近代まで六郷川と呼ばれてきた多摩川の最下流域は、両岸の水除提によって仕切られた川幅が1キロメートルに及び、その中を蛇行した水路が走っていた。水路の周囲は耕作地として利用され、六郷の渡しや羽田の渡し以外にも、農民が行き来するための作場渡しを兼ね、矢口の渡し、小向の渡し、大師の渡しなど多くの渡しが設けられた。橋が作られなかったのは、一帯が氾濫原のような条件下にあり、洪水の度に流失してしまう橋が不経済で非現実的なものだったからに他ならない。
多摩川はこの規模の川としては急流の部類に属し、洪水によって運ばれてくる大量の土砂は、羽田・大師河原の河口一円に広く押流されて、海岸に遠浅の干潟環境を形成していた。弁天社前の茶屋で「蒸し蛤」として売られた羽田洲のハマグリは、「弁天の蛤あじな羽根田浦」(狂歌)ともてはやされ、寛政6年(1794)の「四神地名録」には、荏原郡の名産は「大森の海苔・玉川の鮎・羽田の蛤」の3つと記されていた。

大正時代後期に始まった多摩川下流部の改修工事に於いて、両岸には新たに堅固な築堤が行われ、新提では川幅は500〜600メートルに縮減統一された。昭和の中期には、洪水の流下水量確保と高潮対策を兼ねて、蛇行水路両岸の高水敷が大規模に掘削され、水路の一大拡幅が図られて川の姿は一変した。
一方経済発展至上主義の時代に入り、川身改修とは無縁の次元で、羽田洲はその全域が埋立てられてしまうことになった。多摩川の河口部は土砂を押し広げる海岸環境を失い、左岸の羽田空港(沖合展開)、右岸の殿町、浮島町に挟まれて、河口延長水路が海の中に延々と数キロメートルも続く異常な姿に変わった。
 
昭和の中期に多摩川下流は都市生活の排水路と化し、生物が激減したが、近年水質の改善努力が奏功して、降海性魚類を含む生物種の復活は目覚しい。
ただどんなに水質の改善が図られても、河川にあるべき河口本来の環境が失われてしまった状況に変わりはなく、干潟や浅瀬を繁殖要件とする汽水生物の復活は、当然のことながら儘(まま)ならない。汽水魚の代表種ともいえるマハゼは、地域絶滅危惧種にこそ取上げられていないものの、昭和30年頃に比べれば著しく減少した状態にあり、近年改善されてきたような兆候は窺われない。

その後六郷川の低水路では随所で、かつて高水敷が掘削され水路の拡幅が図られた場所に土砂が沈積し、元の地形を取戻すような自然の営みが進行している。陸化に至る過渡的な現象として、旧澪筋に沿う岸側に塩沼干潟が自然造成され、そこにヨシが進出することで土砂の堆積が一層促進されていくように見える。
当地のトビハゼもかつては河口干潟に生息していたのだろうが、子孫がここまで上ってきて仮の生育環境を得、かろうじて生延びてその姿を留めているのではないか。
掲載している写真は潮が差してきた時点で、干潟から出てフトイの群生地に退避する途中のトビハゼを撮った。(乗越えている枯草はフトイの前年の茎が倒れたもの。)上潮による増水のスピードは非常に速く、干潟はほんの数分で水没してしまう。2枚の写真の撮影間隔は48秒。手前側の枯茎の向きが違って見えるのは、この間に水位が上がり水に浸かった部分が水圧で変形しているためで、上潮時の水流には小川ほどの勢いがある。 (ただ岸辺にくる水の表面には油のようなアクが浮き、ゴミに満ちた水路の一帯は、恰も汚水が流れ込んだかのような不快な景色になる。)


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