に位置し、ここからは50kmほどの距離がある。

当地から見て富士の左(南側輪郭線)下に頂上があるのは、丹沢山地の東隣にある「大山」(1251m)。秦野方面から丹沢に登る経路で、最初のパノラマ眺望が見られる「三ノ塔」(1205m)は丁度「大山」の陰になっていて見えないようだ。
丹沢の表尾根は、一旦下った後日帰り登山の目標地とされる「塔ノ岳」(1491m)に至る。(富士の右下(北側)に山頂が見えるのが「塔ノ岳」) そこから先は裏丹沢になり、「丹沢山」(1567m)、「蛭ヶ岳」(1673m)と峰の標高は増していく。「蛭ヶ岳」以後、主要な尾根は西丹沢方向に、檜洞丸(1600m)、大室山(1587m)などがあるが、当地から見えるのは「蛭ヶ岳」までのようだ。

 (2006.1 富士1)    (2006.3 富士2)

右の富士は2008.1.2、7:16頃に撮った。偶々上に載せている [No.643b][No.64F] は3年前の同じ日に撮っている。撮っている時には、同じ朝だしポイントも同じなので、こんなに雰囲気の違った写真になっているとは思わなかった。実際帰ってから調べてみると、今回は3年前の時より時刻は1時間半程度早かった。
2005年の時には日はもうかなり上がっていたが、この日は朝日が丁度テクノピアの左横にある「ミユキ組」のビルに当たって反射しているように、日は未だ低い。殆ど無風で気温は高め、見通しは2005年の時のように良くはなかった。ビル群や富士が水面に映って、まるで湖のような感じになっている。
川崎駅周辺は近年になって西口側の再開発が進んだので、写っている高層ビルを見ることで、ある程度写真の時期を推定することができる。
[No.64F1] で左端になる屋上に3塔を擁したNTTドコモビルは2002年夏には出来ていた。[No.64F2] で左端になるミューザ川崎セントラルタワーは2004年1月に出来た。ミューザとテクノピアの間はしばらく空いていたが、東芝の移転跡地一帯にラゾーナの開発が進み、ラゾーナ川崎レジデンスのセントラルタワーが2007年6月に竣工した。
[No.64F1][No.64F2] では、ミューザとテクノピアの中間にラゾーナレジデンスがはっきり見えるので、以前の写真とは良く区別できる。(尚これらの高層ビルはいずれも125メートル前後の高さらしいが、見る位置によって高さはかなり違って見える。ミューザのドコモ側にアーベインビオ川崎3号棟(2004.1)があり、周辺とほゞ同じ高さの高層マンションだが、川下側からだとミューザの後ろに重なり見えにくくなる。)

大師橋緑地は多摩川緑地や六郷橋緑地ほどには整備されていないが、河川敷にはグランドが作られ、少年野球などによく利用されている。
この場所は改修工事が行われる前は、蛇行水路が川崎側で頂点になっていて、左岸側は高水敷が広く右岸側に張出していた。ただ一面がヨシに覆われるような沼地に近い状態で、耕作地などとしてはあまり利用されていなかったようである。
高水敷の先端に近代になって「大師の渡し」が作られた。「大師の渡し」の右岸側は川崎大師の東門前に近く、穴守稲荷や玉川弁天のあった鈴木新田と結ぶ乗合船「大師の早船」の発着所にもなっていて結構繁盛していたらしい。一方「大師の渡し」の左岸側は、蛇行水路の頂点になる正蔵院のところから、足元の悪い道を桟橋まで延々と歩かされるとあって評判は芳しくなかったようだ。

4月初旬にオナガガモ、コガモ、ユリカモメなど冬鳥が去ったあと、一時の静寂期間があって、5月に夏鳥の先陣を切ってオオヨシキリが渡ってくる。初夏の風物詩というようなオオヨシキリの喧騒は、ペアの形成や縄張りの確定などのためと思われるが、喧しいのは一時期で、営巣に入って子育てする期間は一転して大人しくなり、居なくなってしまったのではないかという印象さえ与える。

   (オオヨシキリ1)    (オオヨシキリ2)

