第六部 六郷橋から大師橋 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その3 河港水門から新日鉄水門へ


[No.631] は六郷橋の上から右岸(川崎側)の景色を見たもの。手前の"DENON"は平成13年に日本コロンビアから分社化したAV・メディア関連機器部門の新会社。その向こう側がソフトコンテンツ事業に特化した日本コロンビアで、手前側「旭町」は昔の「新宿」、奥の「港町」は昔の「久根崎」と重なる部分が多い。
川崎宿はその昔「久根先」と「砂子」から成っていたが、東海道が整備された元和元年(1615)頃、正式に宿駅として成立した時には「新宿」「堀之内」を合わせ、その後南の「小土呂」も宿駅に編入されて川崎宿が構成されていた。(旧「砂子」(いさご)のうち六郷橋から京急までの間は現在は「本町」と呼ばれている。)

六郷橋下の右岸川岸は今ではトローリング用クルーザーなどの繋留場になっていて、橋の袂から川下に向けて浮桟橋が何本も連なり、さながら”川崎マリーナ”といった趣(おもむき)だが、私が小中学生時代を過ごした昭和30年代には、六郷川一帯にヨット類などの影は無く、六郷橋の川下側の袂には、台船のような体裁の貸ボート屋が2軒あった。(川上側にもあったと思うが記憶は定かでない)
昭和30年代は未だFRP素材が普及する前の時代で、貸ボート屋には錨を積んだ木製のボートが数十艘繋がれていた。休日にはハゼ釣の人たちで結構賑わい、私も父親に連れられてしばしば”出漁”した。
ここを出て川上側に行く人は殆ど無く、六郷水門の下手辺りまで下り、右岸寄り(味の素側)の澪筋沿いで釣る人が多かった。夏を越すと結構型が良くなり、調子が良い日には1人100匹前後の釣果があった。
この辺は昔も今もボラは多いが、ハゼ釣りの態勢でボラが掛かることはなく、外道といえばカレイが1、2枚交じるのが普通だった。 (近年多摩川大橋から川下側の岸でセイゴ(スズキの幼魚)が釣られているのをしばしば見るが、その当時ハゼ釣りの釣果にセイゴが交じったという記憶は残っていない。)

ごく稀にマルタを釣る人がいた。俗にマルタと呼ばれたマルタウグイは降海性のコイ科魚類で、汽水域に棲み春から初夏に掛けて中流域まで遡上して産卵するらしい。一時期全く姿を消していたといわれるが、近年アユに次いで多摩川に甦ってきた魚種の代表格としてニュースに取り上げられ、時折テレビでもその映像が流されている。
(マルタウグイは、テレビでは赤橙色のラインが印象的な派手な色の魚として紹介されるケースが多いが、赤色の縦条は産卵期に特有の一時的な婚姻色らしい。当時この辺で見られたマルタは皆銀鱗一色のものだったので、自分にもマルタはそのような魚としての認識しかなく、最初にテレビ映像を見たときには別の魚ではないかと思った。)
カレイは”下駄か?”と思われるほど反応が無く、姿を見た瞬間にサプライズとして大いに喜ばれた。この辺りでは羽田沖に出て釣れるものほど大きいものは少なく、釣れても精々2〜3枚というところだったが、稀には岸でも釣れるほど普通に居たものである。一方マルタは大抵20cm前後の未成魚で、ヒキが強かったので釣人に愉しまれはしたが、持って帰る人は誰もいないという代物だった。

[No.63E] は2002年の秋台風一過の増水時に、味の素の方から六郷橋の袂付近を撮ったもので、背景を見ると当時テクノピアやドコモビルは既に出来ていたことが分かるが、ミューザやラゾーナなどその後の川崎駅前の再開発ビル群は未だ姿を見せていない。