オオヨシキリは飛来した直後の時期は、ヨシの先端に上がって大きく鳴き、周辺を飛び回って派手に行動する。オオヨシキリの口の中は真っ赤なので、オオヨシキリの観察は、青空に向けてオオヨシキリが赤い口を大きく開いている姿を撮ることが最初の目標である。
大師橋緑地先のヨシ原は、六郷橋緑地前に比べれば、緑地からそのまま直ぐヨシ原に入れる、ヨシ原の岸辺に細いながら道があって周囲を歩けるなど、オオヨシキリを撮る条件には向いている。ただヨシの中に深く入ってしまえば、ヨシが蔭になって撮れないので、普通のデジカメで撮るにはそれなりの苦心や忍耐は必要だ。

江東地区から始まる高潮対策が多摩川の河口域にまで及んできたのは昭和の中期、防潮堤工事に先立って水路の屈曲整斉が図られ、この地の高水敷は大幅に掘削された。
それでも低水路に面してかなり大きなヨシ群落が残され、岸辺の散策路から澪筋側の高水敷は手を入れない生態系保持空間ということにされた。
(この辺りの水際は今でも高水敷が掘削された当時のままの姿で、岸辺の水域は堆積によって浅くなってきてはいるものの、干潮時には低水路岸に、抉られたままの泥が切り立つという珍しい風景が1キロメートルほど続く。)
大師橋緑地は整地され河川敷は少年グランドとして利用されている。ただ岸辺の散策路の澪筋側には、多摩川の汽水域を象徴するような光景が広がっている。

当地は建前上では、河川管理が手を染めない生態系保持空間で、実際低水護岸もコンクリートで固められたりはしていない。だが一見したところヨシやオギの群生地と見える土地に足を踏み込んでみると、そこが近辺の住民たちによって私有地化されている実態が見えてくる。当地も御多分に漏れずホームレスの入植は見られるが、ホームレス以上に目に付くのは、あちこちで開墾が行われ、夫婦で家庭菜園や花卉園芸に勤しんでいたり、切開いた場所で朝からゴルフに興じていたりする近辺住民の姿である。この「ヨシ原」の内実は生態系云々とは程遠く、管理が放棄された無法地区と言って憚らない。

右の [No.64C1] [No.64C2] は2007年12月中旬で、久々当地に来て日没を撮った。散策路から岸辺までの無法地帯では、河川事務所の貼り紙や看板が目に付くようになった一方、丹精籠めた区分農地はむしろその数が増えているような印象だった。[No.64C3] は上の日没を撮った2週間後で、ほゞ同じ場所から、振り返って大師橋の方向を撮った。

下に載せてあるヨシ群落の見出しの小画像は、このホームページを作るために写真を撮り始めた頃の、2002年6月初旬の撮影。ヨシは強風のため寝かされていたが最盛期で美しかった。[No.64S] はそれから4年後の2006年5月末。オオヨシキリを撮るために朝方何度か来ていた頃ついでに撮った岸辺の様子(川上向き)。

次の [No.64T] は2006年8月中旬、トビハゼを撮るため干潟に出かける道すがら撮ったもの。[No.64T] に写っている斜張橋は新しく出来た上り橋のもので川崎側。大師橋はこの時点では未だ開通式を行っていないが、既に完成間近で斜張橋は2つ揃い旧大師橋のイメージを再現している。[No.64T] の先を撮った [No.64Ua] は9年後に差替えたもので、この道を抜けると下に載せた [649] が眼前に開ける [64V] に出ることになる。写真は干潟に出る直前で干潟側から振返った向きで撮った。両側に繁茂するシオクグは以前には無かったものだが、背後のヨシとの関係は非常に興味をそそられる。
(シオクグの花や実などの詳細については、「注釈集」の中の <参考26> 「汽水域で春から夏にかけて見られる草木の花」 の中、◎カヤツリグサ科−1 (シオクグ・ヤワラスゲ・アゼナルコ・ミコシガヤ)の頁の始めの方に、2014年6月と2015年5,6,7月に本羽田1丁目で撮ったものを26枚載せている。)

六郷川は東京と神奈川の都県境になっているが、境界線は今の水路の中心線にはなっていない。特に六郷橋と大師橋の間では境界線は激しく蛇行し、頂点付近は一部陸地に突っ込んでいるのではないかと思える。
厳密に言うと右岸側の中瀬の地先(もと「大師の新渡し」があった辺り)のヨシ群落の一部は東京都に入り、左岸側の大師橋下のオギの群落は神奈川県に入っているかもしれない。こうなったのは、この境界線を定めた明治時代に、実際の水路が境界線のように大きく蛇行していたからである。
今この辺りの低水路は明治時代に比べれば2倍くらいに幅が拡がっている。昭和初期までの直轄改修工事は、下流部22km区間の洪水防御のため、高水流量(断面積・高水位・勾配など)の統一的な確保を目的とし、堤防の造り直しや高水敷の造成(削平)を行った。低水路については一部浚渫したが、拡幅などのことは殆ど行っていないようである。

(防潮堤計画についての詳細は [参照19]

昭和8年に改修工事が完了した後、新しい河状を維持する期間に入るが、並行して河口近辺では防潮対策が検討されるようになった。高潮対策事業が本格化したのは戦後になってからで、伊勢湾台風(昭和34年)にショックを受け、それまでの計画は大幅に改訂された。
昭和35年度から始まる高潮対策事業では、潮位(AP+2.00)に偏差(+1.80)を考慮し、高潮遡上(+0.15)、打上高(+2.40)、地盤沈下量(+0.15)を加え、天端高さ AP+6.50 の防潮堤を築くこととした。特に大師橋上下流付近では、流路の極端な屈曲を整正し、波の集中を防止するよう法線を前面に出すこととされた。
昭和40年代までに両岸の高水敷は掘削され、水路の蛇行を均すように水路は大幅に広げられた。左岸の大師橋から上のこの部分は、明治時代には旧提がほぼ岸になっていた。直轄改修工事で造った新提も、ここでは蛇行する流路に沿って切り上げ旧提に繋げていたと想像される。その後の時期に、低水路を浚渫して澪筋の直線化を図る工事が行われ、それまで左岸に食い込んできていた水域を後退させてから、前進した位置に防潮堤を建設したのではないかと思う。
下に掲載した [No.649] [No.64J] は同じ場所を撮ったものだが、かって澪筋が堤防に迫るように湾曲してきていた当地は、今では典型的な塩沼地と化し、防潮堤の法先にはオギが生えるほどの陸もあって、本流は遥か遠くに見える状態に変わっている。

緑地の終点で散策路は堤防方向に切上げてくるが、その奥(緑地の川下側)にはまだ半湿地のような陸部が続いている。この奥の半湿地は澪筋側がヨシの群落、堤防側がオギの群落になっている。
堤防側を占めるオギの群落は、六郷川沿岸のオギの生育地の中で最大規模のもので、オギ単独で群落と言えるほどの集積が見られるのはここだけかもしれない。[No.645] は夏にオギ群落の一画を堤防上から撮ったもので、次の [No.64G] [No.64H] は、少し川下寄りから下流側、上流側を向いて、オギ群落の冬景色を撮ったものである。

ヨシの群落は必ずと言ってよいほど、その外縁(陸側)にオギを伴なっているもので、川辺でオギの存在はありふれたものである。ただ湿地環境自身はヨシに適し、河川敷の方は刈取りに強いセイバンモロコシなどが優占する。広い場所は年に何度かは除草車が入るので、大型種が群落を維持することは困難である。当地のように 「湿地に隣接した低地」 というオギの繁殖に最も適した環境が、広範囲に手付かずで残されているような場所は意外に少ないのである。
 (オギについて詳しくは [参考3]

身近な図鑑類の中には、「オギはススキとの比較に於いて、葉縁がざらつかないので区別できる」と書かれている場合があるが、オギの葉縁には肉眼では見えないほど小さな棘(トゲ)が並んでいて滑らかではないので、この記載は誤解を生じかねない。(昭和36年初版の牧野富太郎博士の「新日本植物図鑑」には「葉は平滑で縁はざらつき」と書かれており、表面は平滑でも葉縁はざらつくことが正確に記述されている。)
(葉縁がザラツクのは、ヨシ,セイバンモロコシ,チガヤなど、この辺りのイネ科の線形葉に共通した特徴で、図鑑などではススキのことが極端に強調される傾向にあるが、実態はオギとどの程度違うものだろうか。あいにくこの界隈ではススキを見掛けない。)