六郷橋川下の右岸は、橋の袂が「旭町」、コロンビアから河港水門までが「港町」、味の素の前が「鈴木町」、六郷水門と向合う辺りからが「中瀬1丁目」、青屋根のコマツの教習所がある位置が「中瀬3丁目」、その川下側の再開発地が「大師河原1丁目」と、町名が目まぐるしく変わる。
コロンビアから味の素に移る地点にある河港水門は、内務省による多摩川下流の大改修工事のさ中、大正15年に着工し昭和3年(1928)に完成した。(同じく改修工事中に作られた対岸の六郷水門は3年後の昭和6年に竣工している。)
この水門が年代のわりに綺麗に見えるのは、昭和61年に保存のため川崎市によって全面的に改修が施されたためである。(平成10年に国の登録有形文化財に登録された。)
この河港水門を設計したのは、大正13年から昭和4年まで多摩川改良事務所(大正9年に多摩川改修事務所に名称変更、その後京浜工事事務所を経て現在京浜河川事務所となっている)の所長を務めた金森誠之(しげゆき)である。
内務技士であった彼の作品には、レンガ積みの際に鉄材を組み込み、張力にも強いレンガ構造を実現する、金森式鉄筋煉瓦(レンガ)が合成材として使用されている特徴がある。
門扉は鋼製のローラーゲートで、幅9メートル高さ7.5メートルと記されている。柱頭に据えられた怪獣の頭のように見えるのは、当時一帯の名産であった梨・桃・葡萄を篭に入れた構図で、装飾部分は別の建築家によるものらしい。

門柱・梁のベージュ色は川崎市による改修時にモルタルを吹付けたものと思われるが、「川崎市史」に載っている完成当時の写真(川裏方向から撮ったもの)を見ると、梁の中央に古代西洋風の船のレリーフが浮出ていたことが分かる。(この装飾位置は [No.633] とは反対側になるが、今では失われていて、裏側から見ても何も認められない。)
左岸の六郷水門は、排水路の出口として設けられたが、この河港水門は大運河構想の一環として作られたと言われている。運河は川崎を縦断して六郷川と池上新田を繋ぐものなど数本から成るものだったが、戦局が悪化した昭和18年に計画全体が廃止された。
運河は実際には220m掘られただけで計画中止となり、現在は水門の奥80mほどの間が船溜りとして残されている。その縁を京急大師線が通っているがここから電車は見えない。
水門の総工費は54万円で、その内の10万円を味の素が寄付したそうだが、味の素専用の河港というわけではなく(市営)、砂利の運搬など実際の運営は、市から委託された港町の利用者協議会が行ってきたという。
船運は僅かながら現役で、日に数回資材運搬船が出入しているそうである。(当地の掲示板には、千葉方面からの砂利の陸揚げ施設として使用されている、と記載されている。)
[No.634] はたまたま通り掛かった時に、水門から出てきた所を撮ったもので、この船は川中で向きを変え河口方面に下っていった。  

「味の素」が逗子工場で創業したのは明治42年(1909)で、グルタミン酸ソーダの本格的な操業は、大正3年(1914)川崎工場を建設して行われた。(戦前は「鈴木商店」と称し、社名を「味の素」に改称したのは1946年である。)
味の素は当初立地として東京府下六郷村を予定したようだが、地元の農民漁民から化学工場の進出に対する反対運動が起こされたため断念し、誘致の便宜を図った川崎側に落着いたとされる。(当初の敷地は今の1/3程度だった。)
川崎工場が操業されると間もなく、橘樹郡川崎町でガス発散による果樹・農作物の被害が頻発し、大正13年には工場排水による水質汚染によって羽田浦に被害を及ぼした。
味の素川崎工場の汚水流出による海面汚染は、その後も昭和3年、昭和7年と発生し公害問題は長く尾を引くことになる。
私が子供時代の昭和30年代にも、(風向きによって)強烈な臭いが対岸まで漂ってきた。ただ当時の六郷周辺には鋳物や鍛造工場が密集していて、大気は汚れ刺激臭の発生源はあちこちにあったので、味の素の異臭についても半ば諦めという状況だった。
(今でも河港水門水路に曲る川下側の角辺りでは、独特の甘ったるい臭気を感じることがある。近代に川崎町の多摩川沿岸に拠点を構えた多くの工場は既に移転したが、味の素は例外的な存在で当地での設備増強を図っている。)

鈴木町河川敷から中瀬河川敷の一帯は、味の素からの樋管(排水口)が何本か通り、河川敷はあまり利用されていない。それでも休日は河港水門周辺から鈴木町地先の船着場跡にかけて、釣り糸を垂れる家族連れを結構見掛けるようになった。ただ国交省は管理より工事の方に夢中で、沿岸住民のことは眼中に無いとみえ、釣り人が水上スキーに掻き回され苦りきっている光景は一向に改善されない。
[No.63A] と [No.636] は、鈴木町河川敷の市営ワイルドフラワー花壇の今昔。今昔といっても僅か半年のことである。この写真集はドキュメンタリーではないが、こういうものを撮る結果になることもある。(左の [No.63N] はずっと後の2007年6月の同じ場所)
上の [No.63A] は2003年梅雨時の荒れた「花壇跡地」で、昼咲月見草が群れ、敷地の一部は地元老人会が畠にして開墾したりしている。(昼咲月見草については [参考26] の「アカバナ科」の中で説明している。
左の2枚目 [No.63B] は2004年の初秋で、花壇跡はすっかり綺麗に整理されている。
下の [No.636] は上の場所とは別の、鈴木町と中瀬の境界付近にあったワイルドフラワー花壇で、2002年秋に撮った。(マリーゴールドは近年、カロテノイドの一種「ルテイン」を抽出するサプリメントの原料として有名。網膜中心の黄斑部(macula)には、昼間視細胞が集中する中心窩(fovea)があり、全面を覆う黄色素が青色光を吸収し、視細胞がダメージを受けないように守っているとされる。ルテインはここに関わるらしい。)
その下の [No.636] は、中瀬河川敷から大師河原の堤防下に広がるヨシ群落。堤防下だけ通路として草を刈っているように見えるが、実際には高水敷はこの幅が全部で、ヨシの生えているところは低水路と繋がる。

このヨシ原の川裏は小松製作所になっていて、旧日鉄建材との間の道を抜けると川崎大師(平間寺)の東門前(ひがしもんぜん)に出るという位置関係になっている。
ヨシ原が終わる辺り([No.637] でヨットが繋留されて見える小屋の手前辺り)に、昔「大師の渡し」の船着場があったという。 (明治後期当時のこの辺りの流路、「大師の渡し」の位置、渡しに至る前後の道路関係などについては以下の参考図2枚(左端)を参照
「渡し」というと、古いものが次第に廃止されていったイメージが強いが、「大師の渡し」は珍しく明治29年に開業、川崎大師参詣人目当てに開設された(「作場渡し」を兼ねた)「新渡し」だった。又ここの船着場には対岸との渡しとは別に、穴守稲荷や羽田弁天のあった鈴木新田と川崎大師を結ぶ「大師の早船」と呼ばれる乗合船も運行されていた。
2002年この写真集を撮り始めた頃、小松製作所と旧日鉄建材の境目辺りの川原には、既に何の痕跡も認められなかったが、500メートルほど川上の護岸が崩れた岸近くの浅瀬に、「ここにも昔船着場があったのではないか」と思わせるような、朽果てた杭が何本か残っていることを発見した。
川崎の図書館で調べているうち、「川崎の町名」(日本地名研究所編)という本の中に、「川崎大師の筋向いにある『明長寺』の脇を『早船道』といい、多摩川に突当る所を『小屋の下』といった。大正時代には『小屋の下』からも『さじ澪』(海老取川)の岸に着く早船が出ていた」という記述を見つけた。
川崎大師参道の途中にある明長寺の脇を入ると、小松製作所と旧日鉄建材の境目辺りで川に突当るような道が今もあることが分かった。(朽果てた杭が何本か残っていた辺りの護岸はその後改修され、2003年には籠マット護岸に変わった。)

旧川崎町の多摩川沿岸に近代工業の各業種の工場が集積したのは、明治40年(1907)、羽田で反対が起きて六郷橋上手(現ソリッドスクェア敷地)に立地した明治製糖(横浜製糖)が最初で、以下日本コロンビア(1910:日本蓄音器)、味の素(1914:鈴木商店)と続く。 (JR駅前の東芝は1908に前身の東京電気が操業を開始している。この事業所は2000年に撤収更地化されたが、2006年に商住複合施設「ラゾーナ川崎」が誕生した。)
味の素のプラントのあと、大師橋までのこの区間には(1932年当地で操業を開始した池貝自動車製造を1952年に吸収合併した)小松製作所の一画があり、近年までその川下側に新日鉄(1917:富士製鋼)の系列会社があった。(小松製作所は川側の一部に「コマツ教習所」を残し、2004年に大半の部分を撤収した。)