右の [No.64O] と [No.649] は2002年秋オギの最盛期の様子で、防潮堤の上から撮ったもの。[No.64O] は川上向き、[No.649] は正面本流方向を向いて撮っている。(黄色い花が混じって見えるのはセイタカアワダチソウ。)
[No.64J] は [No.649] とほゞ同じ場所の冬景色で、右奥に見えているのはヨシ原の東端にあたる。こちらは偶々満潮時で、2枚を比較することで、本流の手前に塩湿地が形成されていることが分る。防潮堤が作られる以前の水域は、水路自身がもっと大きく手前に食い込んできていたものと想像される。


 
上でオギを撮った [No.649] の塩沼地は引潮途上の光景になっている。手前の湾入部は干潮時には全面に干潟が露出するが、干満の途上では澪筋に沿う部分が先に現れ、湾入部は本流との境の部分が一段高く、湾入口の一帯にマウントが形成されていることが分かる。
元々この湾入部は本流側から抉(えぐ)られて出来たものではなく、三日月湖と似たような経緯で、本流が蛇行部を迂回し短絡するように正された結果、流れから取り残された部分が浅瀬化したものである。

右の2枚の干潟の写真は、ヨシ群落を抜けて干潟に出た所で撮っている。 [No.64V] は大師橋の北詰方向を向き、[No.64W] は大師橋の南詰方向を向いている。本流との境に沿ってやゝ高い部分が川下に向けて延びていることが分かる。
実際に干潟を歩いてみると、このマウントになった部分は砂地に近く、地盤は固く引き締まりしっかりしている。そこより内側は次第に泥地になっていて、ヨシに近付くほど軟泥化し、深く潜るようになる。

この辺りの泥干潟のカニとしては、ヤマトオサガニが圧倒的に多く、ヨシの近辺ではアシハラガニも多い。そのほかチゴガニを広範囲で見る。
軟泥に棲むトビハゼを追っていると見逃してしまうが、干潟を本流と仕切るように形成されたマウント部にはコメツキガニがいる。チゴガニと同じスナガニ科に属し、大きさもチゴガニと同じ1センチ程度で眼が飛び出している。
警戒心が強く動きは素早い。穴の周りに砂団子が多く見られたので、少し待っていると出てきた。体は全体的には黒っぽいが赤紫色の部分があり、脚などは不鮮明な横縞模様に覆われている。
コメツキガニが居ることでも分かるように、このマウントになった部分は殆ど砂地といってよく、固く締まって堰堤のような機能をしている。
当地は上手側の高水敷が掘削されずに残されたことで、水路の一部ではあるものの、流れが淀んで軟泥が溜まりやすい条件が出来ている。一方本流との境にこのマウント部分があることで、泥干潟は本流側から直接波に洗われることはなく、細かな泥が流出してしまうことが妨げられているものと思われる。

関東平野の表層部は、洪積世の時代に富士や箱根の盛んな噴火活動を受け、広く火山灰の堆積層(関東ローム層)に覆われるようになった。多摩丘陵や武蔵野台地などを侵食して流れ下る川は、これらの火山性粘土質を溶かしこんだ微粒泥を多く含んでくる。
東京湾は深く抉れた地形になっていて、海流など外洋の強い流れの作用を受けにくい。泥の供給があって流出しにくい東京湾は、太平洋沿岸としては最も泥干潟が形成され易い条件が整っているといえる。
ただ近世の羽田洲は青松白砂という景勝地で、蛤が名物として有名だったとされるので、有明海のような泥干潟ではなく、幾分粗い砂地に近い浜であったと想像される。近世末期、江戸湾防衛のため、湾岸各地にお台場(砲台)の建設が計画され、羽田でも着工されたことで「羽田お台場」の名が近代まで残ったが、工事自身は結局中止になった。当地のあまりの遠浅環境が立地上不向きとされたことが理由と考えられている。
東京湾は首都圏にあって、その沿岸部は近代に入って急速に開発されることになった。特に京浜間では、運河の開削、工場用地の造成、港湾施設や空港の建設拡充など、沿岸部は工業や都市機能の発展に重要な役割を担うこととなり、沿岸漁業は終焉させられ、干潟環境も悉く消滅することになった。