昭和9年(1934)官営八幡製鐵所を母体とし、富士製鋼など6社を合併して日本製鐵が創立されるが、昭和25年に過度経済力集中排除法によって八幡製鐵、富士製鐵の2社に分割され、昭和45年に再び両社が合併して誕生したのが新日本製鐵である。ここは大正時代に富士製鋼だった所で、水門は合併により新日鉄が誕生した翌年に出来たため、新日鉄水門と呼ばれた。

当地の最後の社名は日鉄建材工業だったが、いつの間にか引払われて更地化され、2002年以後は水門ともども、都市基盤整備公団・土地有効利用事業本部の管理下におかれた。今では水門も新日鉄水門とは呼ばれず大師河原水門と称するようである。
川崎市という土地からは第一感として日本鋼管(現JFE)が思い浮かぶが、鶴見方面の沿海部に立地したため、こと多摩川沿岸ということになると社名が出てこない。一方八幡や室蘭が有名な新日鉄にとって当地のウエートが如何程のものであったのかは知らないが、既に撤収され再開発が進む敷地の一隅に、今も「富士製鋼発祥の地」としての記念碑が残されている。古き良き時代の日本の心意気を残しているような文面なので、(永野氏の自筆と思われる)その全文を紹介しておいた。
永野重雄は大正末期に富士製鋼の再建に関わったことから製鉄業に身を投じ、昭和9年の製鉄大合同で日本製鉄富士製鋼の所長、昭和45年の再合併時には新日本製鉄の初代会長に就任した。日本商工会議所会頭を長く務めたことでもよく知られ、この碑文を書いた2年後まで在職していた。

大師河原水門の周辺はスーパー堤防となり、そこに「大師河原水防センター」が出来ていて、非常時用の装備品などが備蓄され防災の拠点になっている。(日常は「干潟館」として水辺の楽校が運営されている。)
ここから南側に下りていくと川崎大師の「東門前」に出る。そこから参道に出て、松月庵の角を曲がり直ぐ松屋の角を曲がると、達磨、のど飴、葛餅などの売店が並ぶ仲見世通りになり、その終点が平間寺の大山門になっている。

川崎大師は通称。正式名は真言宗智山派の本山で金剛山金乗院平間寺という。開基は高野山の高僧尊賢上人で、創建は1128年、本尊は厄除弘法大師木像である。
近世から厄除け大師として知られるが、現在のように発展したのは近代からと思われ、そのきっかけは大師電気鉄道(京急の祖)が出来て参詣客が増えたことによる。(初詣という風習は近代になってからのことで、京浜電気鉄道が注力した川崎大師が元祖と言われる)。
昭和の後期になって、消失して仮になっていた本堂や山門などを相次いで建立し、更に1984年には、弘法大師1150年御遠忌・大開帳記念として、八角形が特徴の堂宇八角五重塔(「中興塔」)を建立した。

(左の大本堂の写真は2014年1月12日に撮った。もっと以前には正月三が日に並んだこともあったが、凄い混雑のため嫌気し、その後元旦には六郷神社で初詣、川崎大師には正月の喧騒が静まった頃に行くようになった。)

2004年に落慶した経蔵のご本尊は「説法釈迦如来像」だが、ここに入ると天井や周囲の艶やかさに目を奪われる。
平間寺のHPによれば、天井の中央に描かれた丹青画「双龍」は、韓国の重要無形文化財・丹青画匠技能保有者・李萬奉によって画かれた。龍は仏教の守護神(仏の化身)として日本に伝わり、お堂の天井や襖にこれを画いて龍の加護を願う。
天井中央の「双龍」を囲む四面は、染川英輔氏によって描かれた「飛天」の絵。飛天は、空を舞い、音楽を奏で、花を撒き、香を薫じて仏をたたえる天人で、女性的な姿であらわされ、天女ともよばれる。