京浜間で沿岸部の開発が進む一方、多摩川下流部では河身改修が図られ、その後の高潮対策もあって汽水域の低水路は大幅に拡幅された。やがて掘削された部分に土砂が堆積し、汽水域には多くの塩沼地が形成されることになった。
2006年夏、多摩川の汽水域でトビハゼの生息地を3ヵ所確認している。(殿町、本羽田、南六郷の地先、規模はかなり異なり、殿町は大きく、南六郷は小さい。)
近代の多摩川の地図と見比べてみると、殿町2、南六郷3の2ヶ所は当時は陸だった場所であり、本羽田3の方は逆に水路の中だった。つまりこれらの生息地は古くからあったものではなく、昭和の時代に、多摩川の汽水域が大規模に改修された以後、新たに形成された塩沼地の一部にトビハゼが他所から移り住み営巣を始めたものである。

南六郷のトビハゼは2005年から撮影していて、2006年は6月に殿町の干潟に出向いてトビハゼを撮影した。3ヵ所のうち最後にその実態を確認したのが当地ということになる。殿町では多くのペアの行動を見たが、婚姻色の出たオスを見ることはなかった。
[No.64X1] はトビハゼが行動する干潟の様子で、ヤマトオサガニの群れ具合など雰囲気は殿町とよく似ている。[No.64X2][No.64X3] は通常のペアで小さい方がオス。メスの腹部に泡が見えるが、これはよく目にするので、トビハゼの呼吸行為の一部と思われる。

NHKの「ダーウィンが来た」で、同じ(干潟の上を這い回る)マッドスキッパーとして有名な有明海のムツゴロウを特集した。その中でムツゴロウの胸鰭に認められた関節や骨の写真が紹介された。ヒトの腕の骨は、肩から肘までの上腕骨は1本だが、肘から手首までの間は、とう骨と尺骨の2本に分かれていて、この構造が捻(ねじ)るなどの器用な動きを可能させている。骨が2本になっている構造は、鳥類の翼の骨にも見られ、よく翼と腕との対比がなされるが、驚くべきことに、ムツゴロウの胸鰭の骨も2本になっているのである。

トビハゼは警戒心が強く、撮影者が風景に馴染み、カニ類が平静行動を再開したあと、しばらく経たないと姿を見せない。[No.64Y1] はメスで通常ジャンプを行う前の屈曲姿勢。[No.64Y2] はオスでオスにのみ一時期表れる独特の婚姻色を出している。
この日このペアは臆せずに私の方に近付いてきた。私はバードウオッチャーが持つような望遠レンズを持ち歩かないので、トビハゼがこの大きさに撮れるということは、彼らが直ぐ足元に来ていることを示している。
[No.64Y3][No.64Y4][No.64Y5] では私と彼らは完全に目が合っていて、彼らが私の存在を意識していることは間違いない。勝手に解釈すれば、挨拶しに来てくれたと思いたいところだが、実際には私が彼らの巣穴の場所を荒らしていて、彼らが怒って抗議をしにきたということではないか。10センチ足らずの彼らに、野生種の尊厳を見る思いがした。

  (トビハゼ1)    (トビハゼ2)


 
[No.648b] [No.64D] は 本羽田公園沿いの桜並木。
[No.648b] は分岐点がある防潮堤管理通路の上で桜並木を見ている。左手が本羽田公園で、通りの右手には町工場が軒を連ねている。この桜並木通りは防潮堤のすぐ裏から始まり、斜め下手に進み「旧提通り」に突当るまで続く。逆に海老取川の方の玉川弁天前から、防潮堤裏通りに沿い、大師橋を潜った後も旧提通りに続いていた「旧赤レンガ提」は、この桜並木通りを分岐するその位置で終わっている。
つまりこの桜並木道は新提と旧提を繋ぐ位置にあたり、防潮堤が出来る前の堤防(直轄改修工事で作られた当時の新提)の末尾はこの通りの場所だったのではないかと思わせる。
[No.64D] は少し並木道に入って、そちらから反対に川の方を見ている。堤防天端の縁沿いの段部は、防潮堤の頂き部分(川表が波返しになっている裏側)で、川はこれに隠れて水面までは見えない。遠景は対岸の景色になるが、上流方向を向く形になるので、見えているのは川崎の中心部になる。