左見出しの小画像は「不動門」。戦後の1948年に有縁の地から譲り受け、戦禍により焼失した山門の跡地に建立されていたが、1977年現在の大山門が建立に伴い南側の現在地に移築された。
平間寺の境内は、大山門を潜ると大本堂(1964年落慶)までの両側に「お水屋」、「献香所」、乾隆版大蔵経などを収納する「経蔵」、「お札場」などが続くが、広い境内の中央には異彩を放つ「中興塔」(八角五重塔)(弘法大師の入定一千百五十年にあたり、本尊大開帳の記念事業として1984年に落慶)が聳え、大山門横には聖徳太子像を奉る「聖徳太子堂」、大本堂の隣には茶道に関わる「中書院」、空襲から唯一消失を免れた「福徳稲荷堂」、成田山新勝寺から本尊の不動明王を勧請した「不動堂」が並び、「西解脱門」の側に大本堂再建まで仮本堂として使用されていた「大本坊」、豪華な信徒会館等々多彩な堂宇が並ぶ。

1964年に本堂の境内「大本坊」の裏側に創建された「自動車交通安全祈祷殿」が、その後大盛況となったため、2006年4月に大師河原(干潟館の南)に用地を確保して、新たにヒンドゥ教式の建築で砲弾状の高塔を三本建てたインド寺院風の堂宇を建立、自動車交通安全祈祷殿は境内の外に移転させることになった。もとの建物もインド風の堂宇だったが、「自動車交通安全祈祷殿」の移転後は「薬師殿」となり現在の建物は2008年に落慶した。
最後の1枚は平間寺の境内で、南側の不動門の近くにある鶴の池に架かる「やすらぎ橋」の袂から薬師殿方向を見たところ。下に参考写真を載せている交通安全祈祷殿に似ているが、こちらは境内の南端大本堂の裏手にあり、境外にある「自動車交通安全祈祷殿」とは別の建物である。

平間寺の敷地の南西側に隣接して大師公園が広がる。大師公園は何の変哲もない公園だが、その南西側の一画に見慣れない中国風の庭園(瀋秀園)がある。
この庭園は、川崎市と友好都市の関係にある瀋陽市から、1987年に友好都市提携5周年を記念して寄贈されたという。

(下の参考写真の方は、川崎大師の新しい交通安全祈祷殿が、本殿伽藍から離れたここ富士製鋼発祥の地の一画に、別棟としてインド寺院風の様式で建築された2006年に撮ったもの。この頃、新しい「薬師殿」から川までの範囲は更地化されていて、堤防上からもよく見えた。)
   (2006.1 堤防上からから工事箇所越し)  (2006.6 完成後浮島通りの正面側から) 

近年は上手側の跡地に長谷工の一大マンション群が出来、島忠ホームズを中心にショッピングセンターなども完成している。

製鉄業は近代日本の原動力となり、高炉の技術は世界トップレベルにあるが、鉄鋼・造船重機など重厚長大産業の全体が自動車・電機など技術開発型加工産業の陰に隠れ存在感の薄い時期もあった。
近年中国などBRICs諸国に代表される開発途上国に著しい工業発展があり、素材やエネルギー需要が飛躍的に高まることになって、素材産業の中核を成す製鉄業には世界的な再編気運が高まり、2006年の株式市場では、新日鉄やJFEなどの鉄鋼メーカーがトヨタ、ホンダと並び一躍買いを集める状況になっている。2013年には合併により新日鉄住金が誕生。

旧日鉄建材の敷地前(河口から3キロ地点)にある新日鉄水門は、昭和46年(1971)に出来たもので、この界隈の建造物としては比較的新しい部類に属する。

この水門は、門扉の面積が川上側にある河港水門の6倍近くあり、見るからに巨大である。日立造船の製作で、幅16.6m 高さ23.8m 重量58t、開閉速度0.5m/min などの刻印が残されている。
色合いは左岸の羽田沿岸に2つある水門に似ているが、こちらの方がかなりいかつい。(アーチ状のガードレールが堤防天端面になる。)
(下の川裏から見た参考写真は、「浮島通り」まで出てしまって、川崎大師参詣者専用駐車場越しに撮ったものである。)