大師橋の1キロメートル余り手前から、一般堤防は防潮堤に置き換わり、以後羽田空港敷地沿岸まで数キロメートルは防潮堤が続く。塑性体で出来た堤防は主として洪水による静水圧を対象にしているが、防潮堤は弾性体で作られ、高潮や津波など海を照準にし、波浪による破壊力に対抗することを主眼においている。

桜並木通りを分岐した後、大師橋までの防潮堤管理通路は、公園風の寛いだ作りになっている。川裏側には生垣が設けられ、何種類ものツツジやサツキが植えられている。そこに(点灯したところを見たことはないのだが)大小・丸角交互の街灯も並べられている。
[No.64D1] は冬の日に珍しい赤色が冴える、この場所のドウダンツツジを撮った。
ここは蛇行水路時代には、水域が桜並木の線に沿って入り込み、正蔵院の近くまで達していたところで、流路の屈曲を整斉し水際線を押し出して防潮堤を作ったので、今でも満潮時には堤防のすぐ裾の近くまで水がくる。 六郷川左岸の河川敷は、大師橋上手の防潮堤が始まる場所で事実上終わる。
大師橋緑地が終わったあとも防潮堤の法先に通行可能な狭いスペースが続くが、大師橋と首都高速の間に羽田水門があり、高水敷の連続性はそこで完全に断たれる。

右下の小画像は大師橋を潜った川下側にある羽田水門を、川裏の船溜りの方から見たもの。撮影している場所は、大師橋を潜ったあと川岸に出るための専用の細道の入口辺り。この道は斜めに川に寄っていく形になっていて、この先で防潮堤上の管理通路に上っていく。かつてはこの道の陸側が川岸になっていて、今船溜りになっているところには、防潮堤が出来る以前は入江で桟橋が何本かあったようだ。

[No.650] は大師橋の下で川下側を見ている。堤防法先を辿ると、グレーの鉄製の手すりが見える。そこが羽田水門の水路になる。(画面左端の黒と白が羽田水門の側壁)
羽田水門は大師橋と首都高の間にあり、堤防裏に「羽田の渡し(六左衛門の渡し)跡」の碑がある。大師橋下手(羽田水門から先)の左岸は、もと羽田猟師町の沿岸中心部だった所。現在ではコンクリート製の防潮堤が完備されている。
法先一帯は遊漁船の管理するところとなっていて、独特な風景を生み出しているが、海老取川口まで夥しい数の桟橋が造られ、無許可の構築物と数十艇に上る不法係留船舶(クルーザヨットなど)の存在がかねてより問題になっていた。

2008年2月までに、河川事務所は首都高速の前後2ヶ所に桟橋を設置した。ここに不法係留船舶の一部が移動させられ、2008.2.19に羽田3丁目地先で、不法係留船舶と設置された工作物撤去の行政代執行が着手された。(船舶の撤去は桟橋だけでなく、羽田第2水門内部も対象にして行われた。)
行政代執行は平成19年度と平成20年度の2度に分けて段階的に行うと掲示されている。伝聞によれば、河川事務所は、六郷橋下手右岸の営業桟橋についても、国有地の無断使用を看過し続けることは出来ないとして、秋までに強制撤去に乗り出すという。(この範囲では、船舶の係留だけでなく、水上スキーの講習会が恒常的に行われるなどしている。)
小型船舶については、購入時に車の車庫証明のような義務が課されていないという、法的な不備も指摘されていて、この問題がどのような経過を辿るか注目される。)

 (羽田水門の写真は以下に  [No.71F][No.71D][No.71A4][No.71A5][No.71C1]


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