引き込み水路が短いせいで、高水敷から正面のまともな写真を撮る余地はなく、水門の全景を撮るのは対岸の左岸側からということになる。
[No.63F] は2006年夏、トビハゼ撮影のために本羽田地先の干潟に通った際、正面に見える水門を撮った。写真は綺麗に撮れるようになったが、水門は常時締切状態で景観としては物足りない感じもする。
[No.63H] は大師橋緑地のオギ原を撮っていた時に偶々背景として写っていたもので、従前は参考写真として小さく載せていたが、門扉が上がっていて水門らしい雰囲気があるので、2006.12にこのページを改訂した際にギャラリーに格上した。
水門の中は奥行き100mあるかないか程度の船溜りになっていて、写真は2004年秋だが、2003年はじめ頃から、水路幅一杯くらいの引船が頻繁に出入し、水運も建設残土の運び出しなどに利用されていた。

新日鉄が去ったあと水門は「大師河原水門」と呼ばれるようになり、防災に使い得るとして水門と引き込み水路は残された。やがて水門は耐震化を図るとして門扉が外されたが、その後戻される気配は無く、枠だけの味気ない雰囲気となっている。
[No.63Q] は2014年1月、左側の建物は出来たばかりの「大師JCT」で、神奈川1号横羽線と神奈川6号川崎線(アクアラインから続く高速川崎縦貫道路で、浮島、殿町を経て大師橋に至り、当面六郷橋まで掘り進んでいるところとされている)、それと在来道路の産業道路、浮島通りの4本を結んでいる。
   
 (川裏から:2003.2)

この旧新日鉄水門を含む川上側約1haの一画には、国交省京浜河川事務所による「大師河原防災ステーション」の建設工事が進行中である。
災害時の救助や復旧の拠点となる施設ということで、一帯は高規格堤防化が図られ、既にヘリポートなど一部施設は完成して見える。広域防災拠点である「東扇島地区」との連携を図るとされている。これに伴い「大師河原水門」の耐震化も検討されているそうである。

大師橋のことは「第七部 その1」で詳しく説明しているが、2006年11月に改架の主要工事が完了して、新大師橋が全面開通している。上り橋は下り橋とほゞ対称に造られ、全体として旧大師橋のイメージを再現するようになっている。
平成9年(1997)先に完成した下り側3車線分を、上り2車線下り1車線の形で暫定供用し、その後旧橋を撤去したあとに上り橋の工事が橋脚建設から始まっていた。
[No.640a] [No.63G] は2004年秋、ついに見えてきた上り橋の斜張橋の主塔を撮った。主塔は2004年7月頃建てられ、周囲の全体は足場で囲まれ内部で作業が行われた。この写真の時期(10月)には橋を吊るためのワイヤー本数は未だ少なく、左岸側に続く鋼桁橋も未だ姿は見えない。2005年4月に斜張橋は片側7本ずつのワイヤーを全て張り終え、鋼桁橋も左岸に渡って上り橋は形になった。5月には斜張橋主塔の囲いが外され上り橋はその全容を現したが、開通まではその後更に6ヶ月を要した。
 

大師橋の上り橋は2006年11月11日に開通式典が行われた。[No.63D] はその1ヶ月あとで、周辺では未だ工事が続いているが、大師橋としては6車線が全面開通となった。撮影位置は旧新日鉄水門のそばで、前に撮った [No.640a] に対応する。
大師橋の右岸川上側一帯は再開発中で、橋の袂右岸側に首都高速・大師インター(仮称)が出来る。
東京湾アクアラインが浮島JCTで湾岸線と交叉した後、北西に延びる首都高速・川崎縦貫線は、殿町インターまでの数キロは高架で既に開通しているが、その後は殿町第三公園の辺りで地下に潜り、409号線(浮島通り-大師通り)に沿った経路で地下を進み、2004年現在第一京浜国道(川崎競馬場の北側)までが工事中になっている。
大師インターはこの間にあって、409号線、131号線(産業道路)及び首都高速・横羽線を複合的に結ぶものと思われる。
新日鉄やいすゞ自動車など、大企業が右岸から撤退する場合、その敷地は大抵の場合「都市基盤整備公団」が買いスーパー堤防化が図られる。なお都市基盤整備公団は「日本住宅公団」に起源をもつもので、2004年7月に地域振興整備公団の地方都市開発整備部門と合併して、独立行政法人・都市再生機構と改称している。(略称:UR都市機構) 国交省が所管し純粋な民間企業とは異なる。
 



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